変身魔術と限定武装

 怖気付く菫に「帰るか?」と昴生が言うので、全力で首を横に振った。その手には乗らない。

 もう何度目か忘れた溜息の後、昴生は神妙に頷く。


「……わかった。フードを外して、顔を両手で覆ってくれ」


「ん? はい」


「三秒カウントする間、息を止めるんだ」


 言われるまま両手で顔を隠し、合図と同時に息を止める。


「一、ニ、三、固着スティック。問題ない、顔を上げてくれ」


「うん、今度は何、ぃい!?」


 手を下ろすと同時に無意識に閉じていた目を開く。目の前にいた昴生は白髪になっていて、視界の橋に揺れる柔らかな青色が自身の髪だと気付くと思わず声が裏返った。

 毛先をつまんで引っ張れば頭皮が持っていかれる感覚がする。自毛だ。今まで一度も染めた事のない平凡な焦げ茶が、芸術的な薄花色に。名前はスミレなのに、頭はアジサイみたいになっている。


「……思った以上に印象が変わるな」


「ど、どうして髪染めたの? 昴生くんまで元の色に……」


「万が一姿を目撃されても、強く印象に残るのは奇抜な髪色のほうだろう。他の容姿に関わる情報は少ないほうがいい」


「そ、れは確かに……ええと、何であえてアジサイみたいな色に……? 奇抜だったら青より、ピンクとか紫のほうがインパクト強くない?」


「染髪は寒色と薄い色ほど手間がかかるものらしい。偽装工作のため、あえて選ぶ色ではないと思われるものにした。……不快だろうが、事が済んだら元に戻す」


「ぜっ、全然! 全然少しも不快じゃなくって……」


 そわそわと髪をいじる菫の落ち着かない様子は不快感からだろうと昴生は思っているが、実際は初めて明るい髪色にした、という少女らしい単純な高揚感である。目の前にいるのが、好意のある男の子だった事も一因であった。


「変、じゃない?」


「……? そうだな、」


 動きやすさを重視したカットソーとスキニーデニム、何の変哲もない素朴な服装は白のレインコートによって隠されて、薄花色の髪と俯きがちな顔がいつもより血色良く映えて見える。薄暗いマンションの一角に立っているには違和感を覚える現実味の無い――雪の妖精をモチーフにした装いだと言われれば頷きたくなる透明感のある風貌。

 問われ改めて全身を観察し、昴生は答える。


「時季外れの印象がある」


「……時季外れ?」


 今は五月。雪の季節ではない。仮装の行事となりつつあるハロウィンにも早すぎる。

 そうして出された結論は菫が求めていた答えとはあまりにも乖離したもので、どう受け止めればいいのかわからず「じき、はずれ……」と繰り返し呟いて、とりあえず頭を隠すためにフードを被り直した。


 ――無月のようになってしまった。

 ふと浮かんだ印象を抱いた瞬間、昴生は回答を間違えた事を察したが、雲を晴らす方法など知らなったのでなす術なしである。


 数秒、沈黙が流れる。この無意味な時間分、菫がアルカの元に向かう時間が無駄に延びる。

 昴生はさっさと思考を切り替えて自身の準備に取り掛かった。


 菫がフードを握りながら項垂れて数十秒。ごそごそと物音が聞こえ始めた。ちら、と自分のくたびれたスニーカーから視線を上げると、彼は背負っていたリュックから見覚えのある黒いレインコートを取り出し、広げていた。

 彼の答えの意味するものがネガティブにしか捉えられず、悶々としているのに。こちらにお構いなしな反応に菫は口角を下げて、理不尽な言葉が出ないように奥歯を噛み締める。


「ああ……使い方はあとで教えるが、先に渡しておく」


「?」


 こうして昴生のリュックから出された物によって、菫の機嫌は急変する。




 白と黒、それぞれレインコートを着た二人組が美術館までの短い道を足早に移動する。途中、数人と擦れ違ったが、晴れた夜に雨具を身に着けた子供に気付かず通り過ぎていく。

 閉館後の美術館前は公道の街灯と車のヘッドライトの光が届くほど暗く、静寂に包まれていた。開けた入り口前も消灯されて人ひとり通らない。


「さて、入る前にいくつか説明しておく」


「こんな開けた場所で話しても大丈夫なの?」


「逆に開けているほうがいい。声が反響しないし、人が接近したらすぐ気付けるだろう」


「そっか。じゃ、じゃあ……さっそく、」


 興奮を抑えきれない語気で菫は両手に抱えていたものを構える。


「この銃の使い方、教えて!」


「……構わないが、」


 ほんの数分前。昴生はレインコートを着る前にリュックに詰めていたピストル――段ボール製の輪ゴム銃を菫に手渡した。

 一度レインコートを脱がなければいけない手間を省くために先に渡しただけで、特に意図はなかった。見せた瞬間から新しいおもちゃを手にした子供のようにはしゃぐ菫の反応は昴生にとって予想外で、奇妙なものを見る視線を向けながら首を捻る。

 特別優れた物ではない。時間も限られていたため着色もなく表面は段ボールそのもの、銃と呼ぶにはあまりにも粗末な見た目だ。


「妙に積極的なのは、腕に自信があるからか?」


「あ、……全然。やった事ないから、きっと下手だよ。その、こういうの格好いいでしょ? 子供の時にちょっとだけ欲しかったなって思い出して……懐かしくなっちゃって」


 親の気分次第で変わる基準によって、何でも壊されたし、捨てられた。おもちゃやアクセサリーの類は特に。

 手放しで喜べるようになった今はもう、周囲も含めてあえて遊ぶ歳でもなくて。


「ごめん、ついわくわくしちゃった。この後使うから準備してくれたんだよね。ちゃんと真面目に使うから」


「……そうか」


 言外の余計な事を察した昴生は、それ以外に返せる言葉を見つけられなかった。

 菫は『遊ばない』と口にしつつも好奇心を抑え切れず、引き金に指をかけて何度か空撃ちし、飛び出す仕組みを観察してこっそりと楽しんだ。


 あまりにも些細な擦れ違いを互いに気付かず僅かな間の後、昴生は輪ゴムを六本、菫に手渡した。

 そのうちの一本を説明を加えながら銃に装着して見せる。


「こうして銃口側の溝に引っ掛けて、持ち手側まで引く。こちらにも同様に溝があるので、同じ段にかけて使う。引き金を引けば上から順に発射する。一度に連続で撃てるのは三発までだ」


「おおー。これは、おばけ絵画に向けて撃てばいいの?」


「そうだが、君のこれは保険だ。未使用に越した事は無い。ただ、危険を感じたら躊躇せず……」


 不意に昴生の言葉が詰まる。――果たしてこの少女の危機意識を信用して良いものだろうか。

 懐疑的な視線を向けられた菫は急に居心地が悪くなった。


「ええと、危ないと思ったら撃てばいいんだよね?」


「いや、違う」


「えっ違うの?」


「君の場合、少し考えてから撃て。例えば……今、君の帰りを待つ片岡が、どんな顔をしているか」


「ん? わかっ、たけど……多分、拗ねてるんじゃない、かな?」


「だろうな」


 言われて少し想像したアルカは、泣きそうな顔で『遅い!』と怒っていた。拗ねて甘えているだけの空気を纏う、見慣れた怒り方だった。

 菫にとっては愛らしいだけの想像が撃つ判断になる理屈がわからず、首を傾げる。昴生にとっては納得いく反応だったようで頷かれて、一層疑問が深まった。

 しかしそれ以上の説明はしてくれないようで、昴生は話しながら歩き出し距離を取る。


「飛距離はおよそ十メートル、君の位置から……このあたりまでは届くが、着弾は難しいだろう。それでも絵画から標的にされたとわかったら、覚悟を決めてすぐに銃を構えろ」


「え? でも当たらないならもう少し近くないと、」


「――訂正する。君は館内にいる間、常に構えて銃口を前に向けておけ」


「へ、」


 トッ、と地面を蹴り上げる音と同時に昴生が接近してくる。

 何故、と疑問が浮かんで、これは実践か、と結論を出し銃を持ち上げようとした時にはもう遅く、あっという間に距離を詰めた彼の片手に制され、銃口は下を向いたままだ。


「十メートルは僕の足でも二秒あれば詰められる。恐らく、君の体感では二秒もなかっただろう」


「……うん。なんかびっくりして、構えるのも出来なかった」


「そうだ、頭で思っているよりも体は動かない。例え構えて引き金に指をかけた状態であっても、たった二秒、引く瞬間に躊躇えば同じ結果になる。それと、この状態でも足が狙える」


「えっ」


 言われて視線を下ろすと、確かに斜め下に向いた銃口の先は昴生の足元だ。銃を抑えられて使えなくなったと思い込んでいた。


「ただ、この距離で当てると飛び火がかかるかもしれない。緊急回避の選択肢の一つとして提示したが、出来れば避けたほうがいい」


「……ところで輪ゴムに当たると、どんな効果が……?」


「着火する。絵画以外に延焼させないよう注意は払うが、近ければ火傷を負う可能性はある」


「そ……そッカァー……」


 不法侵入、器物損壊、そこからさらに放火が追加。

 もしかして、今手にしている用意された輪ゴム銃が段ボール製なのは、使用後燃やせば後始末が楽だからだろうか。菫の声はやや上擦った。


「帰、」


「帰りません」


「君は本当に、妙なところで強情だな……」


 相変わらず何をどこまで考えているのか全容が読めないが、きっと後始末まで考えて動いているんだろう。菫に何も話さないのは、何も任せるつもりがないから。

 だからこうして教える事も、ついてくるために必要な身の隠し方と、身の守り方だけ。しかも準備万端で。


「これから美術館に侵入するが、中には警備員がいる。警備室で防犯カメラを確認しているだけならいいが、常駐人数と巡回経路を把握する時間はなかったから、警戒してくれ。姿が見えなくなっているだけで声や足音などは聞かれる」


 誰もいないのに足音や人の声、視線を感じる。比較的軽くよく聞く心霊現象が頭を過る。中には昴生のように魔術師の仕業だった可能性があるのだろうか。そう考えるとちょっと安心……。

 いや、見えないだけで生身の人間がいる方が何倍も怖いな。何もしてこない、ただいるだけの存在なら、幽霊猫のほうがいい。

 やや思考が飛んだが、菫は真面目に頷いた。


「わかった。ところで、どこから入るの? 表口も裏口も、さすがに閉められてるよね?」


「……これから裏口を開けてくる。さすがに、君が二階の窓まで大きな音を立てずによじ登って入るのは無理だ」


「近くに良い感じの登れそうな木があれば、」


「無い。無いし、まず挑もうとするな」


「はい……」


 ……このままだと、彼に余計な手間をかけさせただけで終わってしまうから、ちょっとだけ倒れてくれないものかと、菫は不謹慎ながら思った。

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