ありふれた会話と出発準備

 わ――――。

 わ――――――!


 玄関扉の前まで駆け抜けてもなお、叫び出したい衝動を消化し切れず菫は頭を振り回した。


 以前、菫はアルカに対し『継片昴生との交際の想像が出来ない』と語った。

 二人きりで出かける先が閉館後の夜の美術館、もちろん不法侵入。その目的は、謎のおばけ絵画を退治するため。想像出来るわけがない。

 デートではない、これは断じてデートと呼べるものではない。

 頭で理解して繰り返し心に言い聞かせてみても、菫の顔は熱いままだ。


「……ただいま」


 階段を一気に駆け上がって軽く弾んでいた呼吸のほうが先に落ち着いてしまった。とりあえず家の前に立ちっぱなしは時間が勿体無いため、扉を開ける。

 玄関には脱ぎ散らかしたようにばらついた靴。昨日酔っ払って帰宅したな、と昨晩の兄の姿が目に浮かんで一気に熱が冷めた。


「おー、おかえりー……」


「ただいま。……今起きたの?」


「おう、おはよー」


「おそよー」


 くたくたの部屋着とボサボサ頭の夕昂が眠たげにトイレから出てきた。そのまま部屋の奥へ戻ろうとしたので「手洗い!」と指示して洗面台の方に向かわせる。

 やれやれ。兄のおかげでいつもの調子に戻った菫は玄関の靴を整えて、手を洗うため後ろに回った。


「お兄ちゃん、バイトが終わったら今日もアルカのところに泊まるから、ご飯はあっためて食べて」


「ん、おっけー……冷蔵庫になんかあったっけ?」


「無いよ。これから作るの」


「なら適当に済ませるから、作らなくていいよ」


「えー。お兄ちゃんに任せたら、また卵一パックが一日でなくなりそうだからなぁ」


「お前……まだ言うか」


「先月の事だからまだ言うよ」


 鍋に使おうと冷凍保存してた牛肉が大盛り丼ものに変貌したのはもう去年の事だし、使い勝手のわからない調味料を置かれて地味に邪魔な事は別件だから言わないだけで、忘れていないし文句も言う。言っとかないと繰り返すのだ。

 そんな話を交わしながら交代で二人とも手を洗い終えるとそれぞれの部屋に向かう。


「でも今日は甘えちゃおうかな。あ、ごはんは冷凍してるのあるから、食べるなら炊かなくていいからね」


「りょーかい。俺は寝直すから、すみれちゃんはばいと、頑張ってくださーい」


「はーい、りーまんのお兄さんは今週もお疲れ様でしたー。週末をゆっくり休んでくださーい」


 今日は一日寝る日にしたらしい。社会人は大変なんだなぁと菫はよくわからない波に乗って緩いテンションで夕昂を見送る。


「ん、おやすみ」


「おやすみ、」


 そうして閉まった扉を、菫は思わずぼんやりと眺めた。

 特に意識せず、いつも通り兄と会話しただけだった。帰ってきたら『おかえり』『ただいま』と言って、朝起きた時には『おはよう』、眠る時に『おやすみ』と声をかける。


「……そっか。聞き取れなかったんだ」


 夏休み明け。学校で声をかけた時に昴生に挨拶を返されなかった。

 あの頃はまだ知り合ったばかりで、今以上にわからないところが多くて、彼らしい反応と受け取ったけれど。


 今は、無視されたとしたら何か意味があるのでは、と少し疑えるくらいには彼への理解を深めているようで、小さな喜びを覚える。

 同時に、『当たり前』がいくつも欠けた彼の事を思って苦しさも込み上げてくる。


「何か、わたしに出来ることがあればいいのに」


 自室に閉じ籠り、独りごちる。

 相手は知識面でも体力面でも上で、普通の人とは違った魔術師で、自分が優っている部分などないとわかっているのに、ただそうしたいと幼稚な欲は膨らむ。

 本当に恋心とやらは厄介だ。溜息を一つ吐いて、菫は荷物を下ろした。


 彼のためになる事はわからないけれど、今はやらないといけない事をしよう。アルバイトに行く準備して、一泊分の荷物をまとめて、その間にスマートフォンの充電も済ませておこう。

 取り出して画面を確認すると、昴生からメッセージが一件。『ask』のグループではなく、初めて個別宛のメッセージが! 菫は自戒のため頬を軽く叩いた。


「……なんでレインコート?」


 メッセージの中身は『以前着ていたレインコートがあれば、それだけを持ってきてくれ』と簡素なもの。

 降水確率を調べると本日終日ゼロパーセント、何故必要なのかわからないが準備して『持っていくね』と返事を送り、充電開始。


 着々と出かける支度を進めていく中で、他に何かに使えそうなものはないかと頭の隅で考えてながら引き出しを開け、ふと二色が目に止まった。

 荷物にもならないし、使えたら御の字。迷いもなくレインコートと一緒に袋に詰めた。





 週末の接客業はきつい。


 捌いても捌いても途切れないレジ前に並ぶ会計待ちのお客様の列。突然舞い込むいちゃもんクレーム、腹を下した不在の責任者。大量発注の依頼で慌ただしくなる社員。焦りから増えるケアレスミスの対処と、手が足りないところをフォローしつつ通常業務……。


「おまたせ、昴生くん」


「……君のアルバイト先は洋菓子の販売店だったと記憶しているが、脱水機にでもかけられたのか?」


「世の中にはわけもなくとんでもなく忙しくなる日があるんだよ……」


 美術館のある駅前。そこで待っていた昴生は、昼間と打って変わりしおしおと疲労を隠せない笑顔の菫に「……お疲れ」と仕事仲間のような労いを送った。


 時刻は十九時四十五分。

 土曜の夜、ビルが立ち並ぶ駅前は閑散としている。まちまちと歩く人は皆大人で菫達と同じくらいの学生や子供の姿はなく、菫は少しだけ落ち着かない。緊張感を持つのは周囲の環境だけが要因ではないが。


「随分と荷物が多いな?」


「うん。お泊まりの着替えとか入ってるから。荷物はロッカーに預けていったほうがいい?」


「落としそうな物が無ければ問題ない。美術館側に落ち度はないが、終わった後は確実に警察沙汰になる。紛失しても気付かず、個人特定に繋がりそうな物は一箇所にまとめるか、持ち込まないほうがいい」


「ちょっと荷物整理しまーす」


 やっぱり警察沙汰になるんだ……そして捕まらない自信があるんだ……。うっすらと理解はしていた事を明言されると菫は尻込みした。だけど今更引くつもりはない。

 ここで引き返せばいいのに。冷めた視線で口にしかけたが、昴生の真横――歩道の隅に移動した菫がおもむろにリュックを開いたため、反射的に顔を背けた。


 まず、歯ブラシやスキンケア等の細々とした物が入ったポーチを下着の入った巾着袋に突っ込む。ついでに財布も入れちゃおう。ICカードも。家の鍵も。

 スマートフォンは……少し早いが、『残業するから家に行くのちょっと遅くなる』『終わったら連絡するね』とアルカにメッセージを送っておく。念のため電源も落としてからしまい込んだ。


 衣類、巾着袋、レインコートの入れたビニール袋でわかりやすく仕分けを終えてリュックを背負い直す。

 いつの間にかそっぽを向いていた昴生の後頭部を見て、菫は不思議そうに視線の先を追う。歩道、道路、人、車。特別気になるものは見つからない。


「……そっちに何かあった?」


「違う。人目があるところで荷物を開くな」


「あ、」


 なるほど、気遣ってくれたらしい。

 確かに荷物の中身を覗かれれば気分は良くない。納得と同時に、何故そこまで徹底して顔を背ける必要があるのか疑問に思う。クレジットカード決済で暗証番号を見ない店員のようだ。


「ありがとう。でも昴生くんも見慣れた物しか入ってないと思うから、そんなに気にしなくていいよ」


 ほぼ一年近く、昴生は織部宅を何度も訪れている。一度きりだが、菫の自室にも踏み込んだ。

 菫の私服は少ないため、彼の記憶力ならどれも見覚えがある物だろう。部屋着は多少気恥ずかしいが、捻挫の際に一度見られている。巾着袋を開く時も最小限に留めていた。最悪、色が見えたとしてもサイズまでは見えないだろう。……さすがに数値として把握はしてない、と思いたい。

 後頭部は微動だにしない。


「昴生くん?」


「…………」


 結論、見られてもあまり気にならなかった。だから気にしなくていい。

 織部菫はそういう人間で、そういう人間性を引き伸ばし、そういう結論を出させるに至る些細な数々の要因に心当たりしかない継片昴生は、自らの行いの積み重ねの結果に言葉もない。

 何をどう間違えたらこうなる。


「あれ? ……もしかして、聞こえない言葉だったのかな? おーい」


「……支度が済んだなら向かう。道すがら、昼の話の続きをしよう」


 声が聞こえないなら顔を合わせて話してみよう。菫は昴生の正面に回り込むが、昴生は素っ気なく美術館の方向に踵を返して歩き始めた。やはり聞こえなかったのだろうか、そうだったら顔を合わせて口の動きを読むはずだが、実際は避けるように逸らされ続けている。よくわからない。

 もやもやとしつつも菫は彼の後ろをついていく。


「美術館すぐそこだよ?」


「そのくらいすぐに終わる話だ」

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