邂逅、あるいは再会

 アルバイトを終えた菫は悶々としていた。


 今日は何事もなくいつも通りの日常が終わろうとしているのに、何となく落ち着かない一日だった。昨日、一昨日が慌ただし過ぎた反動だろうか。


『お客様に迷子のお知らせです』


 聞き慣れた館内アナウンスが響く。頭の隅で週末はどうしても増えるな、と少し思うだけで特に気になるようなものでもない。

 ないはず、なのだが。

 無意識に天井を仰ぎながら菫は言葉にし難い胸のもやつきに首を傾げる。


「まいご……」


 迷子につい反応してしまったのも昨日、アルカに事故の話を初めてした感覚をまだ引きずっているのだろうか。既視感のある夢を見たせいなのか。

 考えてみるがしっくりこない。全く別の話で何か引っかかっているのはわかるが、何かを忘れているような感覚しかわからない。


 迷子を見つけて手を貸すなんて片手で数えられる程度だ。一番印象に残っている事故直前の出来事さえ、どんな子供だったかもうろ覚え。

 直近の出来事なんて特に、


『……いや、予想に反して多分に漏れず、迷子で泣く子供だった』


 思い出した瞬間、全身に電気が走ったような衝撃を受けて、思考が真っ白になる。


「…………え? いや……あれ?」


 いや、いや。そんなまさか。そんなこと有り得るか? 信じられない思いで菫は自身の記憶と昴生の話の齟齬を探す。

 時期は合ってる、抱き上げて交番まで連れていったのもそうだ。それに、髪の色も、涙をいっぱい溜めた目も、天使のように透き通っていて、外国人みたいに色素が薄くて、記憶違いを疑うくらい――白かった。


 いや、いやいや。こじ付けだと言われれば反論がない。都合良く思い出を捏造している可能性だって充分有る。

 多大な勘違いだとすれば生涯かけて悔い続けるレベルの恥間違いなし。『もしも自分が彼が捜していた人だったら』なんて、欲まみれの妄言を聞かせるのは、彼の誠実さへの冒涜だ。


 それに、朧げな記憶を信じるなら、迷子の子供の名前は『昴生』ではなかった。


 さすがに名前そのものを覚えていない。しかし迷子の子供が綺麗な女の子だったような印象から、少なくとも中性的な名前だったはずだ。

 覚えた名前が部分的だったとして、『コウ』だったら男の子の印象が強い。『セイ』なら可能性はあるがしっくりこない。どちらかといえば『コウ』の方が音が近かったような……。


 もやもや、もんもん。


「んん〜〜〜〜!!」


 駄目だスッキリしない! 菫は自転車に跨り、走り出した。

 まずはかつて両親と暮らしていた集合住宅へ。そこから兄が住んでいた独身寮に向かうルートを進む。


 何の発見もないかもしれないが、何か思い出せるかもしれない。時刻は夕暮れ時、その時と同じだ。

 しかし、小学生の徒歩と自転車の速度が違い過ぎて、記憶していたよりも早く独身寮に到着した。その途中、迷子の子供を見つけた場所も、お世話になった交番も見当たらなかった。


 道の端に寄って、スマートフォンで地図を表示する。周辺の交番を検索すれば、今走ってきたルートからかなり離れた位置にあった。

 ああ、そういえば。兄の帰宅時間より早く家を出て、知らない道を選んでよく寄り道をしていた事を思い出す。迷子を見つけたのもそうだったかもしれない。


 マップアプリで経路を確認しながら自転車を走らせると、少し見覚えのある交番が変わらずそこにあった。

 迷子を無事送り届けたはいいが、初めて来た道でどっちから帰ればいいのかわからなくなり、帰り方を聞くためとんぼ返りして交番に戻った記憶が蘇る。当時は不服だったが、そりゃ駐在していた警察官も迷子扱いするだろうと高校生に成長した菫は実感した。


 実際訪れてみると案外思い出せるものだ。菫は新たな発見に密かに唸り、ひっそりと欲が出る。

 この調子で迷子の名前も思い出せないものか。


「確か、大きな通りが右側、だったから……」


 子供を抱き上げながら歩いた光景から逆算し、交番から向かって左の方向に向かって自転車を押した。

 それほど記憶力が良かった自覚はないが、どこか見覚えがある大通りをゆっくりと歩く。

 車道を挟んだ反対側にあるあの店も、あの看板の並びも、新築らしきマンションも見覚えがある、……ありすぎる。さすがにおかしいレベルだ。自分の記憶にやや自信がなくなってきた時、菫の横をバスが通り過ぎていった。


『元の道を戻って大通りに出ればバスが通ってる』


「――あ、」


 そうか、一昨日バスで通った時に見ていた景色だったか――既視感の正体に気付くと同時に全身がぞわりと鳥肌が立つ。


 昴生の家が、近くにある。

 盲目だった彼が第三者によって連れ出されたのではなく、もし何かのきっかけで一人で外に出てしまったなら、自宅近辺で身動きが取れなくなっていたとしてもおかしくない。


 まだ何も決定打となるものは無いのに、菫にとって都合のいい話がじわじわと距離を詰めてくる。一人なのがよくない、アルカに無理言って付き合ってもらえばよかった。今日のところは一度持ち帰って相談するために、ここで撤退も一つの手だ。


「…………」


 自転車のハンドルを握る力を強める。微かに手が震える理由が不安なのか、期待なのかわからないけれど、菫は一度止めていた足を前に進ませた。

 もう少し、もうちょっとだけ。


「…………あっ」


 大きな道に出て、通りすがりの大人に交番までの道を付き添ってもらって……。そうだ、ここで大人に助けを求めて、誘導してもらった。菫は大通りの横の細道に釘付けになる。


 カラカラカラ。大通りから離れると車の走行音が遠くなり、静かな住宅地の路地で自転車のラチェット音がついてくる。

 逆走にもならないし、人もいない。それでも菫は何となく自転車を押しながら歩き続けた。置いていけないものを持つ重みを感じながら歩いた方が、何かを思い出せるような気がしたから。


「そうだ、靴下」


 何故その子を抱き上げていたのだろうと考えていて一つ思い出す。迷子の天使が裸足だったから靴下をあげた、ような気がする。確か兄からもらったもので普通に可愛い柄だった、ような気がする。

 もし、あの天使が昴生だった場合、紛失していなければ持ったままの可能性はある。判断材料の一つとして確認するのは良さそうだ。


「駄目! もう帰るよ!」


「やだぁぁねぇちゃんきらいぃぃ!」


 不意に舌足らずな子供の喧嘩が聞こえてきて驚いてそちらに視線を向けてしまう。

 一軒家の玄関扉を抑えている母親らしき女性と、玄関先で小さい女の子がさらに小さい女の子を家の中に入れようと腕を掴んで引っ張っている。

 二つ括りをした小さな姉はムッと怒りを露わにして掴んでいた手を乱暴に放った。


「あっそ! ハルもナッちゃんきらい! ばいばい!」


「やだー! やだー! ごめんなざい、ごべんなざい、ねぇちゃあー!!」


『にいさま、ねえさま、ゆるして』

『あいたい……あいたい、ごめんなさい、ゆるして、ごめんなさい……!』


 泣き叫ぶ女の子の声を聞きながら、頭の奥で許しを請う幼い声が、会いたいと切望する絞り出された悲鳴がリフレインする。

 菫は締め付けられるような胸の痛みを覚えて襟元を握った。


「…………え……?」


 継片昴生に、兄がいる可能性がある。

 でも、そうか。兄がいるなら、姉もいる可能性は当然あった。菫が勝手に家長……当主になるなら男児だろうと、彼が聞き取れなかったのが『お兄さん』だけだと思い込んでいただけ。『お姉さん』も聞こえていなかった可能性がある。


 菫は嫌な予感が募っていく。

 あの時のあの子は、細くて小さかっただけで同じ年の男の子だったあの子は、本当に迷子で不安になったから、泣いていたのだろうか。


「――――……」


 もし、昴生だったらいいのに、なんて考えはすっかり反転していた。恥をかくだけで済むなら、全部菫の妄想だったという事にしたい。

 それでも菫の足は進むのを止めない。

 それでも、彼をもっと知りたいと、気持ちが止められない。


 カラカラ、カラカラカラ。

 自転車を押して陸上を歩いているはずなのに、水の中を息を止めて進んでいるような息苦しさを覚えた。不安と緊張で息が苦しい時は風船を膨らますように、菫は意識してゆっくり息を吐く。


『ゆるして、ゆるしてください』


 頭の中でまた子供の声が聞こえる。

 ……やっぱり、おかしい。ごめんなさいだけならまだわかる。大人が子供に対して教える言葉として適切だ。

 しかし、許してくださいなんて言葉、子供の口から自然に出てくる状況はどう考えてもおかしい。少なくとも、菫は父母に脅迫されて口にした事があるので余計に実感を伴って思う。


『ゆるして、トウをゆるして、』


 は、と小さく息を飲む。

 ――そうだ、あの子の名前はトウ。『トウって名前なの?』と尋ねたら、泣きながらも頷いたから交番に辿り着くまで何度も、『大丈夫だよ、トウちゃん』と声をかけていた。その事実を思い出した。思い出せた。


 ……やっぱり、勘違いだったか。残念だった。よかった。

 いくらか安堵の比重が多めに複雑な感情ごと菫は一気に息を吐き出して、強張っていた肩の力が抜ける。偶然にしては重なり過ぎているが、名前が違うなら別人なのだろう。きっとそう、そうじゃなければ、…………。


 気付けば影が随分と長く、夜に溶けそうなほど薄くなっていた。

 もう帰ろうと自転車に乗ろうとした時、前から大きな車が接近していたため、すぐそばの横道に入り込んで道を譲る。


「織部?」


 車が通り過ぎるのを待ってから元の道に戻ろうとしたところで、不意に後ろから声をかけられる。知っている声に振り返ると、昴生が訝しげに目を眇めて立っていた。

 髪も目も黒く、見慣れたはずの彼の姿が、今の菫には何故か偽りの被り物のように見えてしまう。


「何故こんなところにいる?」


「ちょ、ちょっと野暮用で……昴生くんこそ」


「……ここは僕の家の近所だが、まさか迷ったのか?」


 そうですよね存じております。どう取り繕うか悩む菫をよそに、昴生は溜息混じりで「このあたりは細い路地で入り組んでいるからな」と納得した。

 ……そういえば、迷路みたいだと迷子を見つける前の菫も散策を楽しんでいたな、と思い出した事を頭の隅に追いやる。


「行き先がこの近辺なら案内出来るが、急ぎか? 時間に余裕があるなら、ついでに確認しておきたい事があるんだが」


「全然急いでない、なんなら今帰るとこだった。確認って何かな?」


 渡りに船とばかりに話題に乗っかると昴生は菫の全身を注視し始める。

 集中しているように見えたので黙って待っていると、昴生の目線はやや下、腹部あたりを睨みながら眉間に皺を寄せた。


「……体に不調は?」


「喉が少し喋りにくいくらいで特には……あっ、昴生くんもちゃんと病院行った?」


「今朝、八重樫さんに連れ出された。明日でいいと言ったんだが、却下された」


「そりゃそうだよ……」


 今日は日曜日。大抵の病院は休診日だから明日でいいか、となったのかもしれない。全然よくない。八重樫の手回しに感謝が積み重なった。


「休んでなくて良かったの?」


「確認しておきたい事があると言っただろう。八重樫さんから君は今朝方退院したとだけ聞いていたから、アルバイトが終わる頃合いを見て、先程家を出たところだったんだ。それと、僕は昨日帰宅してから病院に行く以外の時間は休息に当てていた」


「……なんだろう、とっても刺々しく聞こえる気がする」


「自覚があるようで何よりだ」


 言外に『一日とはいえ入院患者が退院直後から動き回るな』とアルカと同じ事を言っているのは伝わった。

 きちんと休んだのも何かの確認が必要だったのも、多分事実を言っているだけなのだろう。彼に予測されていた通りの行動をしていたのもあって、何だか据わりが悪い。


 こう話している間も昴生は下向きに睨め付けたままで、凝視され続ける気まずさに耐えかねて「昴生くん?」と声をかけると昴生は諦めたように目線を上げた。


「昨日、何かなかったか?」


「え? 昨日? 昨日はまぁ、色々ありすぎたけど……結局、何を確認してたの?」


「……昨日、君を川へ行かせて戻ってきた時から、違和感を覚えた。その正体を確認しておきたかったんだが……」


 違和感、と言われても何の変化の自覚もない菫も首を傾げる。思わず彼が重点的に見ていたお腹を撫でた。特別増えた様子はない、と思う。

 そこでふと、川で見た『目』を思い出した。


「川……そういえば、昴生くんが持ち上げた水の中に目が見えた」


「目?」


「うん。結構大きくて、バレーボールくらいはあったかも。その目と、目が合った気がするんだけど……でもさすがに川にダイオウイカはいないだろうから、気のせいだと思う」


 目の大きさから逆算したらダイオウイカくらいしか思いつかなかった。昴生の意見はどうだろうと視線を配ると、何故か目が死んでいる。


「……ダイオウイカは、確実に無関係だろう」


「だよね」


「ただ、君の目で見えたものがどこまでこちらの常識に通用するものか、正直測れない。何かを見た確信があるなら、軽視しない方がいい」


「そう、かな……? わたしの目、珍しいけど特別なものじゃないらしいし」


「発言者が特異な存在だった前提を除けば鵜呑み出来たかもしれないな」


 そう言われると、確かにそうだ。

 地獄の鬼が言う『珍しいが特別なもんじゃない』の言葉が、今を生きる菫達の常識とどこまで乖離しているのか量りにくい。少なくとも魔術師である昴生や八重樫にとって『窓の目』なんて前代未聞の生体であるのも事実だった。


 何も知らない状態から、何かしら知っていた人からの情報を得られた。

 それだけですっかり鵜呑みしていた菫は鱗が零れ落ちる気分で目を瞬かせる。


「何もかも疑う必要はないが、楽観視して気を緩めれば足元を掬われる。些細な違和感を見逃さないだけで回避出来る事もある。……まぁ大半は徒労に終わるが、昨日のような例外もある」


「――――」


 瞬間、菫の心臓が重く跳ねた。

 ……自分の常識に当てはめて、勘違いだったと安心したくて、名前が違ったから別人だったと、それまでの違和感から目を逸らした。前提からして、あんなに真っ白な子供が二人も三人もいるはずない、のに。

 昴生は全く違う話をしているのに、菫は責められたような気がして言葉が詰まった。


 菫の反応を訝しんだ昴生が「他に気がかりでもあるのか?」と尋ねてくる。

 心のどこかで冷静な部分が『やめておけばいいのに』と自嘲気味にぼやく幻聴が聞こえたけど、菫の口は開いていた。


「……すっごく変な事、聞いてもいい? 昴生くんの妹さんって、髪と目は普通に、黒い?」


「? そうだな」


「ちなみにいくつ?」


「五歳と四歳、だが」


 本当に意味がわからない事を聞いてきたと言いたげな声色に疑問を滲ませながら、問いかけに答えられていく。

 事故は六年、もうすぐ七年前になる。……あの子が妹さんの可能性はありえない。

 せっかく無かった事にしていた胸のざわめきが再発し始めて、菫は服を握り締める。その手の力を緩め、持ち上げると思案するように口元を隠す。


「ん……歳、離れてるね。昴生くんのおさんも、そのくらい離れてるかな?」


「……、もしがいると仮定するなら、父達の年齢を考えればそこまで離れてないと思う。あっても五、六歳差だろう」


 ああ、やはり聞こえていなかったんだ。


 恐らく今、口元を読み取ろうとした。そしてうまくいかなかったから、聞こえた部分と前後の会話から整合性のある答えを選んだ。

 仕掛けた罠が成功した。その結果より、そこから意味するものがわかってしまいそうで、菫の表情は曇っていく。


「……それで、一体何を探っているんだ? 僕の家族の話は、君の不調を押してまで今聞かなければならない重要性はないだろう」


「…………」


 ブラフに気付かなくても、そっちは気付くのか。とはいえ、先程からちっともにこやかな顔になれない自覚があるため、怪しまれて当然かと納得もした。

 口元を隠していた手を下ろし、自転車のスタンドを下げて止めると昴生と向かい合う。


「あの、ね……答えたくなかったら聞き流してほしいんだけど、昴生くん、無戸籍だった頃があるって話してくれたでしょ?」


「そうだな」


「……子供の頃は違う名前で呼ばれてた、とか、ある?」


 昔々、成人と共に改名する文化があった。生まれた時に付けられた名前は本名として、成年式を迎えると新たな実名を得る。現代に生きる菫にとっては既に廃れ、教科書の一文、歴史ドラマの知識の一つに過ぎない。

 だがその常識が、魔術師にとっての常識ではない可能性はある。


「……質問の意図がわからない。急に、何の話をしているんだ?」


 正誤回答出来る答えを、濁した。

 答えられない何かがあったのか、もしくは言葉通り、菫の問いかけに困惑しているだけかもしれない。


 ああ、勘違いであってほしい。予想が外れて、恥をかいて終わればいい。

 一度深く息を吸い込んで、菫は核心を口にする。


「子供の頃――ううん、少なくとも七年前まで君は、トウって呼ばれてたんじゃない?」


「――――……」


 昴生が静かに瞠目する。

 菫は口を結んで、彼の答えを待つ。一番いいのは『何を言っているんだ』と全否定される事。二番目は『そんな時期もあった』と彼の特殊な家庭事情の一つとして積み重なる事。


「……今、? 七年前?」


「…………!」


 一番外れてほしかった予想――『トウ』という呼び名を彼が認識できない事。

 それは、継片昴生が失った遮断された過去そのものであると同時に、兄と姉に会いたいと泣いていたトウという子供が目の前の少年だという証明に他ならなかった。


 何が日常生活に支障がないレベルの記憶喪失だ。名前すら忘れてしまっているじゃないか。

 怒りなのか哀れみなのか判別できない激流のような感情を押し込めて、押し込めて押し込めて……今直面している現実に頭を抱えてしまった。


「まさか本当に、わたしだったなんて思わないじゃん……!!」



 黄昏色だった空には、夜の帳が下りていた。

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