衆力功を成す

「はぁ、ヒュー、ひゅっ……ごほっ、ゴホゴホッ! あいたッ! ンう、ぅぅ……」


 昴生との通話を終えて、よくわからないものを見てしまった事を気のせいにして。足早に道を引き返していた菫だが、自覚がないまま限界が近付いていた。


 喉が熱い。痛みはないのに、呼吸がますます細くなっているのがわかる。首に触れると熱を持って張っているのもわかる。

 それでも、とにかく、早く戻らないと。

 また思考が鈍くなるのを無視して足は動かし続けるが、足元がおぼつかなくなり信号機の支柱にぶつかった。痛いし、前方不注意の度が過ぎて情けない。


「菫ちゃん?」


 ぶつけた鼻を抑えて痛みが引くのを耐えていると声が聞こえた。

 一瞬聞き間違いかと思いつつ振り返ると、スーツに身を包んだ外国人の男性がヘーゼル色の目を丸くして見下ろしていた。


 大きい、誰だろう。でも声に耳馴染みがある、雰囲気もどこか見覚えがあるので、他人ではなさそうだが、誰だろう。

 菫の困惑に気付いた男性は自分を指差しながら温和な笑みを浮かべる。


「ごめんなさい、びっくりさせちゃったわね。去年昴生ちゃんから紹介された八重樫よ、覚えてるかしら」


「えっ!? 八重樫しゃッ……ゲホゲホッ、ゴホッ!」


 驚いて咽せ返る菫の背中を摩りながら「あらあら」とたおやかな言葉が知的で誠実そうな美丈夫から発されている。奇妙な状況だ。


 耳馴染みがあって当然だ、昨日電話越しに声を聞いたばかりなのだから。

 しかし、昨年初めて会った時に海のような鮮やかな髪色が落ち着いた焦茶色になっていて、あまりに印象が違い過ぎる。八重樫だとわかってから改めて見ても未だに驚く。

 そもそも、何故ここにいるのだろう。昨日、彼は外国にいると聞いていたのに。


 頭がこんがらがり、咳も酷くて、突然舞い込んできた出来事に菫は混乱しながらも全部後回しにして最優先を選択する。


「ゴホッ……すみません、今とにかく急がないといけなくて、手を、貸してもらえませんか」


「――ええ、もちろん。そのためにここに来たのよ」


 説明もなく快諾する八重樫の言葉に、またよくわからない事が菫の中に蓄積されたが、それ以上に頼もしかった。

 以前、パパ八重樫お父さん昴生より強い魔術師ではないと冗談めかして言っていて、魔術師の実力を測る術が菫にはないため実際のところは何もわからない。

 それでも、張り詰めていた気が緩むくらいに安堵した。


「えっ、ちょっと」


「へ?」


 優しく微笑みを浮かべていた八重樫の表情が不意に崩れ、菫の手首を掴んだ。なんだ、と思って視線を向けると、手のひらに薄く血がついていた。


 あ、これ、どこか切れたな。

 血がついた手のひらが咳き込む時に口に当てていた方だった事と、走ってる最中から口内で血の味がしていたので菫は冷静にその原因を察して、同時に八重樫の顔色が悪くなっているのも察した。


「これ――喀血かっけつ!?」


「か、かっ?」


 喀血とは、咳と共に血を喀出する事。

 菫の場合は唾液の中に血が一滴混じったようなもので、重々しい症状を付けられるものではないが、八重樫は菫がこうなった経緯を知らず冷静さに欠け、菫は言葉の意味を知らず魔術師特有の用語かと勘違いしていた。


 結果として双方の擦れ違いが起こり、ほんの一瞬の沈黙が通り過ぎた後。


「んんん、ごめんなさい! 終わったらすぐ病院に行きましょうね!」


「んん~~!?」


 意識明瞭、意思疎通可、呼吸はやや不安定。まだ猶予があると八重樫は判断し、後回しにする心苦しさの謝罪しながら菫の体を抱き上げた。

 これまで、お姫様のように抱かれ、お荷物のように運ばれ、今回は縦抱き。赤ん坊や幼児を抱っこするようなしっかりとしたホールド感に包まれて、菫の頭は疑問符でいっぱいだった。


 どうしてこうなった。

 思考だけでしっちゃかめっちゃかだというのに、八重樫の運搬もなかなかアクティブたったため、ほんの数分で菫は目を回した。





「いや、何がどうしてこうなった」


「本当、そのとおり……」


 聞こえてきた声に強く共感を覚えた。昨日、美術館の異様な絵画を見に行こうとなってから、あまりにも出来事が多過ぎる。


 絵画が怪物だった。そこから昴生が全盲だった事実とアルカが人間ではなかった事実、美術館に不法侵入からの放火、脱出、鎮火のために奔走していたら海外にいるはずの八重樫と遭遇して、他にも細々と彼の記憶喪失やら彼女の正体が方舟だったやら……体調も悪いし、くらくらする。


「あ……」


 聞こえた声が誰のものだったか遅れて気付いた菫は頭を動かし、そちらを見る。館内に置いてきてしまったアルカがそこに立っていた。

 菫が身動ぐと八重樫はゆっくりと地面に下ろした。一秒、アルカと向かい合うと堪らず抱き着いた。


「よかった、よかったぁ……ゴホッ、ごほっ、アルカ、怪我して、なさそう? 良かった……」


「あ……うん、大丈夫大丈夫」


 声色が全然大丈夫ではなさそうだったため、菫は険しい顔で体を離し、即座にアルカの全身を目視でチェックする。


「どこ? どこ怪我しちゃったの?」


「大丈夫って言ってるのに!」


「げほっ、昴生くんが貸してたレインコート、返してないよね。返せなくなっちゃった?」


「ンッ」


「着てる服も髪も綺麗すぎる」


「そっ、かなぁ……!?」


「あと練習してたの家だったから、ぶっつけ本番になっちゃったね。靴、すんごい事になってる」


「えっ、うえぇっ!?」


 傍らで立ち尽くしている昴生が未だに菫のレインコートを借りたままの状態、異常。

 あの炎の中で長い金髪は毛先すら燃えてない、異常。

 煤すらついていない服、レインコートでぎりぎりカバー出来たというならまだわかるが、レインコートがない事で異常。


 極め付けはスニーカーだ。

 それは新しく靴を買おうとしていた菫の横で、アルカも合わせて色違いで購入した物だ。菫は今それを履いている。


 アルカは慌てて見下ろす。

 同じデザインのはずの靴を爪先合わせで並べれば、全くの別物になっているのは一目瞭然であった。というより、紐が異様な形になっていて、比べるまでもなく靴として変な仕上がりになっている。

 お揃いだったのに。アルカは冷や汗を掻きつつ、泣きたくなった。


「ひ、紐、なんか変に結んじゃって……」


「ゴホッ……そっか。なら、せーので靴裏を見せ合いっこしよう」


「だ、だ、大丈夫だって言ってるのに! なんでそんな意地悪言うの!?」


「だって、痛かった、と思うから」


 菫の言葉に図星を刺されたアルカはぎくりと体が強張り、言葉が出なくなった。


 あんな場所に置き去りにされて、大丈夫なはずない。だけど『大丈夫』と虚勢を張る気持ちも、苦しみを隠したい気持ちも、菫には痛いほどわかる。


「でも、意地悪に聞こえたなら、ごめんね」


 全ては知らないで欲しい。それでも、寄り添ってもらえたら――なんて。これは菫個人の感性で、独りよがりだったかもしれない。

 隠し事された怒りをぶつけていた面も含めて反省して謝ると、アルカは食い気味に声を荒げた。


「い、痛かったけど! 大丈夫じゃなかったかもだけど、全然、そんなのどうでもいいの! 菫が無事だったから、それだけで、よくて」


「うん、うん。……そっか」


 それは、そう。痛い思いをして当然だ。火に直接触れていないのに目と喉が痛かったのだから。――良かった、アルカだったら大丈夫だなんて、愚かな勘違いしたままじゃなくて。


 片岡アルカは方舟の中身だとか、九十万年活動可能な超生命体だとかーー菫の想像力を遥かに超えた存在になってしまったと、思い違いをしそうだった。


 何も変わらない。

 あの夏祭りの夜、友達を庇って死ねたら兄も納得するだろうなんて自分本位だった大馬鹿者を、怒ってくれた。笑顔で庇って、助けてくれた。片岡アルカは勇敢で、真っ直ぐで、眩しい女の子だ。

 そんなヒーローに返せるものがあるなら、こんな言葉しかない。


「アルカ。頑張ってくれて、助けに来てくれて、ありがとう」


「ぅ――うん、頑張った。頑張ったから、」


 目を見開いたアルカはくしゃりと歪めた顔を菫の肩口に押し付けてしがみつく。


「あとで靴、見本にさせて、つくりなおさせて……」


「ふっ、ふふふ、ゴホッ、ごほごほっ」


 斜め上な彼女らしい要望に菫は不意打ちを受けた。込み上げる笑みと咳をしつつ、頷きながらアルカの背中に腕を回して労うように撫でる。


 ふとアルカが視界から外れたところで、少し離れた位置で様子を見ていたらしい昴生と目が合った。

 白い髪、乳白の瞳。昨日見た彼本来の容姿だが――奇妙な既視感に襲われる。


「…………?」


「――? …………」


 昨日と何も変わりないはずなのに。

 ――――本当に、そうだろうか?


 菫は両日の相違箇所を目で探してしまう。昨日はジャージだったが今日は私服のところだろうか。視力を維持出来ているのか、目が合っているところだろうか。レインコートを被っているところだろうか。


「あっ、やだアタシったら」


 まるで忘れ物をしたような八重樫の声に振り返ると、基本的に柔和な彼の表情はかなり緩く、目が合うと破顔して少し照れ臭そうに視線を逸らされた。


「仲裁するつもりで様子見するつもりが、つい見入っちゃったわ」


「胸中をお察しします」


 昴生の声は平坦なものだが、どこか同情するような響きを含んで聞こえた。何も悪い事をしていないはずだが、菫はどこか落ち着かない気持ちになってアルカを強めに抱き締める。


「でもこんなのんびりしてて大丈夫なの? もしかして全部終わった後で、アタシが出しゃばる必要なかったかしら」


「不要になったなら、その時点で連絡しましたよ。この短時間でも貴方は飛行機に乗って飛び立つ準備を終えてそうですからね。こんなに早く到着するのは想定外だったので、無意味でしたが」


「そんな些細な事気にしなくていいのよ。アタシは頼ってもらえて嬉しいの。昴生ちゃんがそうやって、嫌そうにしてくれるのも含めてね」


 本当だ。すごく嫌そう。

 顔を前に戻して見た昴生は炭でも齧ったような表情をしていた。


 こんな顔をさせて嬉しいなんて、八重樫を見る目がちょっと変わってしまいそうだ。

 そう思いながら振り返ると、八重樫は笑っていた。慈愛を滲ませながら、少し困ったように眉を下げて。


「……時間を置いたので、わかりやすくなっていると思います」


「…………!」


 昴生がゆっくりと移動すると、彼の背に隠れていた水溜まりから砂と塵が細い塔を建てるように滑り上がる光景が見えた。

 膝丈もない小さく黒い塊は重力に逆らって細く肢を伸ばしていく。


「そうね、対話は出来る?」


「意思疎通は可能です。――殺せますか?」


「ええ、殺せるわ」


 急に物騒な会話が入り込んできて菫はぎょっと瞠目する。

 未だ状況を把握しきれず二人を交互に見る菫を放置して、八重樫は砂の塊へと歩み寄り、昴生は恭しく一礼して道を譲る。


「危ないから離れていてちょうだいね」


「貴方の温情に感謝します」


「……ええ。貴方の感謝に報いる結果が、人の為となる事を」


 その時、菫の腕の中に収まっていたアルカがぴくりと反応して、顔を上げた。

 不思議そうな顔で八重樫の背中を見送るアルカに「どうしたの?」と声をかけると、静かに体を離す。


「矛を受け取った時、アーノルドが言ってたこと思い出したの。『君の得た力が、人の為にありますように』って」


「え、」


「ああ……あの時のアレが、そう、だったんだ」


 アルカは納得したように呟くが、魔術師達だけで話を進められて菫はさっぱり理解が追いついていない。どういう事なのか聞こうにも、アルカは菫ではなく八重樫の方を向いたままだ。


 菫も事の成り行きを見守ろうと視線を移す。

 弱々しくうねる塵の集合体に向き合っている八重樫は胸ポケットの手巾ハンカチーフを引っ張り出し、指で摘んだまま広げ――光を纏い、薄く柔らかなシルエットが、細く長い棒状へ変形していく。


 それは見覚えがあった。八重樫と初めて出会った時、スプーンを変形させた時と同様の光。

 あの頃はまだ魔術について未熟で何もかも似たように見えていたが、いくらか慣れてきた菫には彼が持つ物の正体がわかった。あれは、アルカが矛を出す時と、昴生が盾を出す時に発する光と同じものだ。


 コン、と金属が地面を叩く。


「こんばんは。少し焦げ臭くて騒がしいけど、素敵な夜ね」


「あ……」


 消し炭にされた怪物は見上げる。

 まるで目線を合わせるようにしゃがみ込むパーティースーツを着こなす偉丈夫と、彼の厚みのある手に握られた細身の大鎌を。


「アタシは八重樫百合。貴方のお名前は?」


「ぁ――あ、ああ、あぁ! ああああぁぁああ!!」


 怪物は発狂する。炎を纏い全能感に満たされていた先程までであれば、ここまで半狂乱になる事もなかっただろう。

 しかし今の彼女は手も足も出ない、逃げるどころか身動ぎすら許されない。

 肉食獣の大口を覗き込んでいるようなものだ。理屈ではなく、本能が警笛を鳴らす。明確な『死』が目前に迫っているのだと、逃れる術がないのだと。


「……まぁ、普通はそうなるわよね。そういう物だもの、これ」


 八重樫は特に動じたりせず、溜息交じりに肩を落とす。

『生命を刈り取るもの』として授けられた鎌、それが八重樫の持つ〈方舟遺物アークレガシー〉だ。

 生へ執着がある者ほど、この鎌を畏れた。喉が潰れそうな断末魔も命乞いも、結果として『死神』なんて大層な異名もつけられて厄介な命の後始末係を任された少ない経験も、慣れたものだ。……それでも、決して気分がいいものではないけれど。


 しかし、何事にも例外というものはある。

 誰もが当然のように恐れる死の顕現をちっとも怖がらなかった小さかった少年と、成長した彼を守ろうと果敢に突っ込んできた二人の少女とか。

 そんな子供達を守るために今この場に立てるのだから、物は使いようとはこの事だ。


「話は出来なさそうで残念だわ。でも良かった。それだけ怖がっているなら貴方の事もきちんと殺せる」


「やめ、やめてっ幻想わたし、おかあさまにあえてない、言えてない、願いを叶えたって、かえってきたのって、やっとだきしめてもらえるの、だきしめてあげられるの!」


 血を吐くような嘆願を死神は相槌を打ちながら耳を傾ける。

 八重樫はここに至るまで何の詳細も聞かされていないが、水に浸かった塵の山に母を求める幼子の面影を感じ取れた。


 なるほど、昴生が何も語らないのがよくわかる。

 何も知らず、弁明も聞かず、怪物という認識のままで鎌を振るった方が八重樫の精神衛生的にも良かっただろう。背中に非難の視線を感じながら八重樫は立ち上がり、鎌の切っ先を向ける。


「そう。でも、ごめんなさいね。全然信じられそうにないわ」


「ど、うしてッ」


「貴方の願いが真実、優しくてささやかなものだけ・・だったなら、死神アタシは呼ばれていないの」


 母に抱き締められたい。言葉通りの願いを叶えたいだけであったなら、今この瞬間でも昴生は死神の助力は『不要』だと八重樫を止めたはずだ。

 その願いを踏み付けてでも殺さなければならないと決断は揺るがなかった。あるいは、もう既にその願いは叶わない故の慈悲だった可能性もある。何にせよ、八重樫は昴生の判断を尊重した。


「い、いや……いやあッ!!」


「っ――八重樫さ、!」


 最後の足掻きとばかりに噴き出した炎が八重樫を飲み込んだ。菫の悲鳴が漏れ、アルカが腕を突き出して周囲の水を持ち上げたところで、穏やかな声が止める。


「ああ、大丈夫よ。心配しないで」


 火に包まれた八重樫は火傷一つなく、少し強い風に撫でられただけだとばかりに平然と笑みを浮かべて振り返りながら片手を振った。

 呆然とする菫とアルカに比べ、微動だに動じなかった昴生は小さく溜息を吐く。


「この鎌は死の概念そのものみたいで、持ってる間はちっとも傷付けられないの。不思議よね、全ての生物は死から逃れられないから、かしら」


 ふと、菫の脳裏に蘇ったのはありとあらゆる攻撃を受け止めていた地獄の鬼だ。『辛苦となる、あらゆる事象に耐性がある』とそんな話をしていたが、鎌を持った八重樫も似たような能力を得ているのだろうか。

 もしかしたら、火に触れて傷一つ付いていないなら、それ以上の性能かもしれない。


 微笑んでいた八重樫が再び、アミ―に向かい合う。

 どんな攻撃も効果がなかった鬼と対峙して無力感を味わった菫は、死の概念そのものを携えた魔術師と対峙する怪物が今、どれほどの恐怖に苛まれているのか想像に容易かった。


「あ、ぁ……ああぁぁ……!!」


「アタシ達の身勝手で犠牲になる貴方の痛みも苦しみも忘れないわ。さようなら。おやすみなさい」


 月夜を裂くように、鎌は下ろされる。

 ヒュッと風を切る小さな音の後、切っ先が砂の中に埋まる。月が映る水溜まりに波紋が広がった。集まるように舞っていた塵は風の流れに乗って散り散りに。


 少女の声はもうどこにも聞こえなくなっていた。

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