君は『見つけた』と言って、

「……とりあえず、帰って休んだほうが良い。今の君は正常とは思えない」


「せめて冷静じゃないって言い方してほしいな……」


 怪訝な表情のまま見下ろしてくる昴生を菫は不満げに一睨する。

 彼が今の会話をどう聞こえていたのか正確に把握は出来ないが、少なくとも二カ所は聞こえない言葉があったはずだ。それなのに、動揺しているのは菫だけで、昴生はいつも通り。

 彼の場合、『おはよう』と『おやすみ』まで聞こえてなかった疑惑がある。認識出来ない言葉は日常的にもっとあるのかも、と考えに至ると菫の表情の険しさは増していく。


「何だ?」


「何だじゃないよ、もう!」


「……本当に、どうしたんだ一体」


 見目麗しく成績優秀、文武両道で万能な優等生。そんな彼がいつも一人でいる事に違和感を抱いた事はある。こういう性格だからなぁと考えた事もある。

 でも、彼は言葉が圧倒的に足りないだけで冷血漢ではない。

 気長に関係を積み重ねていけば、あるいは菫達のように魔術ではなく勉学方面で粘り強く教えを乞う誰かがいたら、彼は今のように折れて、不本意そうに向き合ってくれただろう。


 でも無理だ。まともに積み重ねられるわけがない。

 菫でさえ夏休みの程々な交友の後、休み明けに挨拶を無視されて凹んだし、そういう馴れ合いは求めてないと切り捨てられたと思い込む。

 本人の性格と、特殊な記憶喪失の弊害の相乗効果が凄まじすぎる。彼が魔術師であるという前提事情を知る事すら出来なければ、人は離れていく一方だろう。無理!


 しかし、彼の記憶喪失が始まったのがあの夏祭りの翌日なら、夏休み前までの交友関係は彼本人の問題では? 違和感を見逃さないほうがいいとか言いつつ自分の事後回しにしている性質の問題では?

 ふと浮かんだ別方向の問題に菫はたじろぐが、頭を振る。

 例え事実としても改善は出来るはずだ。アルカが喧嘩腰に常識を説く形で引き出せたように、きっかけさえあれば、遮断されたその先を引っ張り出せる。


 このまま放置してたら、彼はずっと理解されず一人だ。


「……今、わたしは昴生くんの名前を呼んだんだよ」


「は?」


「君の名前は■■、今の名前は継片昴生」


 どこまで聞こえているのかわからないので、読み取ってもらいやすいようにゆっくりと口を大袈裟に動かす。功を奏したのか、昴生は目を見開いたまま固まっている。

 もしかして、聞こえなくても見る事は出来るのではないか。菫はスマートフォンを取り出してメモ帳に『とう』とだけ入力した画面を見せる。


「これが君の名前。読める?」


「……ここに書かれているのが『僕の名前』だと認識した所為か、何も書かれていないように見える」


「うぐ……! 順番ミス……!」


「順序が逆だとしてもあまり関係ないだろう。そこに書かれている文字が『僕の名前』だと教える言葉が聞き取れなくなるだけだ」


「とんでもなく厄介!」


 どれだけ厳重なんだ。そして思った以上に彼は自身の特性を把握しているらしい。把握した上でどうにもならないと諦めているから、こんなにもどうでもよさそうなのか。

 菫はスマートフォンをしまい込み、別の切り口から攻めようと頭を回転させる。


「……、昴生くん、誰かに感謝する時に何て言う?」


「は? ありがとうございます、じゃないか?」


「『わたしは帰る、家に』。この表現技法の名前は?」


「……倒置法か?」


「料理のさしすせその『さ』は何?」


「……、……砂糖」


 名前だと思わせなければ答えてもらえる!

 問いかけに対し出した答えを並べていけば、どの言葉を伝えるための行動か、昴生ならわかってくれるはずだ。確かな手応えを感じて菫は拳を握った。


「数え方で、にー、しー、ろー、やーの続きは?」


「と、」


 瞬間、昴生の視界が激しく明滅する。

 強いフラッシュが焚かれたような眩しさと同時に、頭に激痛が走った。


「ぁ、ぐ……っ」


「えっ、だ、大丈夫?」


 白と黒で点滅する視界の外側で案じる声だけが聞こえる。

 何も見えない。どこにいるのかもわからなくなる。そんな中、この一年近くですっかり聞き慣れてしまった少女の声が、何故か懐かしく響く。


「そもそも、おかしい、だろう」


「何が?」


「記憶が欠落している期間に、僕に別名があったとして、それを、君が知る理由がない」


 継片昴生にはもう一つ名前があり、その名前は■■である。

 菫が伝えようとする会話の断片と類似性のない問題、双方から得た情報を整理して答えは出ているが、それを受け入れまいと拒絶するように、警告するように頭痛が酷くなる。

 体の反応から『織部菫は事実を語っている』と痛感しているのに、出てくる言葉は否定そのものだ。


「……信じられないよね。今も、もしかしたらわたしが勝手にそうだって勘違いしてるだけじゃないかなって、思う」


 少女は困ったように笑みを含ませて言う。


「わたし、このあたりで迷子の子を見つけた事があるの。六年、もうすぐ七年前になる十月に、髪も目も真っ白な子だった。正直、その子の事はほとんど覚えてなくて、思い出せたのも昨日からほんの少しだけだったんだけど」


「――――」


「わたしが見つけた迷子は、君だったんじゃないかな。昴生くん」


「ぁ、」


 バチン、と頭の奥で閃光が弾けた。

 抑え込まれていたものが、耐え切れなくなった音が消えて、ノイズの嵐の中にいるような雑音が、情報として変換され、静かになる。静かに、静かに、雪のように降り積もっていく。これまで見えていなかったものが見えてきた。透明が、白に。抑え込まれていた意味を理解する。頭が、冷えていく。


 頭を押さえていた片手を下ろして、昴生は顔を上げる。

 目の前の少女は自信なさげに視線を下に向けながら初虹のように微笑んでいて、その表情には僅かに緊張の強張りが伺えた。


「七年前の十月、――……十月、十二日、金曜日」


「! そう、そうだよ」


 昴生の口から正確な日付と曜日が出てきて、自分の予想を信じ切れていなかった菫は安心した気持ちで同意し、視線を上げる。


「やっぱりその日に、」


「その日は、君のご両親の命日だ」


 事実を告げる言葉は温度もなく、ただ文字を読む機械のように零れ落ちた。

 一瞬硬直し言葉が詰まった菫は昴生と向かい合う。昏く据わった目が射抜くように真っ直ぐ菫に向けられている。


「事故の詳細を見た時、違和感はあった。進行方向から帰路の途中である事は読める。だが君の家庭は円満では無い。何故、家族で揃って乗車し、何を目的とした発車だったのか、疑問に帰着する答えを調べなかった。調


「こ、昴生くん……?」



 悪意もなく、悪気もなく、悪人もなく、然りとて不運に見舞われたわけでもない。

 緩やかな坂道に球を一つ転がした。ただそれだけの話。



「全容がわかれば単純な話だ。あの日、僕を警察に届けた君は帰路を見失った。結果として保護者が迎えに来て、あの事故が起きた。事故を誘致したのは僕だ」


「待って、それは違う! あの事故はお父さんがわざと車をぶつけただけで、」


「そうか」



 コロコロと、ごろごろと、転がっていく。



「わ、わたしがもっとしっかりしてたら自力で帰れたし、スマホを持ってたり、地図で帰り道探せば良かったのを横着したからで、君のせいじゃない! 絶対君のせいじゃないから!」


「そうだな。君ならそう言う」



 転がって下って加速して、ぶつかって弾んで戻れなくて。さあ大変、とんでもない事態だと気付いて焦って追いかけ始めても、二本の足でどこまで追い付けるのか。

 コロコロと、ごろごろと、どこまでも、どこまでも。



「本当に、本当にわたしの話、ちゃんと聞こえてる?」


 継片昴生は感情表現が乏しい。ただそれだけで、心がないわけでは無い。

 それなのに。今の菫の目には、彼の心が見えなかった。怒っているのか呆れているのか少しも感情が読み取れない。どこまでも綺麗で、冷たく、雪で覆われた静かな冬のようで。


「どうしたの……? 急に、何が、」


「大した事じゃない。君の介入によって想定よりやや早まっただけだ。君にそんな意図は無かっただろうが、結果としては最良の時機だった。紙一重で間に合う」


「間に合うって、何……?」


「今夜は満月だろう」


 意味がわからない返答だった。

 無意識に仰いだ夜空はまだ低い位置に丸い月が浮かんでいる。満月だと言われれば納得出来る形だが、それが答えになる理由がわからない。


「えっと、ごめん。それって前に教えてもらった事だったかな? 言ってる意味がわからなくって……」


「君は難を免れる。一時的ではあるがな」


「だ、だから、難とか急に言われても、何の話なのかわからないから」


 菫の困惑は増していく。昴生の説明はどこか言葉足らずで、無知への配慮が薄いところはあった。だが、ここまで会話が噛み合わず、どこか一方通行で成立しない事はなかったはず。

 そもそも、『難を免れた』と言われる心当たりもない。しかも『一時的に』とはつまり、未だ渦中にいて油断は出来ない状況ではあるのだ。

 渦中どころか、今どんな位置に立たされているのかも菫は知らないので、戸惑うしか出来ない。


「もう少しわかりやすく、せめて何をどう気をつけたらいいか教えてほしい、」


「何も無い」


 切り捨てる言葉は冷たい声だった。


「何もするな。関心を寄せるな。理解を示すな」


「…………」


 立て続けに告げられる警告のはずの言葉は強い拒絶に聞こえ、氷を飲まされたように苦しく痛みすら覚えた。了承も拒否も疑問も、何も返せなくなる。


 どうしよう。怖い。

 わかる事もわからない事も頭の中で渦巻いて、込み上げてきたのは恐怖だった。


 縋るものを求めて震える手でリュックの肩紐を握った。菫の反応を視認した昴生は瞑目し溜息を一つ吐く。


「……まぁ、それを織部に強いたところで無理な話だとはわかっている」


「…………えっ、馬鹿にされてる……?」


「正当な評価だ」


 辛辣な返しだ。だが、彼の呆れたような態度も声色も慣れたものだったため、菫は不覚にも体の強張りが緩んだ。


 そういえば、彼はアルカに対してだいぶ高圧的で、事の深刻さを実感させようと表現を変え語彙を駆使し脅してくる面があった。

 これまで二対一で分かち合えていた恐怖を今は一人で受け止めている。込み上げてきた恐怖の理由はそのためだろう。気持ちを整理出来ると少しだけ落ち着きを取り戻せた。


 しかし、次の言葉で平静状態を一気にひっくり返される。


「だが、そうだな。……織部、今交際相手は?」


「ンッ!?」


「いなければ、意中の異性はいるか?」


「はい……っ!? え、急になんっ、なんの話なの……!?」


 話の方向転換があまりにも乱暴すぎた上に、答えを一番聞かれて困る相手からの質問で菫の頭は一気にパニックに陥る。


 どういう事だ。満月とか難を逃れたとか意味深な話を投げっぱなしにして急に恋愛話に舵を切る意味がまるでわからない。この意味不明な状況で『好きな異性は君だよ』なんて告白するのも嫌過ぎる。

 とはいえ、菫にとって突拍子も脈絡もない話を彼が無意味に振ってくるとも思えなくて、冗談だと流せる空気でもない。


「……。何かの間違いだと思っていたんだが」


 菫の答えを待たずして、昴生は信じられないとでも言いたげに口を開く。

 顔を赤くし、狼狽え、声も出せず口だけが忙しなく動かす菫の沈黙が、向けられる視線が、その態度が、何よりも答えだった。


「僕は君に対して、好意を持たれるような事を何一つしてこなかっただろう」


「――――」


「趣味が悪い」


 水を頭からかけられたようなショックで言葉も出ない。

 あ、これは、振られる。告白すらしていないのに失恋する。真っ白な頭でそれだけは察してしまい、しかし無意識のうちにいつもの癖で笑みを貼り付けていた。


 耳を塞いで逃げ出して何も無かった事にしたかった。

 それと同時に、分かり切った結末だと己を奮い立たせてその場に踏み留まり、少しだけ困り顔で笑ってみせる。


「……うん、ごめん。アルカにも同じ事言われたけど、やっぱりちょっと否定しきれない」


 最初から不毛な恋だとわかっていた。

 菫は共に歩く未来を少しも想像出来なかったし、昴生にとっては好意の有無に関わらず菫は自宅に招けない存在なのだ。


 昴生は魔術師で、菫はそうではないから。

 もし奇跡的に報われる恋だったとしても、それは一瞬の事で、現実の前に霧散する夢のように終わる。


「だから、えーと……出来たら傷が浅めに済みそうな言葉でお願いします」


「何が『だから』なんだ」


「こう、手心のある振り方をしていただきたく……いや、その、今更どうこう言われても気持ちは変わらないから、何言われてもいいんだけども……」


 これまでの彼の言動から菫の精神を致命的に追い詰める言葉や、両親のような身勝手な恫喝が飛んでくるとは思えない。ある程度のダメージは推察出来るが、痛くないほうがいいに決まっている。

 拝む気持ちで配慮を求めて上目で昴生の反応を伺うと、彼の顔が想像以上に険しくなっているのがわかり、何かに失敗したのは察した。


「……気持ちは、変わらない?」


「だって、昴生くんが冷たい事言うのはもう慣れたし、言っても『趣味が悪い』で、『気色悪い二度と顔見せるな』みたいな暴言レベルは言わないし、聞いただけで気分が悪くなったって手足出したりしないでしょ?」


 さすがに手荒な拒絶を受けたら、菫としても親を連想して恋心も粉々になるかもしれない。

 昴生は例え話を聞いただけなのに、険しい面持ちに困惑と不快感を滲ませた。


「……君のそれは、慣れではなく、麻痺と呼ぶんだ」


「そんなに大差ないよ?」


「そんな言葉が出てくる時点で、君の麻痺は深刻そのものだ。自覚が薄いなら尚更悪い」


 その反応から彼の精神性が垣間見える。不要な心配だったと菫は安心して、思わず笑みが溢れた。


「君のそういうところがね、好きだよ」


「――――」


「本人の目の前で言うのは失礼だけど、多分わたしは男の人を見る目ないの。だから、何を言われても気持ちは変わらないと思う」


 ああ、つい、ぽろっと言ってしまった。言うつもりは無かったのに。何だか照れくさくて憎まれ口まで出てしまった。まったく我ながら可愛げがない。


 昴生の表情が、困惑に満ちていく。

 想いに応えられない相手から、変わらず好意を向け続けると宣言されたら、そりゃ困ってしまうだろうな。

 本当に、何でこんな話になってしまったのやら。菫もまた悲しいやら困ったやらで眉尻を下げて、視線も下に向いてしまう。


「えーと、昴生くんに何かしてほしいとか思ってないよ。普通にこれまで通りにして変な空気とかにしないし、君に好きな人が出来ても邪魔しないし、むしろ応援したいから、わたしに出来る事があれば何でもするつもりなんだけど、駄目かな?」


「――駄目だ」


「うっ」


 予想以上に力強く拒否されて精神的にダメージを負う。

 まさかそこまで嫌がられているとは。思い上がりに気付いて恥ずかしさに身を竦ませる。そうか、駄目か。そんなに駄目か。


「駄目だ、――駄目だ! 駄目に決まっているだろう!!」


「…………っ!?」


 声の大きさに驚いて反射的に体が跳ねる。

 好意を向けられ続けるのは迷惑だから『駄目』だと言われたと思っていたが、何だか様子がおかしい。

 ――いや、彼は途中からおかしな反応をして、よくわからなくて、怖かった。


 勝手に気のせいだと思い込んで、どうして急に恋愛話にずれたんだろうと不思議に思うだけで、追求もしなかった。


 継片昴生はずっと、『確認作業』しかしていなかった。そうして、彼にとって許し難いものを『確認』してしまった。

 この擦れ違いに菫はまだ気付けない。


「何故そうなるんだ、どうしてこんな、ッそう、仕組まれているのか? 君達は、巡り合わせまで、」


「……君、たち?」


 そこでようやく、彼が話の視野に入れていたのが菫個人のみではなかった可能性に気付く。

 気付けたとしても、既に遅い。


 意味がわからず顔を上げた菫の前には、頭を強く爪を立てながら抑え込み苦悶に満ちた表情で睨み付けている昴生がいる。

 その目は、今まで見た事のない凶暴性が露わになっていた。


「――いや、いい。もう、何もかも今更だ。君に何を言っても無駄なのはこの一年近くでよくわかっている。仮に『解除』されたとしても多少の誤差だ」


「昴生くん……?」


 怯え惑う少女を見て、昴生は己の選択が誤ったのを実感する。

 始めからそうやって警戒されていれば、余計な小細工などしなければ、と今更無意味な事を考えた。


「君も、望まない暴行を受けて、学生の身で未婚の母にされたくはないだろう」


「…………は?」


 本当に何を言い出すのだろうか。そう思って菫は■■が■ば■た手■■らが迫って■て、目■前に広がるのを■て■た。


 たがこえ呪文聞。

 えるかを彼が何い唱て。

 いるがしが忘いい葉れさ言れと紡難てな。

 う故だろ何。きとくもてなった眠て。


「――ああ……ようやく、見つけた。また君の方だったけれど、見つけてくれて、」


 がえ声るこ聞。

 るが声しなかすい。

 理し由がたいり君知いが苦。一まく君なせ人たを悲でいし。君を知りた■。




 ――ガシャン!


 背後から派手に何かが倒れた音が上がった。何が倒れたって、そりゃ菫の自転車しかない。


「おっうあ!? びっくりした! わああぁ壁、擦ってない!? ごめんなさいごめんなさい!」


「何故壁に謝っているんだ」


「いやなんか申し訳なくて……大丈夫かな、大丈夫であれ……。昴生くんは何も見なかった、いいね?」


「……目視で確認出来る大きな傷も、擦った形跡もない。今は家人も不在のようだし、問題ないだろう」


「あ、本当だ。お家真っ暗……えッ!? あれっ!? なんか外暗くない!?」


「暗くて当然だろう。今何時だと思っているんだ?」


「何時って、えっと十八ろく時半くらいじゃ……えっ!? は、二十はち時前……!? 待って待って、いつの間にそんなに時間に! どうしよう、早くおうちまで届けてあげないと」


「誰を?」


「え? だから迷子を、」


「僕と会った時、君は一人だったが」


「…………へっ?」


「…………」


「えっ、あれ……そういえばずっと一人だったよう、な……? あれ、でもわたし、迷子の子といたはず、なんだけど」


「……幽霊猫」


「うっ!? また? まさか、またそういう!? うう……怪奇現象には季節が先取りすぎる……。あっ、でも幽霊関係だったら昴生くんが見えるはずだから、きっと違うよ!」


「……どうだろうな。昨日の今日で、僕の目も万全ではない」


「わ……はちパーセント、そのせいか……」


「…………」


 昴生は菫の挙動を観察し、彼女の中のがどのように整理されたのか言葉の中から把握し、さらに調整を施した。


「んん……幽霊なんて、あの猫達くらいしか見てなかったのにな……」


「……とりあえず、帰って休んだほうが良い。見る限り問題はなさそうだが、あの手のものは体の疲労にも影響する」


「うん……時間も遅いし、そうする。あ、家に入る前に清めの塩とか振っといた方がいいかな? まぁ、家にあるの食塩か、バスソルトくらいだけど……」


「食塩は清めの塩に……ああ、だが、バスソルトは悪くないな」


「えっ、冗談のつもりだったけど、こう、バッと頭からかければいい?」


「普通に入浴剤として湯船に入れればいい。一つまみの塩より、相当な人工物だ」


「へぇー……そういうものなんだ。ついでに辛いのも効いたりしないかな? 貰い物のバスソルトなんだけど、唐辛子入りなんだって」


「唐辛子――唐辛子塩水か」


「なんか体がぽかぽかになるらし、ゴホッごほっ」


「……早く帰って、休め」


「うん。昴生くんも、今日くらいは散歩もほどほどにね。おやすみなさい」


「……ああ。おやすみ、織部」




 織部菫は笑顔で手を振り、自転車に乗って走り去っていく。何が起きたのか、何が欠けたのか知らずに。

 昴生は踵を返して自宅への道を戻る。夜の暗さも相まって、視界が覚束なくなってきた。


「今晩は随分帰りが早いじゃないか、昴生」


「……父さん?」


 帰宅と同時に視界は真っ暗になった。髪色と目の色は維持しているが、視力の維持はもう出来ない。

 暗闇の中で父親の声が聞こえる。父らしからぬ冷淡な物言いは、言いつけ通り。


「今日一日休んでいたのに、出かけて一時間程度でまた随分と弱っている。昨日一昨日と連日、何をしていたんだ? いい加減、僕に話をさせてもらいたいものだな」


「…………」


「……だんまりか。話すら拒むなら、早々に部屋へ戻るように」


「――ただいま戻りました。久寿ひさとしさん」


 告げた瞬間、空気が張り詰める。

 久寿、と息子から名前を呼ばれた父親の細く息を飲む音が聞こえる。


「……、……ぁあ、」


 震える声は無理やり絞り出したようなわざとらしい喜びと、隠しきれない失望が混じって零れ落ちた。

 近付いてきた足音と、足元へ降りていく布擦れの音から、目に見えなくてもどんな光景が広がっているか想像出来てしまう。


 父親にあんな声を出させて、傅かせている。昴生は俯きそうになる背筋を正し、より一層表情を引き締める。


「お戻りをお待ちしておりました。当主」


「……はい。長く不在にして、迷惑をかけました。貴方の献身に感謝します」


「有り難く存じます」


 血の繋がった家族とは思えない言葉に据わりが悪くなる。しかし、今までが異常だっただけで、正常に戻っただけだ。

 継片家の若き当主は静かに息を吐き、式台に乗り、上り框を跨いで帰館した。





 そういえば、結局彼の感じた違和感は、一緒にいると思い込んでいた謎の迷子のせいだったのだろうか。


 洗い終えた浴槽に湯を張る音を聞きながらふと思い出す。

 だけど、考えようとするとなんだか頭がぼんやりとして思考の鈍さを感じる。やはり昨日の疲れがまだ残っているのだろうか。 


 どこで迷子を見つけたんだっけ。道の途中? バイト先のモール内? どちらもしっくりこない。これも心霊現象と遭遇した後遺症なのだろうか。幽霊猫の時はもっと意識がしっかりしていたのに。あれはアルカと一緒だったからで、一人だとこうなってしまうのだろうか。それにしても、やたらと腹部を見られていたような気がする。何か意味があったのだろうか。


 ピ――――。

 思考を遮るように風呂の給湯器が湯張りを終えたアラーム音が響く。


「あれっ、もう溜まった」


 いつもは十分以上かかるのに随分早い。菫は何となく得をした気分で特別気にすることはなく、浴室で数分意識が朦朧として実際は十五分も浴室に滞在していた事実にも気付かず、少し機嫌よく服を脱ぎ始める。


 シャツを脱いで露わになった自分の腹部が視界に入り、確認するために撫でた。

 見た目も感触も異変は無し――前が大丈夫なら、後ろはどうだろうか。鏡に映しながら背中を見るが、。念のため背中と腰にも手のひらをぺしぺしと当ててみるが、特に面白みもない慣れた触り心地だった。


「んー……?」


 昴生から何も言われた覚えがないので、何もなかったのかもしれない。そう結論付けて菫は考えるのをそこで止めた。

 あまり頭が働いていないし、今日は早く休んでおこう。


 菫の腰につけられた眼の刻印――その光を黒い盾のシンボルが覆い隠し、共に掻き消えた。



「ふわ、――これ、結構匂いきつい!」


 何も知らず、何も気付かない菫は呑気にバスソルトを浴槽に溶かしながら、嗅ぎ慣れないスパイシーな香りにしょぼくれた目になっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る