閑話 花は堕ちた*を拾う
織部菫の人生を一変させたのは、父親の起こした自損事故だ。
しかし、事故が起こらなかったとしても、織部菫の父親は母親を手にかけていた。母は死に、父は犯罪者として逮捕され、遅かれ早かれ夕昂の庇護下で暮らし始めただろう。
そこに
何をきっかけに、あの事故に繋がったのか。
回避する術は無かったのか。
菫は気付かないが、たった一度だけ、そのチャンスはあった。
「…………布?」
それは、事故の日の黄昏時。
菫は夕昂の家に向かっている途中で不審な布の塊を見つけた。なんだあれ、怪しい。ゴミ捨て場でもないし、飛ばされた洗濯物にしては随分と大きい。敷布団を丸めて捨ててるみたいだ。
「うわっ動いた!」
もぞ、と布が揺れる。
菫は驚きつつも好奇心が擽られ、遠くから見るだけではなく向かう道から外れてその布へと駆け寄った。
近付いてみると、菫が思ったより布の塊は大きかった。中に猫や犬が隠れている、というより、もっと大きくて菫よりも小さい生き物がかくれんぼしているように見えた。
周囲を見回すが、子供が遊んでいるような声も聞こえないし、このあたりに公園もなかったような……顎に手を添えて名探偵の真似事をしていると菫の後ろを車が通り過ぎた。菫からすれば立派な道路だが、車が通るにはまぁまぁ狭い。菫と布の塊ともあと少しで当たってしまいそうだった。
「おーい、ここだと車に轢かれちゃうぞー」
「う……」
声かけしながら布越しに丸い輪郭を指先で突く。多分頭あたりだろうか、布が小さく動いて雀より小さい声が出てきた。やっぱり人間だった。
すぐそばでしゃがみ込み、あちこち擦ったり引きずったのか黒く汚れている白い布を捲り上げた。
「ほわ…………」
菫は感動して思わず変な声が漏れる。
布の中に隠れていたのは、菫よりも一回り小さい子供。
白い服、白い肌、頬にかかる白い髪と乳白の虹彩。愛らしい顔立ちも相まって、まるで天使がそこにいるようだ。
瞳孔まで白い、水晶みたいに吸い込まれそうな不思議な瞳だ。菫がまじまじと子供の顔を覗き込んでいると、潤んだ瞳から涙がぼろぼろと零れ出した。
「うわわ、ごめん! でもここにいたら危ないし! あれっ、もしかしてどっか痛い?」
「ぁ、え……」
「……ん? あ、」
妙に反応が鈍い子供に首を傾げるが名探偵はひらめく。もしかしたら目や髪色から外国の子かもしれない。そうだとしたら言葉が通じていないのかも。
菫は少し考えた後、天使の小さな手を掴んで引っ張り上げた。
背中を丸めたまま立ち上がった天使の頭がは菫の顎あたりにあるので、身長は鼻先くらいだろうか。やはり小さい。
「わ……!」
「ええと、ノーノ―! ここはノーで、こっちこっち! こっちがイエス!」
「え、え……?」
しっかりと繋いだ手を引いて、白線の無い道路からガードレールのある道まで移動する。天使はもう片方の手で被っていた布を抑えていたため、地面を引きずって汚れと枝や葉っぱをくっつけている。
あーあー、と足元を見下ろしていて、菫は驚愕する。
「うえっ!?」
天使は裸足だった。菫の大きな声に驚いた天使も肩をびくりと持ち上げ、繋がれた手を握り返すことも振り払おうともせずおどおどと顔を俯かせる。
菫は歩いてきた道を見るが、その子供の物らしい靴が見当たらない。改めて素足を観察すると、指の間に小石が挟まっているのが見えた。裸足で歩いていたのだろうか。
家から追い出された? それとも学校でのいじめ?
けして良好とは呼べない家庭環境で暮らす菫は、謎の子供に対して仲間意識が芽生えた。天使の口から何の事情も聴いていないけれど、少なくとも言葉が通じない異国を裸足で外を歩く子供なんておかしいとは小学生でもわかる事だ。
この子を放っておくわけにはいかない。
だけど、菫は外国の言葉なんてほとんどわからないし、天使が目を合わせてくれない以上ボディランゲージでのコミュニケーションも難しい。
大人の力が必要だ。
携帯電話があればすぐにでも兄に連絡は取れたが、菫は持っていない。電話番号は覚えているけれど、周囲を見る限り公衆電話は近くにない。
困ったら警察。兄の教えに従って菫は子供を交番へ届けるのを決めた。決めたが……近くの交番がどこにあるのかわからない。
「……交番ってどこにあるかわかる?」
「……、…………」
「だーよなぁー……うーん」
相変わらず反応が鈍い。交番って言葉をわかってなそうだ。でも菫も交番の外国語なんて知らないのだから、お互い仕方ない。
菫は腕組みしながら悩まし気に唸る。
裸足の子供を、どこにあるのかわからない交番まで歩かせるのは嫌だ。
ここでまた、名探偵は名案が思い浮かんだ。
今日は兄の家に泊まりに行くため、菫のリュックには着替えを詰め込んでいた。もちろん替えの靴下もある。靴の代わりはないけれど、せめて靴下を履かせてあげよう。
「そうだ! うちの靴下貸したげる! えーとえー、そっくす! プレゼント! 裸足よりは歩くのつらくないと思うんだー」
リュックを地面に下ろして靴下を取り出すと、地面に膝をついたまま菫は天使の足に触れた。ワンピースのようなローブの下の素足は、クラスメイトの誰よりも細く……細すぎて骨が浮いていたし、足の裏は皮が剥けて赤くなっていた。
……いや、これはあかんてぇー。手のひらをクルリ、靴下を履かせておんぶしよう。
頭の先から爪先まで白い印象の天使が、水玉模様のピンクの靴下で足だけ鮮やかなのがなんだか可愛い。「可愛い、きゅーと!」と褒めても、天使の反応は鈍かった。
リュックは前の方で抱え込んで……いや、どう言ったらおんぶが通じるのだろう。わからなかった菫は背中に背負い直し、天使に向かって両腕を突き出した。
「君はうちがだっこするね! ええと、ハグ、ユー!」
「え、ぁわ……っ」
「よいしょー!」
正確にはハグは抱き締めるで、抱き上げるではないのだが訂正する大人もいないため、菫は天使を抱き上げた。軽そうだと思っていたけれど、予想以上に軽すぎて内心とても驚いていた。
体育で同級生を担ぎ上げのストレッチをしていた菫は、同意なく抱き上げた天使が手足の行き場を迷わせてるだけで、すごくバランスが悪くなる事をここで初めて知った。
「わ、わっ、ちょっ、と、ぐらぐらする、」
「ぅあ、あ……しぇ、ろ」
「しがみついて! ええとハグ! ハグミ―!」
「ん……」
意思が通じたのか、天使は少し震えながら片腕だけを首に回した。もう片手は白い布をしっかりと掴んで、自分の身を隠し続けている。地味に引きずる感覚があるから出来たら置いて行ってほしいが、仕方ない。踏まないように気を付けよう。
「あ、あぁ…………めん、なさい」
「ん?」
「ゆるして、ゆるしてください」
「――……喋れるじゃん!」
菫の肩に顔を埋めた天使が涙声で謝罪を繰り返した。しかし、会話は成立しないようだ。聞くだけだと何だかホラー話のような天使の言葉だが、縋るようにしがみついて泣き続ける子供を菫は恐ろしく思えなかった。
やっぱり放っておかなくてよかった。
しっかりと抱き直して、ちょっとだけ誇らしい気持ちで菫はよたよたと歩き出す。
「うぅ、ううう……にいさま、ねえさま……」
「君はお兄ちゃんとお姉ちゃんがいるの? うちも兄ちゃんがいるよ」
「あいたい……あいたい、ごめんなさい、ゆるして、ごめんなさい……!」
「うん、うん。会いに行こうね」
会いたい兄姉がいるなら、この子にも帰る場所がある。謝っているのは、喧嘩をしてしまったのかもしれない。わかる、不安だよね。
よかった、と安堵して菫の声は殊更優しくなる。お姉さんになったような気持ちになって、泣き止まない天使の背中を宥めるように撫で、優しく叩く。菫が泣くと兄がそうやって大丈夫だと教えてくれたように、この子も安心して欲しかった。
「ごめ、ごめんな、さい、服が、」
「服?」
「きみ、の服が、濡れて……ごめんなさい」
「……あっ、うちの話!?」
何のことだろうと耳を傾けていたら、急に話しかけてきた。
確かに天使は会ってからずっと泣いてるし、涙を吸った服が肩に貼りついて少しだけ冷たいけれど、全然気にはならない。
「いいよ、へっちゃら! 雨に比べたら全然濡れてないし、温かいよ」
「あたたかい……」
「ね、君の名前は? おうちの場所とか名字は? んーと、にいさまとねえさまから、なんて呼ばれてる?」
「にいさまと、ねえさま、から……」
兄と姉の話を振ると、天使はまた嗚咽を漏らし始めた。
失敗したかもしれない、菫はちょっと慌てて天使の背中をとんとんする。当然そこに羽は無くて、薄くて骨が浮いた小さな背中だ。居た堪れない気持ちになった。
「ぁ、ああぁ……にいさま、ねえさま、ゆるして、トウをゆるして、」
「あああ、あわわわ、大丈夫、大丈夫だよ! お兄ちゃんもお姉ちゃんも許してくれるよ、大丈夫だよー!」
頑張ってあやしながら車が通る大通りにまで出れば、すぐに大人を見つけられて菫はちょっとほっとした。
これで交番に辿り着ける。迷子の天使さんを送り届けられる。――まぁ、交番まで辿り着いたら、菫もまとめて迷子扱いされるのだが、それをまだ知らない。
そうして、織部菫の運命が決まった。
もしも、あの時あの子供を放っておけば、織部菫は問題なく織部夕昂の自宅まで辿り着けた。歪められた疑惑など知らぬまま、別の形で兄と共に歩く道が開かれていた。
それでも、織部菫に後悔はないだろう。
少し時間はかかったけれど、彼女を苛み続けた毒は誰も傷付けるものではないと教えられる、優しい夜が訪れるのを知っているから。
一方で彼女の運命を変えるきっかけを作った彼が、何を思うかはまた、別の話。
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