怪火の外側で

 時間を遡る事、数分前。


 菫の視界の外側、昴生はレインコートで自身と菫の体を隠すように大雑把に羽織った後、躊躇いなく割れた窓から飛び降りる。

 吹き上げる風怪火現場し、盾を出現させ、作った足場を蹴る事で落下の勢いを削ぐ。


 それでも、二人分の重さで勢いを殺し切る事は出来なかった。緩衝になりそうな植木も無い、地面との衝突を避けられない。


「〈反発フリッカ〉!」


 ならば他に緩衝になるのは己の身しかない。菫の体を激突から庇うため、彼女の頭を覆うように抱え込んだ昴生は背中から落下した。


 ドッ、と強い衝撃音は消火活動による喧騒によってかき消される。

 背中に受けたダメージは思ったより少なかった。どこかの骨が歪んだかもしれないが、折れた感覚はない。内臓が揺れた不快感程度で済んだ。後々内出血の痕が出てくるだろうが、背中であれば見つからない。


 しかし、落下の弾みで抱え込んでいた菫の頭が腕からすっぽ抜けた。

 昴生は慌てて身を起こすと、菫はすぐ横で地面に転がっていた。何が起きたのか理解出来ていない困惑の表情でのろのろと起き上がる。


「ゴホッ! ケホッ、織部、怪我は、」


「だ、――げほげほッ」


「〈緩和アジェーヌ〉」


 菫の喉元に指先を寄せて昴生が唱えると、呼吸すら辛かったじくじくとした喉の痛みが引いていく。

 何度か深呼吸すると、混濁していた意識がはっきりしてきた。


「どこか不調や、強い痛みは?」


「あ……目と、喉が、けほっ、痛かったけど、今は無い」


「痛覚が鈍っているだけだ。あまり喋らないほうがいい」


 確かに痛くはないが咳は継続して出ている。了解のため頷いた時、直前まで咥えていて吐き出した白手袋が視界に入った。さすがにこのまま返しにくいため回収する。

 片手に段ボール銃、片手に片手袋、なんだかとっても不審者だ。


「ゴホッ……アルカは、まさか、まだ」


 不審者の両手から塗装された道路、先程まで不法侵入していたビルと五階部分から立ち上っている煙。一緒に飛び降りたらしい目の前の昴生。

 窓を蹴破って突入してきたアルカと、火の塊になった絵画の少女だけがいない。

 あんな危険な場所に、一人だけ置いてきてしまった。徐々に状況を理解し始めた菫は血の気が引いた顔でビルを仰ぐ。


「……片岡のために、動けるか?」


「動けるよ!」


 不安と悲観、自分に対する失望で胸が苦しかった。だから菫は昴生の問いに考える間もなく食い付いた。


 昴生は顔を顰める。

 菫の症状からして昴生より多く煙を吸っていただろう。すぐ病院に向かわせるべきだ。頭で理解しているが、昴生一人で現状を打破するには力が足らず、時間がかかる。


 片岡アルカの早急な救出には、怪我人である菫の援護が必要不可欠だ。救援を求めれば、彼女は応えるだろう。予測はしていた。

 菫の迷いない即答に、昴生は安堵と不甲斐なさを苦く噛み締める。


「〈水の転移〉を使う」


 その名を聞いて菫の脳裏に浮かんだのは去年の秋頃、半年以上前の出来事だ。


 いつものように織部宅に三人で集まり、テーブルの上には三人の飲み物の他に二つのコップを用意した。

 片方の水が満たされたコップから、水だけが持ち上がり空のコップに移動する。

 少し水が減ったコップと、少しの水が入ったコップ。それを見比べたアルカが「地味!!」と酷評していた。菫は単純に手品のようだと感動した。


 あの魔術を鎮火に繋げる――つまり、どこかから大量の水を用意する必要がある。

 菫は頭の中で次の行動を予測しつつ、頷く。


「昨日体育館に向かう途中、橋を渡っただろう。そこに向かってくれ」


 川の水! 消火の水量としては充分過ぎる。

 ただ橋は渡ったような気がするが、印象に残っていない。体育館までのルートは覚えているが、暗い中で見逃さないように気を付けなければ。

 菫は力強く頷いて立ち上がった。


「あとは? あとは何すればいい?」


「川に着いたら、組紐を投げ込んで連絡してくれ。あと、悪いがレインコートを借りておきたい」


「ケホッ、うん、いいよ。あっ、荷物任せちゃっていい? このままでいいから。スマホ、すまふぉ」


 美術館から駅、さらに体育館の方向に向かうとなると歩いたら十分程度だろう。もっとかかるかもしれない。

 身軽にするため菫はリュックを下ろすため、銃と組紐を口で咥えて片手を空けた。

 地面に落としたリュックの中に手袋を突っ込めばちょうど両手が空いた。スムーズにスマートフォンを取り出せる。出発前に整理して正解だった。


「わかった、預かる。髪も元に戻しておこう。剥離ピール……それと少しは落ち着いて、」


あふぉあとよろひふよろしく!」


 髪から青い粒子がサラサラと落ちていくのも構わず、菫はスマートフォンの電源を立ち上げながら駆け出す。……段ボールの銃を咥えたまま。


「……わかった」


 一刻も早くこの事態を収めなければ病院に押し込めない。充分に理解して昴生は溜息を吐いた。

 入れ替わりで消防隊員が割れた窓ガラスに気付いたらしく、消防車の方へ戻っていく。昴生はその場に留まるため、菫の残していったリュックを引き寄せつつ、羽織ったレインコートの内側で、スマートフォンの電源を立ち上げる。


 ――アミーと名乗った、炎を纏い、再生する怪物。

 人どころか、もはや魔術師の手にも負えない。『死神』の手を借りる必要がある。


 出来れば最後まで使わずに済ませたかった手段だが、他に手はない。昴生は苦々しく、現在地の住所と救援要請をメッセージに認めて、送信した。


 メッセージの返信はすぐに戻ってきた。

 簡潔に、頼もしく、『任せて』と。






「慌てて持ってきちゃった、はぁ、はぁっ……げほげほっ」


 思わず咥えたまま走り出してしまったが、段ボール銃は置いてきてよかったなと後悔しつつ、どうしようもないので脇腹からズボンのウエストに押し込んだ。

 片手にスマートフォン、片手に組紐を握り締めて走る。


 消防隊員も、火事に気付いて足を止める通行人も少なく、上を見上げていたため、菫は問題なく彼らを擦り抜けて駅まで到着した。

 全力疾走し続けて一分弱、もう息が辛い。普段であれば体力に余裕があるはずなのに。


「ゲホッゲホッ、ぜぇっ……ごほっ、ごほ」


 咳が酷くなってきたせいかもしれない。喉の痛みの代わりに心臓と肺が痛くなってきたが、構わず走り続けた。

 あの煙の中で、アルカが戦っている。


「――あった!」


 道路に沿った短い橋があった。アルカと将来について話していた時に通り過ぎていたのを思い出す。

 橋の中腹で立ち止まり、昴生に電話をかけながら川に向かって組紐を放り投げた。

 水面に落ちた瞬間、ワンコールで通話が繋がる。


「はぁっ、投げたよ! げほっ」


『わかった。沈んでから何秒ほど経った?』


「えっ!? ま、まって、沈んでない!」


 慌てて川を見下ろし、夜の暗い水の上を黄色と薄紫が流されていくのがはっきり見える。

 早く沈んでくれと願いながら見続けるが、ゆっくりと距離が離れていくだけだ。


「だめ、沈めてくる!」


『焦るな、着水しているなら二分……一分も待てば自然に、』


「無理だよ!」


 どうにかしなければ。一分どころか、一秒だって待ってられない。

 菫は周囲を見渡し、川の横に整備された遊歩道へ降りられる階段を見つけた。急いで半分駆け降りて、残り半分を跳び降りる。着地した足がジンと痺れるのも構わず走る。

 暗くて水深は測れないが、最悪飛び込んで直に沈めよう。川の流れが緩やかだったおかげで組紐の着水地点まで難なく追い付けた。


 近くで視認すると一枚の葉っぱに引っかかって一緒に流されている。落としたタイミングが悪過ぎた。

 しかし組紐自体は水を吸っているようで、水面に出ているのは葉に乗った一部だけだ。あと少し、あと一押しで沈みそう。石でも投げて当たれば……。


 そうだ、銃!

 距離はおよそ三メートル、射程範囲だ。スマートフォンを持ち替えて、脇腹に差していた銃を取り出し片手で構える。


 一発目、見当違いなところに当たる。それでも水面が揺れるのが見えたので当たった位置はわかった。

 二発目、一発目の反省を元にかなり近付けたが、前にずれてしまった。


「う、」


 焦りが滲む。六発分として輪ゴムを受け取ったが、三本分装填した後、残り三本をどこにしまったか思い出せない。

 ズボンのポケットを上から撫でてみてもそれらしい感触はない。レインコートのポケットに入れたなら、手元にない。


 最後の三発目、――外れた。外れてしまった!


「わーっ!!」


 直後、反射的に銃をぶん投げた。

 考えなんてない、とにかく何かを当てようと思考が一色になったやけくそな行動だった。


 くるくると何度か回転して、銃も外れた場所に着水する。

 それでも、輪ゴムより大きく重く、比較的近くで勢いよく水に沈んだ反動で小さな波と水飛沫が生まれ、組紐は川に飲み込まれた。


「やった! 今、沈ん、げほげほっゲホッ」


『……そうか。助かった、あとはこちらで済ませる。君は無理せず、慎重に、こちらまで戻ってきてくれ』


 やや疲れを滲ませた声で、『無理せず慎重に』の部分が特に強調されて聞こえる。通話を繋ぎっぱなしでバタバタしていた自覚がある菫は苦笑いした。


「うん。アルカをお願い」


『わかった』


 通話を終了させると、菫は深く息を吐きながら膝に手をつき、背中が丸まった状態でギリギリ立ち留まった。

 疲れて座り込みたい体の疲労感と、アルカの安否が心配で走り出したい逸る気持ちが争い、まず数秒呼吸を整える事で落ち着いた。


「よし、」


 三回ほど深呼吸を終えると、息苦しさを無視して上体を起こす。早く戻ろう、踵を返して階段へ向かおうとした時、背後から大きな水音が上がった。


 振り返ると、水が天に向かって立ち昇る光景が広がっていた。

 若芽の成長過程を早送りで見ているような、細い一筋の水が少しずつ、少しずつ、バシャバシャと水音が立つたびに確実に厚みを増して昇っていく。


「おお……! すご、ぉ…………え、」


 バシャバシャ、ジャボ、ゴボッ。水音が、どんどん重くなっていく。


 これだけ水を届けたら無事鎮火出来るはず、そんな期待を込めて見上げつつ階段を登り橋の上まで戻ってきた時、膨らんだ水の異様な大きさに気付く。

 とうとう一軒家さえ飲み込みそうな大きさになった水を、菫は愕然と見上げるしか出来ない。


 本当にこんなに必要なのか? 過剰では? 実は知らないだけでこのくらいは普通の量なのだろうか? 頭の中を疑問が巡る。

 同時に、余力が少ないと自己申告していた彼の底力を目の当たりにしているようで、純粋に恐怖を覚えた。フルパワーならどれだけとんでもないのだろうか。


 そんな事を考えていると、菫の目に妙な光景が映る。


「え……?」


 その時、織部菫は知る由もない出来事が、偶発的に起きていた。

 一つ、縁を結ぶ役割を持つ組紐。

 一つ、微量ながら魔力を含んだ大量の水。

 一つ、月明かりの夜。

 条件が重なり、一つにまとまった事で、本来起こり得ない状況が発生した。


 ――目、だ。


 宙に浮かんだ水面に映る一対の巨大な目と、視線が交わった。

 よくわからない存在と見つめ合っている。温度も感情も読み取れない眼差しに、形容し難い寒気が背中を這い上がる。


 見間違えかと菫が目を擦り、再び見上げた時には既に水は移動した後のようで、何も無くなっていた。

 目の錯覚か、何かを見てしまったのか。判断が出来ない菫は一旦考えるのをやめて走り出す。

 もしくは――気のせいだと見て見ぬふりをして、わからないと気付かないふりをして、それどころじゃないと言い訳をして、逃げ出した。



 織部菫は何も知らない。

 方舟に、方舟の役目があるように。花には、花が担う役目があるのだと。

 己の役目からは決して逃れられない。かつての誰かの嘆きのように、音もなく、誰かに拾われる事も無く。


 何も知らないまま、この夜、閉ざされていた彼女の運命は静かに開かれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る