分岐 滅亡の引き金

二章『猫に手を貸す』で手を貸さなかったら分岐して途絶える話。




 無力だった。

 鬼に軽く投げられただけで動けなくなり、ぐちゃぐちゃに濡れた砂の上で身じろぐしか出来ない。


「だ、れか、」


 なんて意味のない懇願。

 織部菫に成す術はなかった。応える声も、どこにもない。


「なんか言い残した事はあるか? 聞く時間ぐらいはくれてやる」


「っ、ぐ、…………」


 同じく地面に倒れ伏した昴生の頭部を、鬼の強大な足が踏み付けている。そこにあるのは人間の頭であるはずなのに、鬼の足と対比すると野球ボールのようだ。

 どうしよう、どうしたらいい?

 膝をつき、四つん這いで痛めた足首を使わないように動ける態勢で考える。

 アルカを呼び起こせたとしても、鬼に対抗する術がなければ巻き込んでしまうだけだ。ならば昴生に対して何か手助け出来る事はないだろうか。

 あちこち見回していた視線を鬼の足元に向けた。

 地面に押し付けられて半分しか見えない昴生の顔には、血がついている。菫は思わず悲鳴を飲んだ。


 昴生はどうにか起き上がろうと腕を突っ張ったり、足に攻撃をしかけているが、やはり効いている様子はない。荒い呼吸が次第に細く細くなっていく。まるで諦めたように腕を地面に落とした。


「……僕はどう扱っても構わない。彼女達には手を出すな」


「元より生者に手を出すつもりはない。……そんだけか? 家族への言伝でも頼んだらどうだ?」


「言伝……、ああ、では、」


 鬼は別に善意で言ったわけではない。継片の子供から一族へ最期の言葉を伝えるだけで、もう二度と地獄を荒そうと考えないだろうと打算があった。

 足の下の少年は初め思い至らなかった様子で、しかし伝えたい事は思いついたようだ。

 ――これから死ぬとわかっていながら、気持ち悪いほどに落ち着いている。

 既に人間の寿命以上に長く地獄に留まる亡者よりも活力のない様子に鬼は気味悪がりつつも、黙ったまま成り行きを静観した。



「織部」


「ぁ……こ、」


 呼ばれた瞬間、目と目が合った。菫は喉が張り付いたようで、まともに名前すら呼べない。

 どうしたらいい。何が出来るの。ごくりと唾をのむ。

 ぐちゃぐちゃになった思考と狼狽しているのが顔に出ているのか、指示を待つ菫に対して昴生は軽く手を振った。もう何もしなくていい、そう言うように。


「これから言う住所を、覚えてくれ」


「え、え、住所……?」


 そうして昴生が告げた住所は、今菫が暮らしているところから少し離れた場所だと混乱しつつもおおよそ覚えた。


「お、おぼ、えたけど……」


「僕の家がある。念のため、片岡には近付かせるな」


「わ、かった、あと、あとは?」


「あとは、一度君だけで向かってくれ」


「わたしだけ、で?」


「明日でも、明後日でもいいが、なるべく早く。僕の部屋の机の引き出しに茶封筒がある。それを確保してくれ。中身をどうするかは君の判断に委ねるが……君に必要なものだ」


「わたしに必要なもの……?」


 今、必要としているものはこの状況を打破する方法で、封筒の中身でどうにか出来るなら今すぐ這ってでも継片家に向かいたいところだ。

 だけど、違う。昴生が言おうとしている意味を菫は理解している。

 封筒の中身はこれから生きていく菫のために必要なものであって、この場で昴生を助けられる方法ではないのだと、拒絶したいのに、わかってしまう。


「わか、った。あとは、あとは……?」


「それだけでいい」


「っよくない! よくないよ、全然よくない!」


「ああ……なら、ついでに八重樫さんに、以前頼んだようにお願いします、と」


「違う、違う! わたし達の事じゃないよ!」


 さっきから、彼の口から出てくる言葉が、全部彼のための言葉じゃない。

 無駄でも助けてくれと懇願してほしい。どうして助けてくれないんだと恨み言を吐いたっていい。どうなったって構わないと投げやりになっているようで、まだ諦めたくない菫は悲しさと悔しさで胸が苦しかった。

 菫の駄々に、昴生は小さく息を吐く。


「……なら、一つだけ」


「なに? わたしは、何をしたら」


「すぐに目を閉じてくれ。――見ないほうがいい」


「――――……」


 到底直視出来ない死に方をすると察知した、そんな言葉に菫は言葉を失う。

 昴生は伝え終えると瞼を下ろし、全身から力を抜いた。


「充分だ」


「そうか」


 あまりにも短い言葉が交わされた次の瞬間、鬼が地面に足をつけた。

 躊躇いもなく、容赦もなく、間に挟まれた昴生の頭部がまるで水風船のように血を弾けさせながら、潰れた。潰れる瞬間を、菫は見てしまった。


「あ……あ、あ、え……え? え……ぇ、あ…………」


 びくりと全身が跳ねた後、もう、彼は動かなくなった。水風船の比ではない量の赤が地面に広がっていく。


 脳が、理解を拒否する。

 人間の頭がそんなあっさりと潰れるわけがない。――嘘、意外と脆いって知っている。

 昴生が、さっきまで普通に話していたクラスメイトが、こんな一瞬で死ぬなんて、そんなことが起きるはずない。――嘘、人が死ぬのはあっという間だって知ってる。

 ああ、彼の最期の言葉に従っていればこんな激情に苦しめられなかったのに。……これは本当、本当に本当に、あまりにも愚か。


 また、生き残ってしまった。

 殺されるはずだった自分が生き残り、助けてくれた彼が殺されてしまった。

 事故車にたった一人取り残され、顔が潰れた死体の幻覚が、目の前の現実に重なる。


「あああ! ああ、あああぁぁ! うそ、うそだよ、こんなの嫌! いやあああ!!」


 頭を抱え、絶叫する少女を後目に鬼は血塗れの足を上げる。

 仕事は終えた。あとの事は生者達の都合で生者達によって片付けられるだろう。関与するつもりもない。早々に回収したものを確認して退散しよう。



「――ん?」


 しかし、鬼はその凶器となった足裏から異変を感じ取った。



「どうして、どうしてこんな、こんな……」


 嘆く少女は見ていた。

 ――少女の窓の目は、少年の死を目撃した。




 ああ、なんてこと。

 かの『窓』の向こう側もまた嘆いた。誰にも届かない声で嘆いた。

 

 なんてこと、なんてことなの。ずっと、ずっとずっと待っていたのに。

 これでは約束が違う。あの子が死んでしまったら、誰が約束を叶えてくれるの。

 次が訪れるのを、また待つの?


 それは一体どれくらい?

 太陽が頭から足先まで向かうのを何回数えたらいい? 

 約束の時まで三万六千を待ち続けたの。あの子をあの窓から見つけた時からあと五百回を数えて待っていたの。

 なのにどうして?

 どうしてどうして、どうして? こんなことをされて、また待たなければいけないの?


 ああ、約束を違えたのは、そちら側。

 かの『窓』の向こう側、誰にも届かない声は、失意に染まる。




「――ああ、なるほど。今か」


 鬼の耳に『窓』の向こうの失望は聞こえない。

 しかし、鬼は知っている。

 燃え続ける炎がないように、悠久の星が砕けるように。終わりの時は必ず至る。生きとし生ける者たちは全て、自然の上に生かされた舟人だ。――そして、いずれ『自然』と呼ばれるものに、舟人達は見放される。


 その時が訪れたと、鬼はそれを理解した。随分と唐突にやってくるもんだと、己の身の消滅が迫っているのをわかりながらも、呑気に受け止めていた。

 まさか自分が引き金を引いた事を、鬼は気付かない。


「はぁ……せっかく橋も出来そうだってところで、終わるのか」


 積み上げてきたものが全て崩れる。

 人も、鬼も、歴史も、誰かの思いも、願いで築かれた死のその先も根こそぎ滅んでいく。



 生き残りがいれば、そのひとときは恐らく、人類史最大の大災害として名を残し畏れられただろう。


 しかし、誰もいなければ、名付ける者もその名を繋ぐ者も、その意味すらない。

 ない、ない、なくなった。なにもない。



 あとに残るのは、時化る水の惑星のみ。

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