四章 証明する悪魔
本編
幸あれと灯された光
男は、子宝に恵まれなかったものの良き妻と、養子の娘と共に暮らし、自然豊かな土地で育まれ、その生涯を終えた。
名は
名は何度か変わっていたため、どれが正しく男の名であるのか定かではないが、生涯長く過ごし親しんだ『片岡行光』が自身の名であると男は思っている。
幼少期は『フタ』と呼ばれていた。
なんじゃその名前、鍋とセットにでもするつもりか。
ある程度成長した行光は思ったが、当時は何も思わなかった。二歳か三歳くらいの時で幼過ぎた事も理由としてあるが、生まれた家が奇妙だった事も一因だろう。
背の高い壁に囲われた中に、庭と屋敷があった。壁に大きな扉があったが、子供達は近付く事は許されない。
屋敷にはたくさん大人がいて、子供は少なかった。
年上の『イチ』はよく遊んでくれて、同い年の『サン』と『ヨン』の双子によく泣かされた。兄で、妹達だった。
ある日、『イチ』と『サン』と『ヨン』が出かけて行って、『イチ』と『サン』だけが帰ってきた。『ヨン』はオヤクメをマットウしたから帰ってこなかった。
すごい、素晴らしい!
早く『ヨン』のように、『イチ』と『サン』と出かけたい。そう、『フタ』は思っていた。
出かける際は『初代様』の許可を得なければならず、この時の『フタ』は三人と違って未だ見えていなかったので、許可がもらえず留守番だった。
それが当たり前の環境だった。
だから『フタ』の母が、『フタ』を連れて家を出て、『フタ』の人生は激変した。
「お前が産まれた時は雪が降っていて、本当に美しかった。だから名前をつける時には雪を使おうと考えていたが――駄目だね、駄目だ。溶けて消えちまう名前は駄目だ。お前だけは、明るい場所に行きなさい。その場所で苦しむ日が訪れたなら、この母を恨むといい」
母の旧姓と共に『フタ』は『行光』と名を改められ、『フタ』と呼ばれる事も自称する事も禁じられた。
初めは混乱し、兄弟のように過ごした『イチ』と『サン』に会えない事を泣き、産まれたばかりの『イツ』と『ムツ』の愛らしさを思い出しては寂しさに胸が締め付けられた。
けれど、季節が変わる頃には母と祖父母の生活にも慣れた。
母が再婚し、姓が『片岡』になり、引っ越した先で小学校に入学した。囲いの中の広い庭が狭く思えるほどに、世界が広がった。
「継片と名乗る者がお前の前に現れたら、けして口を聞いてはなりません」
小学生になり、母の口煩さは増した。
先生の言う事は聞く、車に気をつけろ、生き物を口に入れるな、妙なものを見つけたら近付かず母に知らせろ……当たり前の事から細かい事まである中で異質な禁止事項、継片家と関わるべからず。
母は幼かった故に覚えてないと思い、そう告げたのだろう。
しかし『フタ』として暮らした家が継片家であり、かつて父と慕った大人の姓が継片である事も、少年となった行光は覚えていた。
「……返せないものは送らない。この子はもう大き過ぎて送れない」
八歳の誕生日、その翌日。
いつもの通学路で、血縁上の父と再会した。
嬉しくない、と言えば嘘になる。元々細い人がたった数年でさらに痩せて、心配だったのもある。だけど、母との約束を破れない。
どうしよう。黙っていると、目を細めて微笑んだ。
「そう、逃げないんだね。君はまだ小さかったから、きっと忘れていると思ったけれど……僕が誰なのか、わかってる顔をしてる」
「…………」
「そして困っているね。……すまない。今日だけだ。今だけ、どうか許しておくれ」
地面に膝をつき、仕立ての良い服が土で汚れるのも厭わず、父は目線を合わせてくれた。
弱々しい言葉から、もう父に会えるのは最後になると、心のどこかで感じ取って、ますますどうしたらいいのかわからなくなる。
「もし、君の母に伝えられるなら伝えて欲しい。『返せないものは送らない。この子はもう大き過ぎて送れない』、そう言っていたと」
「……?」
先程告げられた言葉を繰り返された。よくわからない、意味があるとも思えない。
とりあえず覚えて頷くと、父も頷いた。
父の表情は、庭で見つけた虫を捕まえて見せて「上手だ」と朗らかに褒めてくれた時と同じように微笑んでいる。
「誕生日おめでとう、……、…………」
「行光」
「――――、」
誕生日を、覚えていてくれた。
それが嬉しくて、なんと呼べばいいのか口籠った父の表情が翳るのが悲しくて、約束を破ってしまった。
もう二度と『フタ』と呼ばれない自分の名前を、知ってほしかった。
「おれは、片岡行光、だよ」
「……そう」
父は少し驚いたように見開いた目を、薄く細めて告げた。
「僕は、継片
「あ、」
似ている。初めて聞いた父の名前は、母がつけた名前と『ゆき』が被っている。
偶然、だろうか。偶然ではない、気がする。
母は父の元から逃げ出した。
理由はわからない、教えてもらえない。それなのに、離れた夫と似た名前を息子につけたのは、何故なのだろう。
ただ、父がとても眩しそうに目を細めているのが、印象的だった。
「誕生日おめでとう、行光。どうかこれからも健やかに」
そう告げて、父は帰ってしまった。
少し離れた場所に停められていた車に乗り込むと、あっという間に遠く離れていく。
大きくて頼りなくて、寂しい背中だった。
何だか学校に行く気分になれなくて、帰宅すると母は驚いた顔をしていた。
忘れ物か、具合が悪いのか、心配そうに問う言葉に首を振るしか出来なくて、ようやく出せた声は、震えてしまった。
「おとうさまに、会った」
「えっ」
母は顔を青褪めるが、行光の表情と外へ警戒を向けるも困惑してる様子だった。
「そ、それで、何て言ってきたんだい? この家まで来て、は……なさそうだね。お前に帰ってきてほしいとか、一緒に来なさいとか、」
「ううん」
父は、何も求めなかった。行光の名前を聞くことも、どこに暮らしているのかも、何も聞かなかった。ただ、言葉だけを残して、あの頃のように撫でるどころか手を伸ばして触れようとすらしなかった。
「返せないものは送れない、大きくて送れないって言ってたのを、母さんに教えてって、それで、おめでとうって、おれに誕生日おめでとうって、言ってて、」
「あ、あ……」
「おとうさま、寂しそうで……何で? 何で母さんは、おとうさまを置いていったの? おれたち、三人一緒じゃだめだったの?」
「ああ、あぁ……だめだった、駄目だったんだよ……あの家は駄目だった。だから、せめてお前だけでもと、私は、あの人を見限って、なのに、あの人は……」
母は強い人だった。近所から出戻りだと心無い言葉を投げられても耐えた。手の肉刺が潰れても大した事ないと笑い、働き者の手だと誇らしそうにする人だった。
そんな母が、号泣した。
親の泣き顔はあまりにも衝撃が強過ぎて、母の嘆きの理由まで、頭が回らなかった。
「あの人は、私達を逃がすつもりだったのね……」
両親の間に何があったのか、結局真相はわからない。
あの日の予感通り、その後父と再会する事はなかった。継片家に関わるなという言い付けが無くなり、時は過ぎていった。
妹が産まれ、進学し、働き始め、成人し、結婚した。妹も結婚し、甥が産まれ、時間はたくさんあった。それでも話を聞くきっかけもないまま、母は亡くなった。
時間が経ち、記憶が薄れても、あれは一体何だったのだろうと思う事はある。もう知る術はないのだから気にしても仕方ないとわかりつつ、浮かぶものは浮かぶ。
最期まで口煩い母だった。
さすがに安全運転しろとか、体に不調を感じたら病院に行けとか、気にかける部分が大人に対するものに変わっていったが、『妙なものを見つけてないか』と奇妙な心配は最期まで変わらなかった。
具体的にどんなものだと聞いても答えはなく、やはり何だったのかと思う一つとして疑問が積まれるだけだった。
まさか、本当に見つける羽目になるとは思わなかった。
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