一難去ってまた一難

「わぁー、美味しーい!」


 ご馳走にありつけたような絵画の少女の歓喜する声に、言葉を読み取れない周囲の客もわっと歓声を上げる。

 伸びた腕が元通り少女らしい長さと形になるまで戻り、少し離れた位置で倒れた少年など存在しないような異様な光景に、菫は鳥肌が止まらない。


 少女の伸びた腕、熱に浮かされたような興奮状態の来館者、離れた位置から見ているだけの館内スタッフ、逃げ出したアルカと、急に倒れて動かなくなった昴生。

 考える事、わからない事が立て続けに起こって、菫の頭はパンク寸前だ。


 選択肢は、二つ。

 一つは彼の指示通り、合図に従って館外へ脱出。アルカがどこまで走って逃げたのかわからないが、一人で帰るとは思えないため建物の外で合流出来るかもしれない。


「いや、いやいやいや!!」


 なら目の前でぶっ倒れた彼はどうなる! 昴生の近くには十人近い大人がいるのに誰一人として救護に動かない。あのまま放置されるか、最悪抵抗出来ない彼を害される可能性もある。

 菫は今自分がどこにいるのか忘れて己を鼓舞するために声を張り、スクールバッグを背中に背負って両手を空けた。外に出るなら、彼も一緒だ。


 菫には救護の心得なんて大層な技能は持ち合わせていない。出来るのは倒れている人を見かけたら声かけをして、救急車を呼ぶくらいだ。

 そして、夕昂が年に数回飲み会で無理をして、玄関先で力尽きた後始末で得た僅かな経験のみ。


「昴生くん、ごめん! どっか怪我させたら、本当ごめん!」


 俯せの体を反転させて仰向けにし、上半身を起こす。彼の背後から脇の下に両手を入れて、その時彼のスクールバッグと眼鏡がずり落ちたので片手で回収、上半身を密着した状態で彼の片腕を借り、両手でしっかりと掴んで固定し、持ち上げる。

 前屈搬送――酔っ払いの兄を部屋へと放り込むために学習した知識だった。


 絵画の少女も来館者も誰もこちらを気にしていない。遠慮なく足を引きずって後退し、展示区画から出ると目の前にエレベーターがあった。下に降りるためボタンを押すと扉はすぐに開き、菫は急いで乗り込んだ。

 どうにか一階のボタンを押した瞬間、緊張が解けた菫は壁に寄りかかり、荒々しく呼吸を繰り返す。

 兄より小柄とはいえ自分より大きい異性を、玄関から自室の数メートルより長い距離を引きずるのは、さすがに疲れた。


「はぁ、はぁ、も、だ、大丈夫、かな……昴生くん、起きて、うぁ、だめそう……そうだ、救急車……、」


 ぐったりと意識を失ったままの昴生の体を軽く揺するが反応はない。

 どうしたものかと一息つけたところでようやく、救急車の存在を思い出した。しかし菫のスマートフォンは背中に背負ったバッグの中だ。一度彼を安静に寝かせるか、もしくは一階にいる人に代わりに電話を、


「はぁ、はぁ……んしょ、」


 考えていたら彼の体が下にずれ始めた。

 抱え直した振動で短い黒髪が揺れて、ザラリと黒い粒子が足下に落ちて……瞬きの間に昴生の髪色が真っ白に変わった。


「……は、ぇ?」


 ぽかんと惚けた瞬間、一階に到着してエレベーターの扉が開いた。唐突な展開に菫の頭の中からまた救急車の存在が飛んだ。


 ゆっくりと扉が閉まる。

 その時僅かに動いた思考は『とにかく外に出よう』だった。


 とにかく、開くボタンを押す。とにかく、エレベーターから降りる。とにかく、一刻も早く出るため真っ先に目についた出入り口まで向かう。

 とにかく、とにかく。ふらふらぐらぐら揺れる頭に浮かぶ言葉はそれだけで、安全な場所まで運ぶ一心で彼の体を引きずった。エレベーターに乗る前までは体を労わる余裕は残っていたが、今は彼の足が壁や角にぶつかっても気遣えない。


 正面出入り口とは違った小さな出入り口は、美術館の裏手にある屋外駐輪場に直通していた。

 まだ高い位置にある陽の光を浴びて、外の風に触れて、外に出る目的に達したと気付くと、彼をしっかり抱えたまま外壁に身を任せて座り込む。腰が抜けた。


「はぁ、はぁ、あぁぁぁ……えぇぇぇ……?」


 これ、救急車を呼んでどうにかなるものなのか?


 突然真っ白になってしまった彼の頭髪をどう説明をすればいいのかわからない。

 おばけ絵画に何かしらされて急に倒れて意識がなくなって髪が真っ白になってしまいました何とかしてください、だろうか。……いや、医者だって困惑するだろうそんな話をされたら。

 しかし、彼の意識はまだ戻らない。菫は途方に暮れてしまった。


 ブー、ブー。

 不意に、弱いバイブレーションの感覚に気付いた。背中にある自分のバッグではなく、手に引っ掛けていた昴生のバッグからの振動だ。震え続けているところから、メッセージではなくアラームか電話だとわかった。


 普段であれば鳴ってるなぁと気にかけるだけだ。だが藁にでも縋りたい今の菫は思わずバッグに手を突っ込み、振動の感覚を頼りにスマートフォンを探り取り出した。


 画面に表示された名前は『八重樫』。

 菫は知ってる名前を見て反射的に通話ボタンを押した。


『あ、昴生ちゃん? 取り急ぎ連絡なんだけど、今さっきね』


「や、やえ、八重樫さん!!」


 思い切り声を張ってしまい、電話越しの八重樫は『わ!』と驚いた声を上げた。それを聞いただけで菫の胸はじんわりと安堵が滲み出てくる。


『あら? ん? もしかして菫ちゃん? んんん? これ昴生ちゃんの番号よね?』


「はい、はい! すみません、あの、わ、わたし、今スマホ勝手に借りてて、どうしたらいいのかわからなくて、」


『そう、菫ちゃんは大丈夫? このまま電話で話せそう?』


「は、い、はい」


『出来たら駆けつけてあげたいけど、国外に出ててちょっと難しいの。話を聞いてアドバイスをするくらいしか出来ないけど、菫ちゃんの今の状況だけ先に聞いてもいいかしら』


「は、はい」


 ほっと息が漏れる。

 昴生の体を抑えていた片手が限界だとばかりに震え出したので、彼の頭を菫の腿の上に乗せて寝かせる。一応人が通りかもしれないので、目立つ彼の頭部は隠しておこう。背中のバッグを下ろしつつ脱いだ上着を被せた。ジャージでよかった。


『今、菫ちゃんは一人? 昴生ちゃんとアルカちゃんは近くにいないの?』


「えと、アルカは一緒にいなくて、昴生くんは一緒なんですが、気絶して、それで、髪が、髪が急に、真っ白になってしまって」


『あらま』


「こ、これ、救急車呼んで、何とかなりますか!?」


『さすがにお医者さんの専門外ねぇ』


 菫は異常事態だとパニックになったが、対して八重樫はのんびりとした口調だ。魔術師としてはあまり緊急性のない状況なのだろうか。


『昴生ちゃんの髪が白くなった時、黒い粉が落ちてきたりしなかった?』


「あっ、はい! しました!」


『それね、染髪の塗料。髪の色が変わったんじゃなくて、塗料が落ちて元々の髪色に戻ったの』


「も、元々の、髪色?」


 予想外過ぎた回答に思わず下を向いたが上着で覆ったため見えない。

 捲って覗き見る。やはり白い。なんだったら髪だけじゃなくて眉毛や睫毛も真っ白だ。


『便利なのよ、染髪の魔術。濡れて色落ちしないし、塗料の粉末を魔力で髪に纏わせるだけだから髪も頭皮も傷まなくてトラブルとも無縁』


「べ、便利なんですね……?」


『そう。アタシでも低魔力で寝ながら維持出来るものなのよ、本来は。逆を言えば、今の昴生ちゃんは維持出来ないくらい魔力が空っぽになってるって事になるのよね』


「あ……」


 美味しい、と歓喜した少女の声が蘇る。

 周囲には他にもたくさん人がいて魔術なんて使ったとは思えない。あの瞬間、昴生の魔力が根こそぎ奪われたのだ。


『一体どんな無茶苦茶な魔術を組んだのかしら。一晩で千メートルの塔でも建てたの?』


「……冗談ですよね?」


『もちろんジョークよ。まぁ、昴生ちゃんには出来ないじゃなくて、絶対にやらないって意味でのジョークだけどね』


 彼の持つ魔力を全て使えば世界一高い建造物を一晩で建設してしまえるのか……。とんでもなくすごい事はわかるが、スケールの大きさに菫の想像力では追いつけない。


 そこで、嫌な気付きが頭をよぎる。

 そんな彼の魔力をごっそりと絵画の少女が美味しくいただいてしまった。エネルギーとして蓄えたとしたら、それはとんでもなく危ない状況なのではないか?


「あの、魔力を食べる生き物、って心当たりありますか?」


『…………そ、そんなものが、いたの?』


 そうなると気になるのは絵画の正体だ。

 写真や映像に残せない魔術師に関わりがありそうな絵画。昴生は心当たりがなさそうだったが、八重樫の動揺する声色から彼もまた同意見らしいと悟る。


「はい。昴生くんが倒れた瞬間まで見てて、何で倒れたのかわからなかったんですが、原因が空っぽになった事だったなら、多分」


『そう、そうなの……ちょっとアタシは聞いたことがないけど、昴生ちゃんも知らなかったんじゃないかしら。魔力を抜き取る魔術はもちろんあるのよ? でも相手から吸い取るために倍量の魔力を消費するから、加害目的で使用されるなんて考えも……』


 八重樫はぴたりと言葉を止めた。

 たった今の説明、『魔力を吸い出す』のと、『魔力を食べる』の違いに気付いて声色に怯えが混ざる。


『菫ちゃんは食べる、って言った? 抜いたとか奪ったじゃなくて』


「はい、美味しい、と言ってたので、おそらく」


『いやぁ……魔力は食べ物じゃないわよぉ……』


 弱々しい泣き言に菫は眉を下げる。魔力を感じられない菫には、その恐怖への共感がしにくい。

 献血や検査のための血の吸引と、蚊による血の吸引は別と考えればいいだろうか。恐怖は薄いが、後者の方が嫌悪感はある。


「あの、魔力がなくなると意識が飛んじゃったりするものなんですか?」


『体内に溜め込んだ魔力を一気に消耗すると、虚脱感……熱中症とか貧血みたいな感覚はあるわ。でもそれは、アタシが溜め込める量が少ないからその程度で済んだだけで……昴生ちゃんの場合なら体がびっくりして気絶しても不思議じゃないわ』


「こ、このまま、目が覚めないとか、ないですよね……?」


『それは大丈夫よ! 体がびっくりしただけ。すぐに、とは言えないけど、じきに起きるわ。水や血と違って本来人間の体に魔力は必要ない物だもの、無くなっても体に大きな影響は……あ、』


 何かに気付いたような声に緊張が走る。それ、大きな影響に心当たりある声だ。


「な、何かある、んですか?」


『うーん、ごめんなさい。プライバシーに関わるからアタシの口からは言えない。でも、昴生ちゃんが起きたら菫ちゃんにもきっとわかるわ。多分困ってると思うから、昴生ちゃんの手助けしてあげてね』


「え、それはもちろん……」


 お安い御用なお願いだが、果たして彼の役に立てる助けが出来るのかと言えば、全然思いつかない。

 自信のなさが声色に乗っていたのか、八重樫はくすくすと微笑んでいる。


『菫ちゃんもだいぶ落ち着いたみたいで安心したわ。もし昴生ちゃんの様子がおかしかったらアタシの話なんて忘れてすぐ救急車呼ぶのよ? 突然気絶したからよくわからない、とかで大丈夫だから』


「あ、お、お見苦しいところを……本当、何から何まで助かりました」


 確かに、落ち着いた。

 落ち着いたところで、通話のきっかけを思い出した。


「あの何か用事あったんですよね? ごめんなさい、遮ってしまって……起きたら電話あった事伝えておきます」


『じゃあアタシの代わりに伝言お願い出来るかしら。本当は昴生ちゃんから二人に伝えてもらうつもりだったから順番あべこべになっちゃったけど、菫ちゃん達にも関係ある話だしね』


「わたし達にも?」


 達、とつくからにはこの場にはいないアルカを含めた三人に関わる事だろうか。

 心して聞こうとした時、腿の上の頭が動き重みが軽くなる。


「う……」


「わっ、起きた? 昴生くん大丈夫!? すみません、昴生くん起きたみたいで」


『あら! 良かったわ〜』


「織、部? なんだ、停電か? 何が起きて……」


 服が被さって視界が遮られている上、今の彼は眼鏡もつけていない。困惑している声も寝起きのせいか少し微睡んでいて、なんだかあどけない。

 とりあえずバッグの上に置いておいた眼鏡を返そうと掴んだ瞬間、膝下を撫でられる。


「ふひゃっ!?」


「!?」


「あああごめん! ちょっと足がくすぐったかっただけなの、びっくりさせてごめんね!」


 反射で悲鳴をあげてしまったが、手探りで周囲を確認していた昴生の手がたまたま菫の足を這っただけだとすぐ理解した。

 そして声に驚いたのか昴生が勢いよく飛び起きて、頭をぐらぐら揺らす様子が見てられず重ねて謝罪しながら慌てて背中を支える。


 なお八重樫は、電話越しの向こうで何やら愉快な気配を察知して笑うのを耐えながら聞き耳を立てていた。


「大丈夫? いきなり起きると頭ぐわんってするよね。地べた固いけど、横になったほうが楽そう?」


「…………大丈夫、だが……すまない、不注意だった。触れるつもりはなく……いや、待ってくれ、地面? 外なら何故こんな暗いんだ? 状況を飲み込めないんだが、」


「暗い?」


 彼が飛び起きた時に被せていた上着は地面に落ちて、彼の視界を覆うものはなく、空はまだ陽が高い。

 不思議に思っていると、彼が顔を上げた。


 白い髪の隙間から見えたのは、白目と境界の薄い乳白色の虹彩。

 水晶みたいに吸い込まれそうな不思議な瞳は――菫がいる場所とはややずれたところに向けられている。


「……昴生くん、もしかして……目、見えてない?」

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