新学期
「菫ーおはよー! お待たせー!」
花びらが散り、ピンクの花弁と青葉が混じる桜の木を見上げていた織部菫の元に、片岡アルカが駆け寄ってくる。
ただ走っているだけで同じように登校する生徒達の注目を集める美貌の少女が、自分だけに満面の笑みを向ける。ふふん、いいだろう。今日も今日とて可愛い友人は、とても可愛い。ちょっとだけ優越感に浸りながら校門前で寄りかかっていた背中を浮かす。
「おはよう。今年も同じクラスだといいね」
「クラス分かれたら泣きそう……」
「わたしも別々だったら寂しいけど、アルカは本当に泣いちゃいそうだなぁ」
「そ、そこまでは泣かないよ!? ちょっと目が潤むくらい……」
「修学旅行の班分け、多分クラスごとだよ?」
「泣きたくない、泣きたくない……」
万が一のためにとハンカチを差し出すと、縁起が悪い! とアルカはハンカチから距離を取りつつ、二人並んで校舎に入っていく。
四月、新学期になった。
一月、雨降る夜の決戦の後。
綿毛茸が起こした殺人事件は、六人目の犠牲者を最後に報道は表に出なくなった。表向きは個別の事件と扱われているため、当然と言えば当然の事。
犠牲者の家族や親しい人は、不透明な結末に納得いかないだろう。今も警察は捜査し続けているはずだが、犯人に繋がる情報は出てこない、見つけられない。
長い時間をかけて、この件は未解決事件となる。
それを、知らないふりするのか。
思うところがないと言えば嘘になる。だけど、見えない人に見えない世界で起きた出来事の証明をする術はない。
少しだけ、安堵する自分もいた。
死者とはいえ、事件の加害者の一部は菫の父だ。加害者家族に対する世間の当たりの強さは、ネット社会の今は簡単に調べる事が出来る。
未解決となる事でそれらを避けられた。正直胸を撫で下ろした。代わりに、罪悪感は生まれたけれど。
春の訪れと共に、わだかまりや複雑な心境は徐々に薄れていった。
一週間でギプスが外れて、またいつもの日常に戻ったのも大きいが、織部菫が勘違いで抱え込んでいた『墓場まで持っていく秘密』が消えた事が、特に大きい。
普通に暮らしているとつい下ろしてしまう罪悪感を、わざわざ抱え直す。
こんなもの持ち続ける必要がない、長年の悪癖を不意に自覚した。きっと、それが当たり前の事だったが、菫にとっては天啓を受けたような衝撃だった。
たった一人では気付けなかった事をまた知れて、喜びと共に彼への気持ちが募った。……まぁ、彼にとってはきっと迷惑そのものだろうが。
こうした一部の思考回路から、織部菫は己の狡さと小賢しさに自覚がある。
だから、掲示板に貼られたクラス分けを確認して、なるほどなぁ、これが日ごろの行いの結果というものだろうか、と感心と納得した。
「よかった、同じクラスだよ。五十音順だと並んでるから見つけやすいね。これで修学旅行で別部屋は避けれたけど、さすがに席は離れちゃうかな」
「え、と……」
ついさっきまで、同じクラスになれなければ泣きそうと言っていたアルカが、気まずそうに菫の顔を伺っている。
……本当に、アルカは良い子すぎる。菫は苦笑を漏らして彼女の頭を撫でた。
「あー……うん、まぁわたしとしてはすごく残念だけど、アルカの希望が全部採用されたと思って、喜んじゃったほうがいいんじゃないかな」
「喜びづらいよぉ!!」
織部菫と片岡アルカは同じクラス。継片昴生は隣のクラスに名前が書かれていた。
菫と同じクラスであり、昴生とは別クラス。アルカにとっては喜ばしい結果になったはずだ。
「でもアルカと昴生くんは別で、三人で同じクラスは無理があるよ」
「最悪、私とあいつが一緒でも許したもん……だって、菫は同じクラスが良かったでしょ?」
しかし、実際にはアルカは階段を上りながらぶつぶつと不満を溢し続けていて、酷く不服そうだ。
理由はわかる。
菫は、アルカに自分の気持ちを正直に開示していた。
継片昴生に向ける特別な想い。
それがただの感謝なのか、恋なのか。菫にはまだよくわかっていないのだが、好意であることは間違いなく、クラスが分かれたのが残念であるのも間違いない。
そんな菫の気持ちに、アルカは寄り添っている。ただ、別々になれて喜ばしい自分の気持ちとの両立は厳しく、表情も複雑そうで険しい。
「ちょっとがっかりしたけど、仕方ないよ。それに行けば話せるよ。すぐ隣だしね」
「えぇぇ……それとこれとはまた、別というかさぁ」
「んー……そっかそっか。もしも同級生だったら、アルカは同じクラスになりたかったのかー。わかる、いいよね。隣の席になったりしたら、授業中にノートの端でこっそり話したりとか夢見ちゃったり、」
「なッん、きゅっ、急に、そん、話に!?」
もしも、『誰が』同級生だったら。
からころと笑う菫はあえて誰とは明言しなかったが、当てはまる人物は一人しかいない。突然恋バナの矛先を自分に向けられて顔を赤らめた。
「そこで、私には出来ないのに菫だけずるい〜って思わないの、アルカの良いとこだよね」
「えぇ……思うわけないじゃん。実際同じクラスにもなれてないのに」
「そう?」
もしも。織部菫が年上に片思いしていて、片岡アルカが同級生を好きになっていたら。
羨ましさのあまり同じクラスにならなかった事を慰めつつ『良かった』くらいは思うかもしれない。あまり、友達を妬みたくないし。
その点、アルカが気に食わないのは、相手が昴生である、ただそれだけ。あとは肯定的だ。妬みも僻みもない。
以前、アルカが言っていた。
高校生まで成長した一人の人間が、無垢な良い子であるものか、大人にとって都合の悪い子になるのが成長だ、と。
そんなことはない、例外はいる。
反論する空気ではなかったために、あの時の菫は言葉を飲み込んだ。隣にいる例外に視線を流す。
片岡アルカはずっと、見た目の通り、心根も綺麗だ。
「担任誰なんだろ。変わんのかなぁ」
「ぁ、あー、どうなんだろう。中学も毎年クラス替えはしてたけど、担任の先生は……」
ああ、また言い損ねた。
話が切り替わり、菫は方向転換した話題に乗りつつ、こっそりと息を吐く。
あの夜のアルカの叫びは、良い子であろうとした菫にとって、肩の荷が軽くなるような嬉しい言葉だった。
だから嬉しいと言いたいし、改めて感じたアルカの存在の有り難みを感謝したい。したい、のだが、何だか改まって言うのは気恥ずかしくて、バレンタインの時からずっと機会を見ては言おうとして、失敗を続けていた。
そうして時間が経つにつれて、どんどん言い出しにくさが増していった。
バレンタインに「いつもありがとう」と曖昧に誤魔化さなければよかったと後悔も募る。……タイミングが今じゃなかっただけだ、と自分に言い聞かせる。大丈夫、今みたいに些細なきっかけはいくらでもある。
「あ、」
ふとアルカから視線をずらした時、教室の中が一瞬見えた。
教室中央の前寄りの席、昴生が一人で静かに本を読んでいる姿が見えて思わず、弾んだ声が漏れた。
菫の教室に向かう途中、隣の教室前を必ず通る。そして彼はいつも登校が早い。つまり、毎日顔を見る事は出来るらしい。それに気付いて、菫は思わず口が緩む。
「どうかした?」
「ん。顔、見れたなって」
教室を指差しながら言えば、アルカは教室ではなく菫の表情を見て察したようで顔を顰めた。
「うーわ」
「え、引くとこだった?」
「ううん、嬉しそーな顔してるよ、すっごく」
「えっ、えぇぇ、そんなに? そこまでかなぁ……えぇー」
顔が緩んだ実感はあるが、力強く肯定されるとちょっと照れる。窓に映してみても薄らとしか表情は読めないので、結局よくわからなかった。
もう表情を元に戻したはずなのに、アルカはまだ渋い顔で『そこまでです』と言わんばかりにじっくりと頷いた。
二人が教室に入っていく様子を、昴生は横目だけで見送る。
教室が別々になり、静かな一年になりそうだという予想は早々に裏切られた。耳に馴染んだ彼女達の声を無意識に拾い、集中が途切れてしまった事実に、静かに溜息を溢した。
四月、新学期。
鬼から残り一年と嗤われた三人の、進級の春。
「全員に教科書行き渡ったかー? よし、じゃあ次はこれだ」
始業式の後、担任教師から一枚の紙が新二年生達に配られる。
ほぼ空白の白紙に書かれているのは『進路希望調査』と、学年とクラス、氏名を書く欄、第一から第三希望までの記入枠だけ。
「卒業までまだ二年もある。なんて思ってるだろうが、二年なんてあっという間だ。高い目標があるなら尚の事、準備は早い方がいい。大学進学、専門学校進学、就職、留学、起業……他にも色々、将来の形はあるだろう」
生徒達は教師の真面目な話に、途方に暮れた目を、あるいは目標を見据える目をして、静かに聞き入った。
「今はまだ何も決まってなくてもいい。そのための準備期間だ。具体的に考えられない、迷っている事があるなら相談にも乗る。先生が無理なら、他の先生でも、もちろん家族でも、仲がいいならご近所さんでも、バイト先の店長でもいい。身近な大人は、将来の自分になる可能性があると思って、しっかり聞くように。提出期限は夏休み前まで」
教室内がにわかにざわめくが、教師はそれを咎めようとはしなかった。
「……将来、か」
織部菫は、その白紙に希望を見出すように。
片岡アルカは、目的地を見失った迷子のように。
継片昴生は、面倒ごとを前に憂鬱そうに。
それぞれ、未来を思い描く新たな春が始まる。
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