願いの成就

 一瞬の出来事だった。


「進め!」


「え、」


 昴生が険しい顔で振り返り、数歩後ろに戻る。彼は戻っているのに、指示は『進め』で、緊張が解けていた菫は判断が取れずその場に踏み留まる。

 彼を追って振り返り、後ろ見えたのは、眩しい光と、それを遮るように現れた壁――盾、で。


 目を開けていられず閉じた直後、足が浮いた、体が浮いた。

 それら全て一瞬の事で……鬼に放り投げられた事、車の事故の衝撃を思い出して、菫は咄嗟に身構えられた。銃を握ったままの両腕で頭を抱えて身を縮める。


「う、ッ!」


 背中にぶつかった感覚と同時に浮遊感も消えた。体が吹き飛ばされたのは体感一秒もなく、右側の背中から床に着地したようだ。リュックが緩衝材となったらしく、体ごと吹き飛ばされたにしては痛みは少ない。

 ……吹き飛ばされた? 一体何に?

 直前に見た光と、その方向にあった絵画の燃え滓。嫌な予感を抱きつつ上体を起こしそちらを向けば、予感を上回る最悪な光景が広がっていた。


 壁と天井は壊れ、瓦礫が散らばった床には煌々と炎が燃え盛っている。

 絵画を焼いた火も見慣れない大きさだったが、その比ではない。炎が揺らめく熱風だけで、頬が焼けそうな熱さがあった。


「……まずいな」


 菫の前に立つ昴生が焦りを滲ませて呟く。言われなくても見ればわかる状況をわざわざ彼が口にする、これ以上の悪い知らせがあるようにしか思えない。


「な、なに、が?」


「僕が起こした火なら制御出来たが、この延焼は違う。今の余力では消火し切れない上に、恐らく今の爆発で消火装置が壊れた」


 足音が気にならなくなるほど鳴り響いていた警告音が、いつの間にか消えている。

 つまり、この火事は昴生の手で収められる物ではなく、消火設備も機能不全。そうなれば出来る事は二つ、早急な避難と通報しかない。


「はやく、ッごほ! ――わ!」


「それで口と鼻を覆って、すぐに外へ出ろ」


 煙に咳き込んだ菫の顔に軽く柔らかい物が当たる。

 驚きつつ手に取ると白い手袋の片方だった。入る直前に昴生から借りたゴム製の黒手袋と違い、柔らかい綿素材。よく見ると彼も手袋を付けた左手で口元を覆っていた。


 ――好きな相手が外したばかりの手袋を口に当てろと!?


 抵抗感は強いが、菫に反抗する余裕なんてない。非常時だと自分に言い聞かせて鼻と口を覆うと、粘膜の痛みが若干和らいだ気がした。

 指で触れた頬に触れた時とんでもなく熱かった。火のせいだと思い込んだ。煙で目が痛いのも相まって泣きそう。


 避難訓練の基礎、火事の際は姿勢を低くして移動。片手で体を支えて頭の高さを維持、膝下を駆使して這いずるように階段の方向に向かい出す。

 とにかく早く脱出しなければ。


「……確実に消滅したはずだ。何故生きている」


「ええ! おかげでお母さまの願いをようやく叶えられたわ!」


 背後の会話に菫は瞠目する。幼い少女のようなこの声は、あの爆発は。

 振り返るとそこには、少しも動いていない昴生の後ろ姿と、火柱があった。絵画の少女の姿はどこにもない。


「『蘇ってほしい』――お母さまの望みはわかっていたの。でも、叶える方法が幻想わたしにはわからなかった……ずっと、ずっと」


 木の幹から枝が生えているような炎の触手が二本、ゆらゆらと不安定な火の表面が一部だけ声が発されるのに合わせて激しく歪んでいる。そこには顔があって、天井に伸ばされた触手は子供が万歳しているようで。

 直立する炎の塊が、絵画の少女だと理解する。


「ずっとずっと、お母さまとおわかれしてからもずっとずっと、ずっと考えて、でも出来なくて……だから、ありがとう! 幻想わたしを殺してくれて!」


「……術者が、いなくても蘇る、使い魔? ゴホッ……そんなもの、ありえない。あの、絵画にも、魔力は残っていなかった」


「使い魔? それって本物って意味?」


 全く違う。しかし昴生の訂正を挟む余地はなく、炎の勢いは増して少女の声は嬉しそうに弾む。


幻想わたし、本物の何に見えてる? ムスメ? ノロイ? アクマ? どれかな、アクマかな? 本物のアクマ、お母さまの使い魔……なんてすてき!」


「――ああ……一〇〇年も前なら、遺伝子疾患そのものが、無いのか」


 絵画とは想像の具現化であり、作者というフィルターを通した『かつてあった風景』でもある。そして大半の絵画には必ず、モデルやモチーフが存在する。


 使い魔にしてはあまりにも、人に寄り過ぎている外見だった。

 一〇〇年前、呪い、悪魔、……顔の造形や馴染みのない言語から伝わってくる異国の、遺伝子疾患を思わせる色素の薄い娘。『蘇ってほしい』と込められた願い。


 事実を確認する術はない。それでも、得た情報から思い至る可能性は理解する。昴生は顔を歪めた。


「本当に……使い魔なんて、ろくでもないものばかりだな」


 込められた思いがどんな美しい願いであっても、けして失えない物だったとしても、自らの手から離れる前に夢を終わらせなければならない。こうして後始末するのは、第三者になるのだから。

 全く、余計な事を察してしまった。殺しにくい。そもそも、蘇るものを殺せるのだろうか。明らかに腕が重くなる錯覚を振り払い、昴生は片腕を上げる。


 少女の形を無くした炎の化身が、ゆらりと動く。

 昴生は警戒を強めたが、彼女はまるで踵を返すように半回転して二人の側から離れていく。


「待て、どこに……、ゴホッ、ごほ」


「え? もちろん外よ? 知らなかった? みんなこっちから来て、あっちから帰るの。ふふ、初めてだからわからなかったのね。ふふ、ふふふふ」


 炎に囲まれた美術館の中に響く楽しそうな少女の笑う声は、あまりにも不気味だった。

 顔を引き攣らせる人間二人の心境など炎の怪物は悟れるわけもなく、得意げに先導するよう進み出す。――床を焦がし、熔かしながら。


「おいで、こっちよ。でも幻想わたしの近くにきたら死んじゃうから気をつけて? ああ、そうだ。お名前、」


 瞬間、炎の前に壁が立ち塞がる。正面だけではなく左右、そして背後も出現した盾により少女は閉じ込められた。がたがたと揺れる音と「はぇ?」と不思議そうな声だけが聞こえる。

 既視感のある光景だな、とぼんやり眺めていた菫は結局移動し損ねて一ミリも動いていない。振り返った昴生は呆れて溜息を吐く。


「ゴホッ……何でまだここに」


「なんか、びっくりし、ゴホッ……ごほ、ごほっ」


「とにかく出、よう」


 火災現場で恐ろしいのは燃え広がる火よりも早く迫る煙だ。熱を帯びた煙は体の表面も内側からも焼き、一酸化炭素中毒になれば炎の中だろうと気絶する。留まる理由がない。

 昴生が身を屈めて階段の方向に向かうのを見て、菫は彼の背中と置き去りにしている盾の囲いとその中の少女を交互に見てから慌てて追いかける。


「待っ、あのこ、こほっあのまま放置す、ゴホゴホッ」


「無理だ、打つ手がない」


 あのまま放置でいいわけがない。それでも言葉通り打つ手なしだった。

 消火技術無し、魔術で対抗するにはスタミナ不足、一刻も早く避難しなければ命すら危うい窮地。盾による拘束も、避難のための時間稼ぎだ。


 二人に残された唯一の正しい行動は、火災現場からの脱出のみ。不安と無力感を押し込めて、煙の中を進む。




「……不思議。形は少しも似てないのに、お母さまのナイフに似てる」


 行手を阻む盾を揺らすのを止めて、少女はしなだれかかる。母の存在をもっと近くで感じられるように、甘える子供のように。しかし、自らの高温の体が盾の形を歪ませていく。


「なつかしい、お母さまと一緒にいるみたい……えっ、やだ消えちゃ、ああぁぁ……」


 四方を囲んだうちの一つが熔け落ちる。液状になる前にかき集めようとしたが光の粒子に変わり霧散していった。

 目の前の盾と、母が所有していたナイフの同一性を少女では語れない。それでも似ていた。ナイフによって削られ、混ぜられ、形を得た少女だけの感覚が、二つは同じものだと確信している。


 欲しい。でも、また消えてしまうかもしれない。

 ――なら、あの盾を出した男の子を熔かそう。

 熔かして混ぜて一つになれば、盾の出し方がわかるかもしれない。予行練習にもなる。


「――――あれ?」


 良いアイデアを思いついて少女は動き出すが、すぐに立ち止まった。知っている感覚に気付いてその方角を向く。

 ああ、なんて良い日なのでしょう。

 笑う口のない少女は、歓喜に身を焦がした。




 昇ってきた階段まで戻ってきたが防火シャッターで封鎖されている。ここまでは想定内。

 シャッターの横に扉が設置されている。ノブを捻り、押す。動かない。引く。動かない。ここは想定外!


「ど、ゴホゴホゴホッ!」


「ゲホッ、しゃべ、っな」


 鍵はかかっていないが、引っかかったような止められる固い感触がして扉が動かない。反対側が何かで塞がれているか、扉周辺が爆発の余波で歪んだか。

 昴生がドアノブを掴みながら扉に体を打ち付けた。ドン、と強い衝撃に金属扉が鳴り、扉より先に彼の体が壊れてしまいそうな音に菫の肩が跳ねる。

 

 この階段以外に避難路がないのか。周囲を見回す菫の予感は半分正しく、半分誤りだ。

 避難器具はある――炎の中を戻り、あの少女の横を通り過ぎた先に。そんな危険な賭けに出るくらいなら、まだ熱されていない鉄扉に体当たりする方が生存率が高い。


 生存を最優先にして、多少の怪我や物的被害を諦めればもっと方法はある。

 例えばそこの床から天井まである分厚い窓ガラスを割って五階から飛び降りる、等――――。


「…………は?」


 視線を向けた窓ガラス越しの車道を挟んだ向かいのビル、その屋上に見覚えのある金色を靡かせながら仁王立ちする姿が見えた。


「――! ――――!!」


 目を疑う光景に昴生は硬直する。青い瞳を視認したのを目が合ったとあちらも気付いたようで、何かを伝えようと大振りな仕草で腕を振り回し始めた。しかしさっぱりわからない。

 いつも通り菫に仲介させようと窓の向こうを指差し、二人の視線が揃って窓の外に向かった瞬間、ビルの上にいた小柄な体が軽やかに宙に飛んだ。


 驚く間に少女――片岡アルカはまるで段差を飛ばすように跳ね、炎上するミュージアムビル五階を目指し、接近してくる。


「へ、」


「ばっ……!」


 三人で始めたクリスマス会の事。

 何でもない雑談、片岡アルカの耐久力の話。


 冗談のような例え話が今、目の前で起きようとしている。次の一瞬で何が起こるか察知した昴生は反射的に盾を出現させた。


 滑空するアルカは窓の向こうの二人の姿が頑丈そうな盾で隠れたのを確認して口元に笑みを浮かべる。

 ほんの少し、気持ちばかりの配慮を込めて――思い切り窓ガラスを蹴破った。

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