同類相求
美術館。話を聞いた時に菫がイメージしたのは、落ち着いた佇まいの横に広がった大きな建造物だった。そのため、マップアプリに従って辿り着いた縦に長いビルが、目的地の美術館だと最初は気付けなかった。
「本当だ、ミュージアムって書いてある……どうしよう、ジャージで入っても大丈夫かな?」
「一般公開されているなら何も問題はないだろう」
その通りなのだが、先に入館したであろう老女達の洗練さを見ているだけに気負ってしまう。小洒落た客ばかりだったら、明らかに浮きそうだ。
懸念事項はそれだけではない。
ガラス張りのビルから、傍らにいるアルカへと視線を向ける。
「とりあえず着いたけど……アルカ、どこかで休む?」
「…………大丈夫」
駅から徒歩五分。体育館があった方向と逆の道を進み続けるうちに、アルカの口数はどんどん減っていった。
顔色も足取りも悪くはないが、表情は固く声色は沈んでいる。
「継片的にはここ、変に見える?」
「いや、真新しい一般的なビルに見えるが……片岡にはどう見えている?」
「別に変なのが見えてるわけじゃないけど、なんか、ここ、気持ち悪い」
アルカの反応は明らかにおかしい。
昴生に目配せをしても、彼はもう一度ビル全体を見渡してから首を横に振った。菫の目から見ても、綺麗なビルだ。気持ち悪いと呼べる物は見当たらないし感じられない。
「見たらすぐ戻ってくるから、アルカは途中であった公園とかカフェとかで」
「やだ」
「やだて……」
「あんま入りたくないけど、大丈夫。一人はやだ」
「……ごめんね、わたしの我儘に付き合わせちゃって」
菫が説明出来ない衝動に駆られて美術館まで来たように、アルカはアルカで譲れない何かを感じ取っているのかもしれない。
申し訳なく眉を下げていると、アルカは片手を差し出してきた。
「……手、つないでいい?」
「え? もちろん。どうぞ」
向かい合ったまま差し出された手を握り、これでいいのかと覗き見た顔は強張りが僅かに緩んでいた。
弱々しく握り返される。
アルカの心境まで伺い知れないけれど、このくらいの事で少しでも肩の力が抜けてくれるなら、いくらでも。菫も笑顔で応えるように軽く握る力を強めたい。
「美術館で手つないでたら、変かな」
「大丈夫、だと思うよ? お客さんは展示品見に来てるんだから、騒いだりしなかったらそんなにジロジロ見られたりは……」
いた。凝視している人いた。
じろじろというより、じーっと見ていた昴生と目が合い、数秒の沈黙が流れる。
「ええと……ま、待たせてごめんね?」
「別に急かしていない。気にせず話を続けてくれ」
「じゃあ見るな!! しっしっ!」
ほんの少しだけ通常運転に戻ったアルカの追い払いにより、昴生は肩を竦めて先に美術館に入っていく。そのいつもの光景に菫は思わず噴き出した。
百年前に触れる、名もなき作品展。
戦前、戦後を生きた収集家集団がいた。彼らは美術品を愛し、互いにその成果を仲間達で分かち合った。
十九世紀後期から二十世紀初頭の無名の芸術家。玉石混交の彼らの作品は一人が亡くなると仲間達の手に渡った。そして一人、さらに一人、彼らは順番にその一生を終えて最後に残った一人の元に集まった。
そして、その最後の一人が逝去し、美術品は遺産として子供に受け継がれ、美術館に寄贈された。
「よくわかんないけど、もらった物いらんから捨てたって事?」
「だいぶ乱暴な気がするけど……美術館に飾れる価値がある物がこれだけたくさんあったら、管理するのも大変だから手放した、のはわからなくはない、かも?」
三つ折りのリーフレットに書かれていた展覧会が行われた経緯、庶民には想像しにくい世界の話だった。
壮大過ぎて想像しきれなかったが、『かの家の蔵が開放される』とやや興奮気味な客の声が聞こえて、菫はなるほど、と納得した。美術品を溜め込める金持ちの家の蔵の中身を見たいかと聞かれたら、確かに見たい。
他の客の目的とは違うため、じっくり見る時間はないのだが。
先導していた昴生が軽く腕を上げて後続の二人に静止を促す。
「……声が聞こえる」
美術館は本来、静寂な空間だ。足を止めて耳をすますと、少し先から賑わう騒めきが聞こえてくる。
他の客の邪魔にならないように一分ほどその場で待つが、声が止む様子はない。
複数人の声の中で一つだけ、弾んだ少女の声がとてもよく響いた。けれどそれはけして騒音ではなく、森の中の小鳥の囀りのように心地よいくすぐったさで――……。
『何を話しているのかわからないけど、つい聞き入っちゃうくらい綺麗な声をしていてね、』
『笑った顔が特別可愛いけど、拗ねた顔も素敵なの。どの角度から見ても完璧で、美術の新しい時代が始まりそうな素晴らしい芸術品よ』
『完成された美しさは今の時代たくさんあって、不完全なものに美学を求める人もいる。多くの人を惹きつけるものはあっても、万人から愛されるものはない。そう思っていたわ』
『みんな、あの子の虜になっちゃった。もちろん私も』
不意に老女の浮き足だった声を思い出し、菫の背中にぞわりと悪寒が走る。
理屈がわからない形容し難い恐怖。
この寒気が意味するものが何で、どこから込み上げてくる感情なのか、確かめられる。確かめなくちゃ――わからないから怖いだけ、わかれば怖くないもの。そうでなければならない。そうでなければ……。
繋いでいたアルカの手を無意識に握り込むと、彼女の指先が微かに震えているのを感じた。
「……大丈夫? 具合、悪い?」
「まだ、」
返ってきたのは小さく弱った声色ではなかった。
「この、先に、進む?」
不気味なほど淡々と明確に、不自然なほど途切れ途切れな問いかけだった。まるで選んだ単語を継ぎ接ぎした音声アナウンスのようで……。
そんな声でも心地よく響く。
――――、……、……あれ?
ほんの一瞬、ざらりと撫で去った疑問に菫は頭をもたげる。
またうまく言葉に出来ない違和感が込み上げてくる。これは一体何だろう。だけどぼんやりと考える時間はない、アルカの判断を仰ぐような視線が刺さる。
「……いっしょに、行ってくれる?」
「……うん」
「でも、本当に無理しなくていいからね?」
「……うん」
手は握り返されて、二人で並んで、ゆっくりとその喧騒に近寄っていく。
音のように聞こえていた声は、言葉がはっきり聞き取れるほどに距離を縮めたところで、昴生は再び足を止めた。
「――これ、は……」
「なにか、わかったの?」
僅かに動揺を滲ませる声に緊張感が高まる。昴生の背中に問いかけるが肩越しに視線を流しただけで答えはなく、顔を背けられてしまう。
「いや……、使われている言語に馴染みがなかっただけだ。〈
「あ、そういえば。アルカ、わたしも聞こえるようにお願いしていいかな?」
「ん……」
俯いたアルカの表情が見えなかったけれど、〈
言葉に甘えて無理させて、限界が来てしまったのだろうか。
元の道を戻るより、このまま進んで展示コースの出口から抜けた方が早いかと頭の中で計算していると、鼓膜がくすぐられる。
「あれっ!? ねぇ、ねーえー! あれー!? また止まっちゃったの? あともうちょっとだよ! あとちょっとだよ!」
馴染みない言語で話していた少女の言葉は、まだ忍耐力を養う前の我慢が出来ない幼子のようで、誰かに一生懸命話しかけていた。
「待ち遠しいよぉ! 待てないよぉ! まだ? まだまだ? まーだー?」
昴生がゆっくりと進み出すのを見て、菫も一歩踏み出す。手を引かれたアルカが足を前に浮かせると、
「あ」
少女の声は喜色ばむ。
菫は何故か胸に不安が込み上げてきて、進む足が重くなり出したところで昴生が立ち止まり、二人も立ち止まる。
「あ…………」
少女の声は澱んだ。
せっかく近付いてきてたのにまた止まってしまった、そんな印象を受ける。菫は思わず昴生の裾を引っ張って小声で話しかけた。
「……この声、わたし達に話しかけてたり、しない?」
「偶然でなければな。そうだった場合、確実にこちらは捕捉されている」
通行の妨げを避けるため壁際に寄り、ちょうど目の前にあった絵画を見る素振りで立ち止まる。
未だ姿すら確認してない相手から行動を観測されている。菫はどこから見られているのかと周囲を見回し、照明や監視カメラを警戒するが、昴生は正面の一点だけを見据えていた。
「……魔術師とは関係ない、んだよね?」
「……完全な無関係、とは呼べなくなった」
「今すぐ回れ右したほうがいい?」
「捕捉されてると言ってるだろう。どこからどの範囲を観測されているか把握しなければ撤退も――――、」
瞬間、昴生が勢いよく振り返ったため菫は「わっ」と思わず大きな声を出してしまった。
反射的に手で口を塞ぎ、周りを見渡すと通り過ぎていく客が一瞥するだけだったので、小さく会釈しつつ手のひらの中でほっと息をつく。
何か気付きがあったのだろうか。
彼の顔を伺うと、何故か観察するような視線と数秒見つめ合っていた。本当に何故。このタイミングで米粒が顔についていたとは思えないし思いたくない。こっそり指先で頬をなぞり確かめた。無さそう、良かった。
「ど、うしたの?」
「いや……すまない、今考えるべき事ではなかった」
尋ねるが答えはなく、顔を逸らされてしまう。
どうやら関係ない考え事だったらしいが、菫の顔を見ながら一体何を考えていたのだろう。それこそ今でなければいけない話ではない。
「君達はここで待て。緊急時は合図として手を鳴らす。その時は順路を無視して外に出ろ」
「わ、わかった……! あ、でも、まっ……」
一人で行って大丈夫なのか、と聞くより早く昴生は声の方向に向かって角を曲がってしまう。引き留めようと無駄に上げた行き場のない手を胸元に寄せて拳を握る。
……『待て』とは言われたけれど、『動くな』とは言われてない。
頭の中で言い訳を作り、アルカの手を軽く引きつつ曲がり角ギリギリまで歩み寄り、片目だけを覗かせる。
絵画が並べられた長い通路。
そのうちの一つの絵の前に、人が密集しているのが見えた。昴生の背中がまっすぐそこに向かっているのが見える。
「あなたもおしゃべり出来ないの?」
そして、壁に展示された絵画の中で一つだけ、額縁を象った窓から体を乗り出しているような一人の少女がいた。
まっすぐに流れる白銀の髪はまるで滝のようで、左右に揺れる体の動きに合わせてうねる様子はどこか神秘的な清涼感を感じさせる。
床に足を付けて彼女を見上げている周囲の客なんて目にも入らない様子で、彼女の視線はまっすぐにこちらを向いているのが見えた。
そう、見えた。彼女との間には充分距離があり、菫の平均的な視力では表情すら読むのも難があるのに、彼女の視線を追えた。
滝のような白い髪、紅潮して淡い桃色が映える雪のような白い肌。原色で色鮮やかな柄のワンピース。白と、オレンジと黄色。その中で一際美しく見えたのが、澄んだ紅い瞳だったから。
初めて見る少女のその圧倒的な存在感に、菫は既視感を抱いた。
「そんなことないよね、まだ見ぬあなた! あなたは
「ぁ――……あ、あ」
まるで恋に浮かれたような弾んだ少女の声に、
縋るように繋いだ手を握り込んだ事で、ようやく絵画に釘付けになっていた菫が、何かあったのかとアルカの方に振り返ろうと、動いた。
「
「――――」
瞬間――ずるり、と手の感触が抜けた。
「…………へ?」
菫は事態を飲み込めなかった。
握っていたはずのアルカの手の感触が急に消えた。それは振り払われたわけでも肌を擦るように滑り落ちたわけでもなく、水を掴んで水滴が全て手のひらから逃げていったような奇妙な感覚だった。
繋いでいたはずの手を開いても、何もない。
呆然と立ち竦んでいるアルカに視線を移すと、彼女の晴天が零れ落ちてしまいそうなほど見開かれて、そうしてひどく怯えたその表情を、戦慄く口を覆うように寄せられた手が――ほんのりと金色の光を帯びている。
「え、えっ……それ、」
「…………!!」
「ちょっ、あ、アルカ!? 待――は、速い!!」
手の異変を伝えようと口を引くより早く、アルカが踵を返して駆け出した。
ゆっくりと歩いて進んだ通路を目にも止まらない速さで逆走して離れていく背中を、菫では目で追うしか出来ない。手を伸ばしている間にもうアルカの姿が見えなくなる。同時に――。
「あああ、どうして!? 行かないで、行かないで!
絵画の少女の嘆きが聞こえて、気付いた。彼女が呼びかけ続けていた『あなた』とは、アルカの事だったのだと。
……なら、アルカが逃げ出したのは、逆にあの少女と対峙したくなかったから?
疑問だらけの頭は解答を求めて、もう姿が見えなくなったアルカが走り去った通路から、絵画の少女へと視線を移す。
幼気な丸みの残る細い手を必死に伸ばし、伸ばし、伸びて伸びて伸びて……ぐにゃぐにゃと軟体生物のように形すら保てなくなったその手が、指先が、ちょうど菫達と絵画の中間にいた昴生へと近付いた。
その時ようやく、そこに人がいたと気付いた様子で赤い目を動かして、頬を紅潮させる。
「ああ、美味しそう」
「は、ッ……!?」
限界まで伸びた指先は彼にも届かず、ただ指差ししただけで、昴生は膝からその場に崩れ落ちた。
彼は自身の体が床に打ちつけられるのも厭わず、両手は受け身ではなく手のひらを叩いて大きな音を鳴らす事に使われ、そのまま俯せで倒れ込んだ。
「え? ぁえ、えっ、う、えええ!?」
この間、わずか数秒。
菫は大混乱の中、一人取り残されてしまった。
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