この身に生まれた望みのために

 別に、二重人格になったとかそういう話ではない。

 ちょっと甘いものが食べたくなった、よしシュークリームにしよう。そうして近場のコンビニに立ち寄って、スーパーで売られているより数十円高いシュークリームを前にした菫のようなものだ。

 今すぐ買って食べたい気持ちと、数十円を節制したい気持ち。

 菫は「自分の中の天使と悪魔が戦っている」なんて言っていて、きっとそれに近い。


 ただアルカの場合、天使と悪魔なんて抽象的なイメージではない。


 かつての『方舟わたし』と現在の『片岡アルカ』という、同一でありながら大きく乖離したものだ。

 対立する思想はまた、シュークリームの値段の差なんて可愛らしさの欠片もない。


 方舟わたしは言う。『こんな事で限りがあるエネルギーを消耗するな』と。


 片岡アルカは反論する。『普通に生きたら九十九万年分あるんだから、生きるためにちょっとくらい使っても良いじゃないか』と。


 しかし方舟わたしは『そもそもこの身のエネルギーは、捧げるためのもの』と、全否定する。


 方舟わたしは言う。

 これ以上、無駄に抗う意味はあるのか。

 エネルギーを消耗するだけの現状を持続する必要があるのか。

 役割を果たさないのであれば、求めるものに捧げるのが正解ではないか。


 片岡アルカは何も言えなくなる。

 そりゃ、贈答用に用意された菓子をつまみ食いして、ちょっと足りなくてもバレなきゃいいじゃんと、言っているようなものだ。そんな主張で怒られないわけがない。

 それに、方舟わたしの考え方が、本来の正しさであり在るべき形なのだと、自分自身だからこそわかってしまう。



『天使は神様が作ったものだから、そりゃ思い通りに動いてくれなきゃ困っちゃうよ』


 その時はそんなものか、と納得した菫の言葉が、今は鎖のように重い。

 アーノルド・モルゲンシュテルン。

 かの創造主によって、役割を与えられ作られたモノ。


 望まれたまま正しくあれ、役目を果たせ、ここに在る意味を証明せよ。

 天使は淡々と片岡アルカを否定する。




「役目、なんて……そんな、」


 片岡アルカに、役目なんて大層なものは持ち合わせていない。

 それなら、この炎の怪物と対峙する意味はあるのかと言われれば、無いような気もしてきた。

 痛みに耐えながら逃げる範囲を建物内のみに制限する意味が、あったはずなのに、頭がぼんやりとして思い出せない。


 もう逃げてしまおうかな。


 こいつは追ってくるだろうけど、伸びる腕以外はそんなに早くなさそうだ。一旦街の外まで離れたら休憩が出来る。この熱い痛みからも避けられる。

 この身を維持するためであれば、それが合理的対応だ。


「……良い、わけない、」


 この怪物と距離を取れば、離れた範囲がこのフロアのように火の海になる。

 ビルの外にはさっき脱出した二人がまだ近くにいる、この火災を止めようと尽力する人もいる、住まいが近ければ不安そうに見守る人もいるだろう。

 彼らの末路など、考えたくもない。


「あ、れ…………?」


 織部菫と、ついでに継片昴生の生死にこだわる理由はわかる。それ以外の顔も知らない命にこだわる理由はわからない。


 片岡アルカが思い入れのある人類は、指で数えて事足りる。

 それ以外のその他大勢を庇う理由なんて、全然無いはずなのに。死んでいくのを見たくないなんて、それだけの理由で痛みを耐えようとするのは違和感がある。


「あ、」


「知ってるわ。だんまりさんは空想が好きなんでしょう? 幻想わたしにはよくわからないけれど、あなたがアミーになったら好きになれたりするかもしれないわ」


「かほ……ッぃ、ぃ…………!」


 腹に穴が開くと、人間って芋虫みたいになるんだなぁ。手足が勝手に床を叩いて悶絶しているのに、頭だけは嫌な事知ったと妙に冷えていた。


 何回作り直して、何度目の融解だったか。

 今の思考は方舟の機能の一部なのか、片岡アルカとして生まれたものなのか、アルカにはよくわからなくなってきた。


 熔けて、融けて、自我の境界すら曖昧になった後に残るのは、片岡アルカと呼べるものなのだろうか。


「……はは、」


 逃げ出したいくせに、もう痛いのはこりごりなのに、作り直したアルカの体は変わらずこの場に踏み留まっている。

 己の意味不明なちぐはぐ行動にアルカも笑うしかない。


「なんか思ったより、人間やれてたみたいだよ、方舟わたし


 非合理的だとか無意味だとか、頭の中をがんがんと揺らしてくる。

 そんなもん知るか。どうだっていいや。


 今死ぬかもしれない大勢は片岡アルカにとってどうでもいい存在だ。

 だけど、死なせるのは気分が悪い。


 もう痛いのは嫌だし、疲れたし止めたい。

 そんな弱音で、今この場で最強である自分が尻尾巻いて逃げ出す? すっごく格好悪い。アミーに負けるより、とんでもなくダサい。


 格好悪くてもダサくても、生き残るのが一番だって言うなら何の問題もない。

 余力は充分。まだまだ全然、死なない。


 そこだけはだいぶ怪物だけど、それ以外は『人間ってそういうものだから』って事でまとめたら、頭の中の否定が途切れる。

 しかし、方舟わたしは再び問う。



 望まれた正しさから外れ、役割を放棄し、人として生きる事を選ぶ。

 その果ての結末に、覚悟はあるのか。



「果ての、結末……?」


「なぁに?」


「……別に、お前に話しかけてねーから」


 望まれた正しさ、役割――この身は、エネルギーの塊だ。

 それを捧げる相手――『テンセイシャ』には何らかの使い道、目的があるのだろう。だから、『テンセイシャ』の元に届けられなければ、目的は恐らく果たされない。


 役割の放棄……その果ての、結末。それが何を意味しているのか、アルカには想像すら出来ない。それでも、きっと良くない事を示唆していると直感が囁く。


 ……なんだそれ。覚悟って何だ。

 役割を放棄するなら責任は持てと言いたいのだろうか。


 中途半端な同化では言葉の真意まで正確に読み取れない。

 いや、読み取れないほうがいいのかもしれないけれど――本当に? このまま知らないままでいいのだろうか。


「けつまつ。なんだかお母さまの寝物語のよう。あなたがどんなお話を考えているのか気になるわ」


「だからお前に話しかけてねぇッ、てば!」


「じゃあ自分とお話していたの? お母さまもお母さまとお話してたけど、とてもとてもつらそうだった。あなたもあまり楽しくなさそう」


 先程まで無邪気に楽しんでいたアミーの声色は沈み、揺らめくだけの炎は小首を傾げる。

 炎の表面に表情など当然ないはずだが、相手を慮り憂うような仕草に見えた。

 しかし抱き締めようと伸ばしてくる腕は邪悪そのものなので、アルカは容赦なく振り払う。


「どうしてつらいのに、大人って自分とお話ししてしまうの?」


「おとな、」


 まだ学生で、未成年者。アルカの自認は子供だが、同時に就労も婚姻も認められている大人でもある。

 アミーのずれた疑問に、色んな情報がごちゃ混ぜになったアルカの頭の中で、一つの声がクリアに蘇る。


『アルカは何がしたい? どんな大人になりたい?』


 一昨日、球技大会の帰り道。問われて困ってしまった質問。

 今ならわかる。アルカは自覚がなかっただけで、いずれ自分の身は誰かによって消費されるものだと、役割を理解していた。


 大人になる未来なんて、人らしい将来なんて、片岡アルカにそんなものはなかった。


「……そんなの、」


 明るい表情でまだ不確定な将来を見据える彼女が眩しくて、悪戯っぽく語られた夢は甘く幸福で、惑わされた。

 役割を思い出したのに、それ以外は切り捨てなければならないとわかっているのに。


「これから死ぬお前には、一ミリも関係ない!」


 片岡アルカがここに立つ理由。

 それはあの時、答えられなかった答えだった。


 織部菫が語った夢の、一番近くにいたい。


 それは役目を背負ったエネルギー体である方舟わたしでは叶えられない。ここから逃げ出して大勢を見殺しにした臆病な怪物にも叶えられない。

 彼女の友人であり、ヒーローだと呼んでくれた片岡アルカにしか出来ない。

 ごちゃごちゃと余計な事ばかり考えてしまったけれど、結局答えはたった一つだけだった。


 なんだ。――ああ、スッキリした。

 果ての結末とやらがどんなものか知らないが、いくらでも覚悟決めようじゃないか。

 負けられない理由がわかった。折れない理由が出来た。創造主かみさまとやらが与えた役割を放棄してでも、叶えたい夢が見えた。


「死なないよ」


 アミーは平然と、己の胴体に突き刺さった矛を熱で熔かしながらアルカの言葉を否定する。


「アミーはお母さまに望まれたから、何度だって蘇れる」


「あっそ」


 後はもう、消耗戦だ。

 アミーの『蘇り』とやらに限度がある事を、アルカの燃料いのちが尽きる前に見つかるのを祈りながら探っていくだけだ。


 ……いや、どちらかの限界より先に、ビルの方が壊れそうだ。

 どうにか外の人を遠くに避難させられないか、なんとかならないもんかと考えながら新たに矛を作ろうと髪に手をかけた瞬間――視界が一変した。


「ひッ――――」


「ごがぼっ」


 水、水、水。どこからともなくフロアの床から天井までを満たした濁り水に、アルカは窒息しかける。

 何故、一体どこから。そんな疑問が浮かぶ間に水に浮かされた体が流されていく。どこに? さっきアルカ自身が割った窓にである。

 手足をばたつかせたところで排出される激流に抗えるはずもなく、唐突な出来事で光の状態に戻る事すら思いつく隙もなく、アルカは大量の水と共に五階の高さから落下していく。


 頭を打った衝撃を最後に、軽く意識が飛んだ。





「――……ぃ、おい、片岡」


「ごほッ……」


 呼びかける声が聞こえて仰向けの状態でまずい水を吐き出す。ゆっくりと目を開いたアルカの視界に飛び込んできたのは、真っ白な少年だった。

 白のレインコートを羽織って、白髪と白色の瞳という見慣れないカラーリングで見覚えのある眼鏡をかけた継片昴生が、気遣わしげにアルカを見下ろしている。


 突然現れた水。今も全身を濡らしている水から僅かに感じる魔力。

 状況を察したアルカは飛び起きた。


「お前! お前か! あの水! やりすぎだろ!!」


「消火活動における必要最低限の水量を把握していなかった。過剰になった落ち度は認める」


「言い方ァ!! こちとら頭をゴンとしたんだが!?」


「すまない」

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