突入、ミッションクリア

 案内された裏口前で待つ事、三分。

 菫は黒手袋を付けながら鍵穴の代わりにカード読み取り機がついた見慣れない扉のハイテクな開け方について思考していた。

 大した熟考も出来ないまま侵入した昴生が内側から解錠して答えが出た。内側は見慣れたサムターン錠だった。安心したような、がっかりしたような。


 恐る恐る足音に気をつけながら非常灯だけ点いた館内に足を踏み入れる。画面の向こうの泥棒やスパイになった気分だ。

 扉を速やかに施錠し直すと昴生は薄手の白手袋を付けた手で人差し指を立てて、上に揺らす。分かれる直前に決めた合図の一つで、二階には警備員が一人いるらしい。菫も人差し指を立てて頷く。


 警備室は一階。移動は階段のみ。目的の展示室は五階にある。

 エレベーターかエスカレーターが動いていれば、足音を気にせず展示室まで行けるというのに。五階の高さが遠く感じられて菫は細く溜息を吐いて、不意に気付く。


 ……そもそも、姿を消せるなら開館時間に入って、閉館まで五階に潜んでいれば早かったのでは?

 彼は何も言わないが、元々はそうする予定だったのでは?


 菫のために一手間どころか、前提すらひっくり返していた可能性まで浮上してきた。頭を抱えたくなったが、レインコートで動くと結構音が出る意識と自制は働いて拳を強く握り締める事で耐えた。


 ものすごく聞きたい。聞いた上でものすごく謝りたい。

 もし菫の想像通りだとすれば、彼はもっと怒っていいと思う。普段から無愛想で言葉も鋭くきついので、想像だけでだいぶ怖気がするが、もっと怒っていいと思う。


「……何だ?」


「い……今じゃなくていい事です」


 凝視された昴生は怪訝そうに尋ねてきたが、もう既に館内に侵入した後だ。余計な話をしない方がいい。終わった後で反省会の時間をもらおう。


 一人分の足音が遠ざかっていくのを聞き、警備員が三階に移動したと判断した昴生は合図を送り、移動を始める。


 音を立てずに進む、それだけの制約と静まり返った館内では、階段をゆっくり昇るだけでも心拍数を跳ね上げさせた。ペタ、キュッ。普段意識しない靴の音がやたら大きく聞こえた。

 時間をかけて二階、三階と進む。警備員が四階に昇ったところで、男性同士の会話が聞こえてきた。


「下、異常なしっす」


「お疲れさん」


「あ、警備室戻る前に悪魔ちゃんに会ってきまーす」


「だと思ったよ」


「えっ、タケさんもまた会いにいくんすか?」


「お前が今日も行くって言いそうだったから、五階はまだ見てないんだよ」


 そのあとも親しそうな会話は続いていたが、足音と共に遠退いて聞こえなくなった。再びしん、と静まった後、菫は昴生のレインコートを軽く引っ張る。


「悪魔ちゃんって、あの絵画の事だと思う?」


「……? ああ、絵画のタイトルを見てなかったのか。恐らくそうだろう」


「あの絵、悪魔って名前がついてるの?」


「正確には『親愛なる私の悪魔』と書かれていた」


 肌も髪も白波のように白く、鮮やかなワンピースの似合う幼気な雰囲気の少女はどちらかといえば、天使のような印象だった。真逆のタイトルをつけられていて、菫は目を丸くする。

 親愛の情を向ける相手を、悪魔と称する。そういった崇拝をする作者だったのだろうか。文章から作者の気持ちを答えよという国語の問題は比較的出来るが、絵から作者の意図を読み取れは本当に難しい。美術的センスの恵まれなさを実感した。


 ――あれ、でも天使の目は赤くなかった、よう、な……?

 絵画の少女を天使のようだと思っておきながら、菫の中のイメージ像と比較して違和感を覚える程度の差異があるらしい。思いもよらない妙なこだわりが自分の中にあった事に驚く。


「警備員が下りてくるまで、端で待とう」


「あ……、うん」


 会話の内容から、あの絵画の元に行った後は一階の警備室に戻るらしい。息を潜めて下りていくのを見送るのが良いと納得し、階段から離れて壁に身を寄せた。

 静寂の中、警備員が下りてくるのを待つ事一分、二分……五分。息が苦しくなってきた。「……お、もったより、遅いね……」と菫が溜息混じりに吐き出すと、「そうだな」と答えた昴生もやや疲労を滲ませた。


「……先程、何か言いかけただろう。何だ?」


「あ、あー、ええと、ね……姿を消せるなら、美術館開いてる間に入って閉館時間まで待ってた方が楽だったかなって思って、元々そういう予定だったのかなと……」


「――……ああ、そういう手もあったな」


 気まずそうに顔を逸らしていた菫は、昴生の言葉を聞いてぱっと顔を上げた。良かった、ただの思い過ごしだった。しかし安心した気持ちは、顔を逸らしている昴生が一瞥だけした瞬間に萎んだ。

 体ごと向きを変えて、深々と頭を下げる。


「…………このたびは、お手数をおかけしまして、大変申し訳なく……」


「人の話を聞いていたのか?」


「はい、聞いてました……そうだでも違うでもなく、今気づいたみたいな言い方で誤魔化されたのが、とても、よく……」


「…………君は、本当に……余計な事ばかり考えすぎだ……」


 長く深い溜息を吐くだけで、否定はされなかった。菫の予想は当たらずとも遠からずというのは事実らしい。

 居たたまれず頭を下げたままでいると、僅かに足音が聞こえてきた。驚いて姿勢を戻すと、昴生の『壁の方に戻れ』の身振りに従って壁に背中を預け、呼吸音が漏れないよう口元を手で覆う。


 近付いてくる足音に耳を傾けながら、昨日昼間に客として美術館を訪れた時も似たような状況だったな、と既視感を覚えた。

 昨日は絵画の少女がどこかから自分達を捕捉していると思い立ち止まっていたけれど……と考えたところで気付く。

 そういえば、その事に関して何もはっきりしていない。

 アルカの存在を感知していただけだと思い込んでいるだけで、もし本当にどこかから見ていたとしたら? 絵画の少女に会いに行った警備員に侵入者の存在を伝えていたら?


 菫の不安をよそに、警備服を着た男性二人は特に会話もなくあっさりと三階のフロアを通り過ぎて階下へ。やがて足音も聞こえなくなり、静寂に包まれる。昴生が「しばらくは自由に動けそうだ」と告げた事で菫は胸を撫で下ろす。


「よかった……昨日、わたし達がちょっと動いただけで、絵画の子はわかってるみたいだったから、本当にどこかから見られてたらとか考えちゃった……」


「ああ……あれは動力を持つ者として感知していたのだろう。今は片岡はいない。魔力を感知しているかはわからないが、幸い今の僕の余力はほぼ無い。同じフロアか、視野範囲に入るまで気付かれず接近出来るだろう」


 確かに絵画の子はアルカの動きにばかり気を取られていて、直前まで昴生の存在は気付いてなかったように見えた。昨日の出来事を細かく思い出しつつ、納得する。

 その延長で、昨日の彼の不思議な行動を思い返した。


「そういえば、昴生くんもあの時何かあったの? わたしの顔を見て、今考える事じゃないとか言ってたけど」


「? ……ああ、あれか」


 昴生は一度振り返ったが尋ねられた事を理解すると階段を登り始めた。


「あの時、絵画の観測範囲について考えていて、ふと君の目の事を思い出しただけだ」


「わたしの目?」


「鬼は君の目を窓の目と呼んでいただろう。鬼に見える枠と、目の水晶体を合わせて窓。だが、一般的にイメージする枠とガラスで出来た窓が国内に普及したのはごく近年の事だ」


「あ、そうだね。時代劇とかの窓は障子だ」


「鬼はわからないと言っていたが、窓目鳥落とすと脚落とす、とこちらには存在しない諺のようなものまであるなら、古くからある名だと推測出来る。ならばガラスの部分は近年出来た尾ひれみたいなものだろう。重要なのは枠の方。ただ、そうなると丸枠を窓と称する事に違和感を覚えた」


「……そうかも。形のせいかな。窓より輪投げの輪とか指輪みたいなイメージになる。でも四角でもなんか窓っぽくなくなる気もする……」


 つい数分前まで息を潜めていた反動か、会話しながら階段を登る事に肩の力が抜ける。小難しい話だが、少しリラックスした気分で菫はのんびりと相槌を打っていた。


「だから窓は外見的特徴の類似による名称ではなく、役割を意味するものではないか、と考えた。織部、窓は何のためにあると思う?」


「へ? えーと、空気の入れ替えとか、晴れてたら昼間は外の光を入れたりとか、大きい窓なら出入り口とか。あ、景色を楽しむとかもあるかな。電車の中から外眺めるのは楽しいし……」


 呑気に聞かれるまま日頃窓に触れる機会を並べたところで、一瞬何の話をしていたのかわからなくなり、同時に自身の目に関する話だった事に気付いて四階で立ち止まる。


「そうだ、窓は隔てられた外側と内側を繋ぐ通路。明かり、空気の巡回路、門、視野という範囲で切り取られた景色を映すもの。君の目にある枠とやらは、そのいずれかの役割――特に、景色を映すものとして機能し内側から覗く方法があった場合、防犯カメラと同等ではないか?」


「――――」


「と、何もわからなかったせいで飛躍した思考に陥っていた。何の根拠もなく、因果関係もないこじつけの話だ。仮に君の視界を盗み見る事が出来ていたら、片岡に対して『まだ見ぬあなた』などと呼びかけないだろう」


「そ、そうだ、ね?」


 彼の話し方のせいか、ただの妄想だったとしても、とんでもなく恐ろしい仮説を聞かされたように思えて菫は寒気を覚えた。今、菫が見ている景色がどこかの誰かと共有されている可能性。考えた事もなかったし、一度考えてみるとぞっと背筋が震える程度には嫌悪感を抱いた。


 もし、目に窓の役割があったとするなら、果たして何のための窓なのだろう。


 浮かんだ疑問に対する答えはなく、話が途切れると階段を昇る二人分の足音だけが耳に響いた。



 五階。『百年前に触れる、名もなき作品展』。

 昨日訪れた時とは別の静寂と暗闇の中、非常灯の明かりを頼りにゆっくりと進んでいくと少女の鼻歌が聞こえてくる。馴染みのないメロディだが、静かで柔らかな旋律は子守唄のようだ。


 気付かれていない、もしくは警戒をされていない。

 呼吸と足音を殺しながら慎重に進み、昨日と同じ位置、身を隠しつつ絵画が並べられた通路が見える場所に辿り着くと、待機するようにハンドサインを送られる。


 菫は頷きつつ、注意された通り銃口を前に銃を両手に構えた。……ただ、この位置から絵画まで射程距離である十メートル以上は離れている。いざという時、届くだろうか。

 不安を覚えていると菫の手の上に組紐が乗せられた。咄嗟に使っていない右の親指で落ちないように押さえて、困惑を伝えようと視線を送るが、気付かなかったのか無視したのか昴生は振り向かないまま絵画の方に歩み寄っていた。

 どうして渡したのか、何のために渡したのか一言くらい教えてくれてもいいだろうに。しかしこの状況では文句も言えない、非難の視線だけを背中に突き刺しておいた。


 昴生が向かう先の少女は、額縁の外に放り出した足を交互に揺らしていた。まだ腰だけはキャンパスの中に埋まっているが、もう少しで本当に外に飛び出してしまいそうだ。まるで窓枠に腰かけて遊んでいる子供のようにハミングを口ずさんでいた絵画の少女は、歩み寄る人影に気付いて歌を止めた。


初めまして・・・・・


「……ああ、初めまして」


「わっ! えっ、すごい! あなた、おしゃべりが上手ね! 幻想わたしの言葉がわかるの? ここに置かれてから返ってくるのはずっと知らない言葉ばっかりだったから、嬉しいなぁ」


「他に話し相手はいなかったのか?」


「ええ、ええ! そうなの、そうなの。たくさん会いに来てくれるし話も聞いてくれるけど、話し相手はいなかったの。だからもっと、」


「いや、その証言だけで充分だ」


 喜色を露わに前のめりになる少女の真横、真っ白なキャンパスに向けて昴生は丸めた紙を放り投げる。

 かさ、と紙が当たった小さな接触音の後――瞬時に紙が発火し、瞬く間に広がる炎は少女ごと絵画を包み込んだ。


「へ……――あっ、ひ、ああああッッ!!」


「うっ、わ……」


 遠目で見守っていた菫はその強烈な光景から反射的に目を逸らした。ほんの僅かな会話だけで、彼女は外見が近いだけで人間という生物とは違う。実感は出来ても、やはり身動き出来ない幼い女の子が火炙りにされるのを直視するのは、堪える。

 いやいや、なんのためにここにいるんだ。

 頭を振り、己を奮い立たせて薄目ではあるが再び視線を戻す。燃えている絵画と悶えうねる人型はあまり見ないようにして、炎を前にしても微動だにしない昴生の背中にピントを合わせる。


 煙が天井に向けて広がり始めると、警告音と共に機械音声が流れ出す。美術館の火災報知器の起動と連動しているらしく、階段方面からシャッターの閉まる音も聞こえた。


 美術館に入る前、絵画を燃やした直後に起きる可能性として『水のスプリンクラーではなく、二酸化炭素による消火の危険性』と『防火シャッターが下りても非常口があるため脱出は可能』と教わっていたため、菫の心拍数は上がる一方だが混乱はせずに済んだ。


「ああ、あぁああつい、あつい! なに、何これ、これ、これ、火?」


『火事です。火事です。消火剤を放出します』


「……さすがに、実物が燃える熱と煙は感知されるか」


「これ、これが、これ……火、火が、」


「あと五秒、火を落としたらすぐに撤退する」


「わ、わかった!」


 今、菫達のいるフロアにも当然防犯カメラが設置されているが、魔術で生み出された炎は映らない。火元を確認ののち、消化剤が散布されるまでのおよそ数分間、絵画を燃やし脱出するだけなら充分な時間だ。


「…………」


 小さな少女の手が燃えていく過程を注視する昴生は、疑問を抱いていた。

 人体の構造と異なっていて、水の保有量の違いから膨張しないのか。焼けた匂いはこんなものだっただろうか――まるで生物の燃え方を知っているような違和感を頭の隅に寄せる。


「……おが、あ……さま、」


「〈緩和アジェーヌ〉。君の主は既に亡く、果たす役目も無い。……僕に用意出来るのは、ここまでだ」


 間近に揺らめく熱に肌を炙られる不快感を抑えながら、抵抗する余力も果てたのを確認して情けを注ぐ。あとは朽ちていくだけの命を見送る。

 おかあさま。最期に零した言葉から確信を得る。やはりこの少女は作られたもの、魔術師の使い魔に似た存在だった。

 だから、こんな結果にしか出来なかった。細く息を吐いて雑念を払う。


 動かなくなったのを視認し、火を落とした。

 少女の形も、絵画としての形も崩れ、残ったのは床に落ちた燃え滓のみ。炎は対象を燃やし尽くし、一方で絵画がかけられていた壁や床には焦げ跡すら残さなかった。


 踵を返し、昴生は菫の元に戻ってくる。階段の方を指す仕草から、全てを終えてあとは帰るだけだとわかり、菫は深々と息を吐いた後、少しだけ煙を吸って咽せた。


「すぐに出るぞ」


「う、うん」


 警告音が鳴り響く中、やや早足で昇ってきた階段のほうに駆けていく。


 念入りに準備したわりに、あっさりと終わったな。しかし、何事もそんなものかもしれない。

 安堵する菫は、何も気付かない。目的を果たした昴生は一刻も早く脱出しようと思考を切り替えて、気付かない。





幻想わたしのやくめ……おかあさまの、ねがい」


 燃え滓の中から、声が漏れる。

 託された願いと使命が確かにあって、けれど実現する方法がわからなかった。

 いまなら、わかる。燃えて、無くなって、痛みも消えて、――これが死だとわかる。


 ああ、今なら母の願いが理解出来る。手が届く! 灰の中に僅かに残った火種を取り込むと、目の前が開けたような希望で心が躍る。


 ようやく、ようやく、与えられた役目を果たせる。

 そのためにはもっと大きな火でなければならない。だって命が生まれる時はたくさんの水が必要なのだから、こんな小さな火玉だけでは足りない。大きくなぁれと力を注いで、火を膨らませていく。


「いま、『蘇る』ね」


 弱々しく喜びに満ちた声と同時に、――小さな火種は強い光と音と、衝撃を伴って、炸裂した。

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