泡沫のような朝を、何度でも

 走り去る菫を見送り『死神』に救助要請をして、返ってきた快諾の文字を視認し昴生はドッと全身が重くなった。

 まだ何一つ問題は解決していない。それでも『死神』が介入すればこの周辺一帯を火の海にする最悪の事態は防げる。あとはどれほど被害を最小限に抑えるか。


「ゴホッ……はぁ、」


 呼吸が辛い。〈緩和アジェーヌ〉を使えば多少楽になるが、呪文を唱えるのに支障はない。今は残っている魔力を温存し、確実に充分な水を移す事が最優先だ。


 片岡アルカを足止めとして置き去りにし、自分より多く煙を吸ったらしく症状の重い織部菫を走らせている。

 失敗は許されない――許さない。


「我は、宣誓者の……、誓いを繋ぐ者、意志に続く者。この身を薪に。燃やし続ける我らに、爪先の慈悲を」


 継片昴生には欠落した記憶がある。

 人間には多かれ少なかれ、自らの記憶を取り零す生き物だ。それでも、経験は体に残る。箸の持ち方を学んだ幼い頃の記憶エピソードが無かろうと、これまで積み重ねた経験は体に染み付いている。


 この呪文もまた、同じようなものだった。

 どの本にも記述されていない。誰から教わったのかも思い出せない。ただ唱えると周囲の魔力が掻き集められて昴生の元へ届くのだ。

 そんなものが何故か体に染み付いていた。


 ――これは神様が味方をしてくれる、特別なおまじない。もうひと踏ん張り、頑張るために。


 呪文を唱えるとどうしてもこの頭に浮かぶのがこの言葉だ。

 一体この呪文は何なのか、仕組みすらわからない。昴生の疑問に対する答えのようで、あまりに幼稚で答えにすらなっていない。


 ただ、『宣誓者』と名を頂いた者がいて、昴生はそのとして認められ恩恵を受けている、それだけは理解出来る。

 しかし、果たして自分は本当に恩恵を受ける資格を持つのか、その正誤を確かめないまま利用している自覚もある。呪文を唱える際、名状し難い焦燥感に襲われるのはそのためだろう。


 それでも――今この場を切り抜けるためなら、手段は選ばない。

 昴生は下ろしていた瞼を上げる。白い虹彩で周囲を確認し、眩しさに目を眇めた。視力を維持したまま虹彩の色を戻すと、光を強く受け止めてしまう。

 だが、これでいくらか〈水の転移〉に回す魔力を確保出来る。


 不意に手の中のスマートフォンが振動する。画面に表示された名前は『織部菫』。すぐに通話を繋げば、電話越しに息も絶え絶えに『投げたよ!』と報告が入る。

 予想以上に早い、相当走ったのだろう。

 昴生は眉を顰めて組紐が沈んだ時間を問うと、予想外に慌てた反応が返ってくる。


『はぁっまって、なんで、やだ、ゼェおねがい、お願い』


 今回組紐が起点となる。水に包まれた状態が最適ではあるが、声音からトラブルが起きているのを読み取れた。

 計算は狂うが、その誤差は視力に回している魔力で補える。


「焦るな、着水しているなら二分……一分も待てば自然に、」


「ゔぁ、あああぁぁ……!!」


 遠くから響く耳をつん裂くような断末魔。

 背筋がぞっと寒気が走った昴生は反射的にスマートフォンのマイクを手で覆った。

 その悲鳴が誰のものか、何が要因なのか、同時にこれを電話の向こうの少女に聞かせてはならないと、瞬時に理解した咄嗟の行動だった。


『無理だよ!』


 この反応は聞こえたのか、間に合ったのか、どちらだろう。後者であってくれ。

 やけに五月蝿い跳ね上がった心音と強烈な耳鳴りに襲われながら、昴生は通話口を塞いだまま急に乱れ始めた呼吸を整える。


「は、……っはぁ、ヒュ……ッ」


 ――まだ間に合う、大丈夫、まだ助けられる、駄目だよ、駄目なんだ、どうして、早く進まなければ、もっと先に、どうして進まなければいけないのか。


 頭の中で自分の声が木霊する。意味のないはずの言葉達が思考を蝕んでいく。

 今、やるべき事は温存した魔力で〈水の転移〉を発動させる事だ。わかっているのに、何も出来ないと理解していてなお、今すぐ燃え盛る五階に戻ってあの悲鳴の元に駆け寄りたい衝動に駆られる。


 あの時と同じだ。

 地獄の獄卒、赤い鬼によって織部菫が宙に放り投げられた瞬間――目の前が真っ暗に、公園内が靄に包まれたように、頭が一つの思考に支配される。


『わーっ!!』


「――、ぁ……っ」


 ふら、と足がビルの方向に向かい始めたのを引き留めるようなタイミングで電話口から気合の入った声が響いて、踏み止まれた。



 ああ、そうか、本当に間に合うんだ。

 一刻も早く助けようと、同じ気持ちで、走っている子がいる。



『やった! 今、沈ん、げほげほっゲホッ』


 ……ただ、どうにもその子は危なっかしくて、仕方ないのだけれど。


 達成感のある頼もしい報告と無茶を連想する咳を聞いて、昴生の頭は急速に冷えていく。一体何をやったんだと問いたいところを、後回しにするくらいには平常の思考に戻してもらった。

 溜息を一つ零して、マイクを塞いでいた手を離す。


「……そうか。助かった、あとはこちらで済ませる。君は無理せず、慎重に、こちらまで戻ってきてくれ」


『うん。アルカをお願い』


「わかった」


 片岡アルカを助けるために織部菫が頼れる相手は今、自分しかいない。

 これは消去法による妥協の結果だ。次を託す声が安堵したように聞こえた昴生は自戒する。

 継片昴生は記憶が抜け落ちた魔術師だ。そのタイミングも夏祭りの後と、何らかの意図を感じるのに何事もなく、それが異様で奇妙で不可解だ。本来なら彼女達が教えを乞う相手としても適切ではない。確実に信頼を寄せるべき相手ではない。


「おい、今の悲鳴って女の子、だよな?」


「ええ? まさか……誰かいるはずないのに」


 昴生が聞こえたように、先程の断末魔が消防団や野次馬する人々の耳にも入ってしまったようだ。にわかに騒めく声に耳を傾け、昴生は早々に済ませようと思考を切り替えて集中のため瞑目する。


 思うところは多々ある。

 それでも今、託されたものを繋げられるのは、自分しかいない。

 まだ間に合う――間に合わせてみせる。


Lake of our life水よ、水よ、, please respond応え賜う


 ――〈水の転移〉とは、古くから存在し、現代でも重用される魔術の一つだ。


 人間にとって水は命に直結するもの。

 しかし、蛇口を捻れば清潔な飲み水が確保出来るこの国に関しては、あまり使い道がない。そんな国で育った駆け出し魔術師が地味だと評するのも、仕方ない。


 バケツに水を汲んで目的地まで移動させる、それだけしか出来ない。

 雨のように広範囲に少量ずつ水を降らせる、一点集中で多量の水を勢いよく噴射させる等、器用な使い方が出来れば使い道も多様化しただろうが――この追従魔術が作られたきっかけからして不可能だろう。


I wish, my loved one私は今一度、――」


 ――病床の母に、寝起きの渇きをなくす一杯の水を。

 この魔術は、子の親を想う気持ち、あまりにも些細な幸福。一杯の水で叶う願いを組み解いた、祈りと奇跡の再現。器用な使い方など出来るわけがないのだ。


 湖の水を魔力の膜で掬って、夜明け前の空のコップへ。

 同じ原理を用いて、川の水を燃え盛るビルのフロアへ。

 離れた位置に沈めてもらった自身の魔力の位置を掌握し、水を掬い上げ、引き寄せる。


 校舎の廊下を並んで歩く二人の少女の後ろ姿が、こそこそと弾ませるくだらない内容の会話が、耳をくすぐるような楽しげな声が、頭に浮かぶ。


 これで正しい、これが正しい。

 誤った自分の力が、彼女達の笑い合う朝のためになる。

 ああ、だけど、何を誤ったのか、明確に思い出せないけれど。それでもいい。こんなに報われる事はないのだ。


「――wake up with smile泡沫のような tomorrow too朝を求む


 この時、昴生は一つ計算違いをしていた。

 菫に任せて川に投げ込ませた、魔力が込められた組紐。それは膜の役割を果たす起点。

 起点の魔力量が増えれば、水を持ち上げる量も増える。それを説明する余裕もなかった。冷静に考える時間も惜しく、後回しにしてしまった。


 触れたら着火する作用を込めた輪ゴム――組紐を沈ませるために菫が何をしたのか、その分の魔力が上乗せされている事を察したのは、何もかも終わった後だった。


「は、」


 全力を出した。もし足らなければ手遅れになるから。

 そうして運ばれている水量が予想以上の質量と認識し、失敗を察した。正確に言えばやり過ぎた。

 しかしどうにもならない。〈水の転移〉は一方通行、器用な使い方が出来ないのだ。


 ――ドッ!!

 結果、街中に建つビルの五階部分から窓ガラスを突き破って滝が発生するという、とんでもない事態になった。


 昴生がいたのは滝の落下位置に近い場所だったが、迫り来る水を盾で防ぎ、盛大に飛び跳ねた水はレインコートによって弾かれた。

 周囲は人も含めて水浸しの大惨事となったが、靴とズボンの裾が浸水した程度で昴生の被害は少ない。


「おいおい今のは何だ!? 水道管が破裂したか!?」

「嘘だろ……いや、水の勢いが止まってるし、火も消えたぞ」

「ぺっぺっ! 何この水、なまぐさっ」

「大丈夫ですか? 怪我は!?」

「うわやっば……待って待ってそこガラスあるから気をつけて!」


 大量の水が噴き出したが、幸い範囲が広がったおかげで突然降ってきた水を被った程度で済み、大きな被害は出なかったらしい。

 がやがやと誰もが何が起きたのかわからず混乱している最中、昴生は周囲を気配を探り、仰向けで倒れているアルカを見つけて駆け寄った。焦点の合わない青い瞳は開かれたまま、夜空を仰いでいる。


「片岡! おい、聞こえているか? 片岡、おい、意識は……」


「ゴホッ……っぱ、うぇ?」


 水を自力で吐き出したアルカは目を瞬かせながら呼びかけに反応を示す。意識がはっきりし出すと勢いよく飛び起きて「お前のせいだな!」といつものように食って掛かってきたため、当然の怒りだと受け止めながら昴生が静かに吐息を溢した。

 本当に、間に合った。

 安堵している昴生をよそに、アルカはずぶ濡れになった全身にげんなりとしながら髪を乱暴に絞る。


「あーもうびしょびしょ……お、そうだ!」


「!?」


「よっし、乾いた。いいなこれ! らくちん!」


「………………」


 一瞬で髪も服も水を吸ってぺっとりとみすぼらしくなっていた人の形が光と共に消えて、分散した光が集合すると同時にすっきりと乾いたアルカの姿に戻っていた。

 咄嗟に口元を抑えながら後ずさりした昴生は、先程までの安堵の気持ちが吹き飛んで虚脱感に襲われる。


 しかし、まだ終わったわけではないのだ。

 緩みそうな気を締め直して、昴生はまた周囲を探る。そして見つけたソレにゆっくりと歩み寄った。アルカも不思議そうに後ろをついていく。


「ん? どこ行くの、菫がそっちにいるの?」


「ごほっ、いや、織部は今離れていてこちらに戻ってきているところだ」


「はー? じゃあどこに、」


 足元に視線を落としたアルカは何かに気付いたように表情が険しくなった。その様子を一瞥し、説明が不要だと察した昴生は歩みを進める。


 二人の魔術師の足元を、温い風が通り過ぎる。地面に広がった水が自然を装って一方向に向かって流動する。静かな風と水が、微量の砂を持ち上げて運んでいく。少しずつ、少しずつ、何も異変など起きていないように、音もなく。

 風が流れていく方向に進んでいけば、水たまりの中に小さな砂の山が出来ているのを見つけた。


「しなない」


 砂――否、もう原型などない燃え滓がじわじわと炙られるように揺れて燻っていく。


「おか、あさま、なんども、アミーは、」


 最早生物とすら呼べない状態であっても、それは自我を持ち、濡れた核を熱しながら再生しようとしていた。

 それを見たアルカは、上に突き上げた腕を振り下ろした。


「でやっ!」


「ぴゃんっ!」


 ばっしゃーん!

 周囲に広がっていた川の水を一ヶ所に集め、バケツ一杯分くらいのそれを容赦なくアミ―の上にひっくり返した。勢いよく水を被った砂の塊の火種は消え、集めていた滓がまた飛び散った。


「よし、思い出した。えーと〈水の転移〉、確かこんな感じだった!」


「……まぁ、おおよそ間違ってはいない」


 起点を定める手順をすっ飛ばし、水源から水を掬い取るのではなく地面に散らばった水たまりを掻き集める魔力による作用も滅茶苦茶ではある。

 しかし、アルカの魔力量であれば無茶も通ると断言した通りの事が起きているだけだ。アミ―を無力化している一点においても問題は無い。ただ、その規格外っぷりに昴生の口から溜息は漏れた。


「…………え? で、こいつどうしたらいいの?」


 アミ―が再び燃えないようにアルカは何度も自解釈版〈水の転移〉で妨害し、二回繰り返したところでキリがない事に気付き、困惑した顔で昴生に回答を求めた。

 アミ―は延々と蘇る。アルカも別に疲れないが、埒が明かないこの状況を張り付いてずっと続けるは嫌だ、嫌すぎる。


「なんかどうにかこうにかして、海に沈める?」


「今は有効でも、水中で燃える術を学んだら無駄になる」


「はぁぁ!? 火って、水の中でも燃えるの!?」


「関心があるなら家に帰ってから花火と海底火山について自分で調べてくれ。今ここで説明はしない」


「今! 家に帰れなくなってるんだって! こいつのせいで!」


「ひ――――ん!」


 半ば八つ当たりのようにアミ―に水を浴びせ、悲鳴を上げさせている。

 人目がない場所まで移動出来て本当によかったと、昴生はひっそり考えた。もしこの現場を見た一般人がいたら、レインコートで隠れた昴生の姿は見えず、アミ―の存在もどこまで認識出来るかわからず、結果として一人で大騒ぎしているアルカだけを目撃されているところだった。


「……片岡はこの状況で、この生命体の息の根を止める方法がわかるか?」


「はあー? 喧嘩売ってる? わかんないからわざわざお前に聞いてるんだけど!?」


「悪いが、僕にも思いつかない。燃やしても火そのものになり、火を消しても物質が残る。物質そのものを際限まで粉砕して分散させたとしても、今のように一ヶ所に寄り集まってしまう。物理的な破壊手段は通用しないだろう」


 このまま放置は出来ない、しかし仕留める手もない。懐柔も、共存も不可能だ。アルカは愕然と目を見開いて、水によって歪な形になった滓の固まりと昴生を交互に見る。


「えっ、え、う、うそ。じゃあこいつ、どうすんの!?」


「今日、君の事を殺せる魔術師の話をしただろう」


「え? えー……あー、そんな話もしてたような……?」


 唐突に話がずれたが、午前中の会話がふんわりとアルカの頭の中に呼び起こされた。とはいえ大した話もしていないのだが。

 何となく自分が負けてしまいそうな――屈強で横暴で話の通じない恐竜のイメージが浮かんだが、急にその話題を引っ張ってきた理由に気付いてアルカは目を瞬かせる。


「えっ、まさか来るの? なんかそのやばそうな人」


「来る。だが、恐らく相当時間がかかる。交代要員にもなれず悪いが、到着するまでの時間を稼いでくれ」


「うへぇ――……相当時間かかるって、何時間くらい?」


「これから問い合わせ、る……」


 その時、近付いてくる足音に気付いた。

 アルカと昴生は警戒を露わに音の方向に振り返る。二人の元に接近していたのは屈強な一人の男性と、彼に担がれた一人の少女の二人組だった。


 そして、そのまま勢いよく駆け寄って接近してくるその二人組は、アルカと昴生が良く知る人物だった。


「おまたせ! これでもすっごく急いで来たんだけど、二人とも大丈夫だった……駄目ね!? 昴生ちゃんも大変な事になっちゃってるわ! アルカちゃんは怪我してない? ああっ、菫ちゃんみたいに喉とか痛めてたら無理に話さなくていいわよ!? ほんっとうごめんなさいね、国外にいたからこんなに遅くなっちゃって」


「いや、僕が連絡してから十分も経ってませんけど……」


「遅すぎるわ! 昨日の時点で相談でもしてくれてたら、諸々ほったらかしてもっと早く帰国出来てたもの!」


「や、八重百合さん……?」


 アルカが見上げるほどの大きな体躯を愛らしく揺らしているのは、昴生以外の魔術師として知り合った、八重樫百合だった。

 文化祭準備期間に会った彼は青い髪とシンプルな服装ながらも派手な印象があったが、今の八重樫の髪は濃い茶色で清潔感のあるまとめ方をしてスーツ姿で、本当に仕事を終わらせてそのまま駆け付けたような装いだった。

 だから一瞬、誰だかわからなかった。アルカが不思議そうに名を呟くと、八重樫は柔らかくはにかんだ。


「ええ、頑張ったわね。もう大丈夫、ここからはアタシに任せてちょうだい」


 そう頼もしく告げる彼の腕には、目を回している菫が抱かれていた。


 ……一体、ビルの中でアミ―と対峙している間に何が起きたのだろう。

 状況がさっぱり理解出来ないアルカは昴生に視線を流して説明を求めたが、昴生も困惑に眉を顰めて、首を横に振った。

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