閑話 空箱の底で夢を見る
「お父様、今夜は無月のようですが、大丈夫ですか?」
「おや……今日は風が強く吹いているからね。でも問題ないよ。ちゃんと通れる」
シヨは不安げに空を仰いで問いかけると、隣に並んで歩く父――久寿は朗らかに笑い、『通路』を開いた。
その光景を初めて見たシヨとサツキ、ムイとナナは興奮気味にはしゃぎ出し、既に見ていたハジメはまるで我が事のように得意げに胸を張り、傍らにいたニコとサンはやれやれと肩を竦めた。
「わぁ、本当だ」
「月、なくなってしまったのに」
「雲で目隠しされて見えなくなっているだけで、月はちゃんと空にいるからね」
「な、な! 言った通りだろ、父様はすごいだろう!」
「ハジメはなんもしてないでしょ」
「そ、そうだけど、シヨ達が僕の話をちっとも信じてなかったの、ニコもサンも知ってるだろ」
ニコとサンは互いを見合ってから呆れたように首を振る。
「だってハジメ兄様の話、下手だもの」
「ほんとそう」
「ニコ姉様とサン姉様のほうがわかった」
「水がうぁっしぁーがわかんなかったー」
「あれハジメにぃがお風呂で遊んでただけだよね」
「エイトのお鼻に水が入って泣かせただけだよね」
二人だけでも押され気味だったのに、さらに下の四人からも追い討ちされて多勢に無勢。ハジメは居心地悪そうに萎縮した。
兄弟姉妹達の年相応な騒がしさに久寿は微笑ましそうに見守っていたが、どうにも旗色が悪そうな長男を見兼ねて間に入ろうとしたところ、手を伸ばしたのはその場にいた最年少――父に抱かれた末っ子。
下ろせ、と言わんばかりに手足を伸ばし、重力をかける一歳児の主張に、父は困り顔でトウを地面へ下ろした。
末っ子はよたよたと長男へ歩み寄り、小さな手で足にしがみつかれた五歳児は感激して抱き上げた。
「にーしゃ。よしよし」
「トウ! 僕の味方は君だけだー!」
感激するハジメの声に感化されて子供達の声量が上がり始めると、久寿は軽く手を叩き注目を集め、口元で人差し指を立てる。
「こら、静かに。ここに近寄る者は少ないけれど、彼らは好奇心旺盛だ。子供の楽しそうな声を聞きつけて、影から覗き見してくるかもしれないよ」
「……!」
競い合うように口を閉じた。
キョロキョロと周囲を見渡し、器のような葉っぱの隙間を勇敢に覗き込み、誰の目もないと揃って胸を撫で下ろした。
「――よし、行くか」
ハジメの言葉に子供達は引き締めた表情を見合わせて頷く。たった一人、トウを除いて。
「では、行ってきます。当主」
「……ああ。皆を頼んだよ、ハジメ」
ハジメは抱き上げていたトウを父――当主の腕へ戻し、誇らしそうに微笑んで踵を返した。
子供達を先導し歩いていくハジメ達の後ろ姿を、その場で立ち止まり父は見送っている。同じ目線のトウは兄姉達が離れていく意味がわからず、彼らの小さな背中と父の顔を交互に見て、置いてけぼりの父の襟元を引っ張り急かす。
「とーしゃ、はぁく。にーしゃ、ねーしゃ、いっちゃう」
「ん? トウは行かないよ。君はまだ、さすがに小さ過ぎるからね。今日はお兄様お姉様のお見送りだよ。ほら、バイバイ、だよ」
父に片手を取られて『バイバイ』と手を振らされたトウは納得いかず、見送りを強制されていると言わんばかりの仏頂面になる。
「トウが行けるようになるには早くてもあと二年、ハジメ……もしかしたら、ニコとサンも通れなくなっている頃だろう。一緒に行けないから、せめて見送ってあげてほしい。それがみんなにとっても、トウにとっての力にもなる」
「う……?」
「とはいえ、トウはまだこんなにちぃこいからね。忘れてしまうかな。でも君の兄達はあんなにも立派だと、心の大切な場所に残してもらえたら――――」
ふつ、と蝋燭の火が空気に溶けるように夢が途切れた。
瞼を持ち上げても、視界に広がるのは暗闇だ。まるでまだ瞼を下ろしたままで、寝過ごしてしまいそうだなと息を吐いて、体を起こす。
つい、この一年間で染みついた癖でそのまま手探りで呼び鈴を探そうとして、もうその必要がないのかと気付き、視力を取り戻すために瞼の裏に魔力を流す。
もう、家の中を歩き回るための見張りを呼ぶ必要が無くなった。夜に外を出歩いて時間を過ごす理由もない。
継片の家族として――当主として、戻ってきたのだから。
昴生はぼんやりとした視界で、室内を見回す。とはいえ、見回すほどの物もない。
砂壁と顔も出せない小窓一つと畳だけの三畳間。そこに寝転がっていた昴生と、襖の近くに置かれた呼び鈴、通学鞄、体を覆っていた薄手の掛布団。鞄の中にしまっていたケースから眼鏡を取り出して掛けても、生活感の無さが明確に映るだけ。
――元は子供達の
「…………」
封じられた記憶の反動なのか、あまりにも古過ぎる記憶まで展開されていて、己の記憶力ながら舌を巻く。
幼児期の記憶は残らない。
成長と共に思い出せなくなるわけではなく、脳機能が未熟なために記憶として固着する機能も働いていない。
つまり、一歳児の記憶があるのが異常なのだ。
まさか父も、本当に覚えているとは思わないだろう。
覚えていたとしても、会話の内容もその時に誰がどんな表情をしていたのかも、もっと朧げなもので。そもそも十五年前なら、父本人が忘れている可能性すら充分ある。
そんなものが、まだ、残っていた。
まだこの目が光を取り込めていた、眩い日々の事が。
賑やかな声も、優しく迎え入れてくれる両手の温もりも、くすぐったいくらいの力加減も、大きく見えた頼もしい小さな背中も、無邪気さを、無鉄砲さを、無力さを、無能さを、全部。
全部、覚えてる。思い出せる。それだけ。
「……、…………」
ああ、なんて――無意味な感傷だ。
空箱の中に残っているのは、畳を引っ掻く音と微かに乱れた呼吸だけ。
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