平穏な朝に涙の音はいらない

「……とり■■ず、帰って■■■ほうが良い。今の■は正常と■■えない」


「せ■■冷静じゃない■■言い■してほし■な……」


 ■■■■■■■■■■。

 ■■■■■■■■■■。

 ■■■■■■■■■■。


 ………………………………。

 ………………………………。




 誰もが憂鬱になる月曜日の朝。

 自身が本来、睡眠や休息の必要がない生命体だったと知った片岡アルカもまた心労を抱えたままの登校となった。


 何となく早い時間に起きたから、何となく早めに家を出た。

 今日も今日とて周囲の視線を集めているのを痛感しながら通学路を進む。今まではそれが鬱陶しくて、仕方ないと諦めたり、ふざけるなと苛立ったりしていたが、この二日で認識が変わった。


 鉄の車が走る車道で、美しい馬が優雅に駆けていたら、そりゃ二度見か凝視はされる。

 しかも片岡アルカの存在自体は、馬よりもペガサスやユニコーンのような伝説生物に寄ったものだ。周囲の目を惹きつけてしまうのは避けられないのかもしれない。


 そんな風に自分を客観視する感覚は不慣れで、あまり落ち着かないけれど、同時に心が穏やかになった自覚がある。

 それもこれも全部、――受け止めてくれた友人がいたおかげ。


「……あ、」


 学校に近付くと友人の気配も近くに感じられてアルカは思わず駆け出す。

 すると校門前でちょうど通り抜けようとしていた菫が、駆け寄ってくる足音に気付いたように立ち止まる。互いの姿を見つけると同時に笑みを綻ばせて片手を振った。


「おはよう!」


「おはよう、今日は早いね?」


「うん。なんか早く起きてて、…………」


 昨日の朝、病院を出て菫を家の前まで見送った時、菫の体には魔術をかけられた名残が残っていた。

 昴生に〈緩和アジェーヌ〉をかけてもらったおかげで喉の痛みが酷くない、と菫の申告を聞いていたので、特に何とも思わなかった。奇妙な空気を纏っているのも、疲労感が視覚情報として見えてしまっているのだろうと深く考えなかった。


 奇妙な空気は消えていた。しっかり休めたのだろう。しかし魔術の名残が強まっているように見えて、意味がわからずにアルカは眉を顰める。


「どうしたの?」


「ん? んん……菫、昨日継片に、会った?」


「うん。昴生くん夜にお散歩する習慣あるみたいで、バイト帰りにたまに会うんだ」


「ふ――ん……?」


 いつも通り喋っている菫から喉を痛めて咳き込む様子はない。薬が効いているのかもしれないし、アルバイトから帰宅中だと聞いた昴生が〈緩和アジェーヌ〉を重ね掛けして今も鎮痛が続いているのかもしれない。

 面白くないけれど、アルカにとっては嫌な奴に変わりはないけれど。菫にとって良い事があったなら、まぁ、目を瞑ってやろう。眉間と目頭と目尻に深く皺を刻みながら目と口をギュッとした。余程へんてこな表情になったのか、隣に並んで歩く菫が噴き出した。


 何でもない雑談を交わしながら階段を昇ったところで、アルカはふと、そういえば一緒に登校するのは始業式ぶりだと思い出した。

 この階段と教室までの間の廊下を歩く時の菫の小さな習慣。基本的に学内は二人で行動するので、教室から移動したり下校の時によく目にして慣れていたが、あれを初めて見たのは今のように並んで登校している時だった。


「それでバレーのほうはやっぱり三年でバレー部の人が入ってたチームの人が最終戦まで勝ち上がったみたいで、」


「――――」


 一緒にいるのは自分なのに、ほんの一瞬でも視線を持っていかれるのは面白くなかった。友達の恋路を素直に応援出来ない狭量さを実感するのは爪楊枝で突かれているようで、気まずくもあった。

 それでも、彼女が本心から誰かを想うその表情を見れるのは自分だけの特権だと、優越感に浸れる瞬間でもあった。


 ――菫が、昴生のいる教室に視線を向けなかった。


「でも一年生のチームが最後まで粘って逆転したんだって! すごいよね、まるで映画とか漫画みたいで、……どうかしたの?」


「……う、ううん」


 思わず立ち止まってアルカは隣のクラスに視線を向けていた。昴生はやはり早く登校していて、本を読んでいる後ろ姿が確認出来る。

 視線を菫のほうへと戻すと、気遣わしげに眉を下げた顔と向き合った。


「そう? あんまり何でもないって顔してないけど、聞かないほうがいい事?」


「えっと、」


 何となく廊下で話すのは憚られたのでアルカは菫の手を引っ張って教室から離れる。階段を昇って施錠された屋上の扉の前までくると、アルカは菫の耳元でこっそりと尋ねた。


「昨日、何かあったの?」


「昨日?」


「その、継片と会った時、何か、何もなかった?」


 本当に些細で小さな事だ。一ヶ月以上呆れるくらい見慣れた菫の習慣が、今日だけ話に熱が入ってたまたま意識がそちらに逸れる事がなかっただけかもしれない。それだけのはずなのに、何故か胸がひどくざわついた。

 深刻な表情で尋ねてくるアルカの様子に、菫も真剣に思い返すための沈黙を挟んだ後。


「昨日…………、特に何も無かったと思うけど」


「ほんと?」


「うん、普通に話してた。昴生くんも昨日八重樫さんに病院に連れていかれたとか、唐辛子風呂に入る話とか、ダイオウイカの話とかしてた」


「話の振れ幅、いかれてない?」


「確かに。何でダイオウイカの話になったんだろ」


 話が大いに逸れていって最初の話が何だったか、不意に意味わからない話をしていたと冷静になる瞬間は、ままある事だ。それだけ菫と昴生の間で話が弾んだのだろうかと想像するとアルカは砂を噛むような気持ちになった。


 でも、ならば本当に何もなかったのかもしれない。

 もしかしたら昨日、菫が恋心を手放す何かのきっかけがあったのかと邪推したけれど、場合によっては昴生の骨が折れない程度には殴り飛ばすところだったけれど、ただの杞憂だったらしい。


『聞かないほうがいい事?』


 先程アルカを気遣った菫の言葉を反芻して、追求しようとする口を噤む。

 ……本当は何かあったとしても、すぐ話せないのかもしれない。何でも話してほしいけど、それはアルカの我儘だ。話してくれるのを待てば、菫はきっと何でも話してくれる。昨日の病室で、両親について胸の内を明かしてくれたように。


「……うん、ごめん。多分勘違い、だと思う」


「全然謝らなくていいよ。なんか不安そうな顔してたから、勘違いで良かった、のかな?」


「うん、良かった」


 アルカが頷くと菫はいつも通りに微笑んだ。

 その笑顔にほっと力が抜けると同時に予鈴のチャイムが鳴り出す。顔を見合わせて「急げ急げ」と茶化すような声をかけながら、少し早足で階段を駆け下りて教室へ真っ直ぐに向かう。


 その時も、菫は昴生のいる教室に見向きもしなかった。

 きっと急いでいたから、そんな余裕がなかったから。アルカは違和感を飲み込んだ。



 二人が教室に入っていく様子を、昴生は横目だけで見送る。

 本来の正しさと見慣れた平常、あるべき形が保たれているのを視認して、瞼を下ろした。

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