閑話 親心、子は知らず
これは、どこにも届かずに消えて、それで良かった話。
『織部さん、奥さんの事は何と申し上げたらいいか……』
『いつでも、いくらでも話は聞くからまた飲み行こうぜ。あ、いや悪い、息子くんまだ小学生だったな、……え? 行く? まぁ、織部が大丈夫なら俺は全然行くけど……』
その男は、人に好かれる事が上手かった。
整った容貌、整えた体格、好まれる声の発し方。ほんの数秒丁寧に話しただけで、大抵の人間に好印象を容易く植え付けられた。
共通の敵を作り擬似的な団結力を演出し、苦悩を分かち合う素振りをし、時に酒の力で開放的になった心を肯定してみせれば、簡単に心も股も開くからあまりにも楽な人生だった。
『え、っと……いえ、奥さんのお葬式、ついこないだの事だったので、驚いて』
『一応第二子出産だから、会社側から祝い金は出るみたいだけど、社長も部長もなんか渋い顔してたよ』
『……俺? 用事あるって断った。お前もそうしとけよ。ちょっと織部と飲むのは、今は無理』
男は、自分は何をしても許される存在だと調子に乗っていた。
そんな理由も根拠もない自信を否定され始め、どこで間違えたのかと男は苛立ちを抑え切れなくなりつつあった。
今の妻と結婚してから? 元妻が自殺をしてから? いや、娘が出来たのがきっかけかもしれない。男は男自身の問題に気付けない。
可愛げのなかった息子は本格的な反抗期になったのか侮蔑の視線しか向けない。娘を産んでから……いや、一緒に暮らし始めてから今の妻は束縛に拍車がかかり、面倒くささと息苦しさも増していた。会社の仲間達も、学生時代の友人達も男を避けるようになった。
ああ、面白くない。くさくさと荒れる心を抱える男の側には、盲目的に愛に飢えた妻しかいない。否、彼は孤独ではなかった。
『あぁぅ』
乳児の娘。生まれた時よりも一回り以上大きくなり、抱くと柔らかく甘い香りがした。
娘もまた、その男の側にいた。無垢な幼子は大人の事情も理解出来ず、周囲の環境が全てだ。夜泣きを宥める育てる一人として、その男を受け入れた。
しかし、男の父性は育まれなかった。
男からすれば、娘はただ愛らしいだけの人形と変わりなく、泣けば途端に煩わしいだけの存在だった。
良き父親をしていれば人は態度を変える事を学ぶと、気まぐれに娘を世話する事もあるが、大して継続はしなかった。
娘が死んだら離婚すると脅され嫌々育児を続けさせた妻と、妹の面倒を見る息子によって、娘は成長した。
娘がいる父親なら一度は夢想する。『大きくなったらパパと結婚する』と言われる事。男も例外なく当てはまり、喋るのが上手くなってきた頃合いに尋ねた事があった。
『うち、お父さんとけっこんしたくない』
未就学児、とうに赤ん坊ではなくなった娘の環境周囲は家の外まで広がっていた。近所の人、画面の向こう側、結婚した夫婦は幸せなものであるとわかっていた。
男が娘の顔を張った。思い通りになれと苛立ち、ままならぬ事に憤った。
涙を流しながらも反抗的な目を向ける娘が気に食わなかった。
男はギャンブルに手を出し始める。
ふと気まぐれに、思いついたように公営競技に数千円。安い服が買えるような金を賭け、ブランドの靴が買える金額が入ってきた。
箍が外れるのはあっという間だった。
徐々に賭け金が増えていき、大きく勝ち負けを繰り返し、それでも少し足が出る程度だった。
しかし、ある時大きく負けた。男は勝てると確信して借金まで賭けていた。
マイナスの補填をしなくてはならない、男は愚かにも勤め先で横領を企んだ。小銭程度を少しずつ。誰にも気付かれなかった事で、男の犯行は大胆になっていく。
『織部、娘ちゃんはまだ小学生だろう。こちらとしても、大事にするつもりはない』
横領を始めて五年目。社長と直属の上司に呼び出され尋問の後、これまでの証拠を提示された。
男は驚いた。五年間の小さな積み重ねの結果、盗んだ総額は百万を越えていた。
そんなはずはないと反論しても、証拠によって事実は明らかだ。総額に納得は出来ずとも一つ一つは男にとって心当たりのあるものばかり。ここ一年に至っては月に数万を平然と懐に入れていた。
男は懲戒解雇された。退職金は出ず、積み立てた財形貯蓄も横領分の返還として手元に戻ってこなかった。
これから、どうしたらいいのか。
茫然自失になりつつも男は帰宅した。そうだ、自分にはまだ家族がいる。妙に自分に依存する女と、大人に扶養されなければ生きられない子供が。
『えぇーうちここ行きたい。もうすぐ付き合って十五周年なんだよ? 連れてってよぉ。えぇ? じゃあ十周年でもいいからぁ』
いつもより早い帰宅時間。一般家庭であれば出来立ての夕飯の香りな漂ってくるはずの夕暮れ時に、家から聞こえてきた声はそれだった。
名の知れた高級ホテルが映るテレビを眺めながら、妻が電話に向かって何かを強請っていた。
誰に? 何を? 理解するよりも先に頭が沸騰した。
どんな暴言を吐いたのか、どれほど暴れたのか。周囲を見れるくらい落ち着いた頃には、わりと散らかっていた室内は嵐が過ぎ去ったようにめちゃくちゃになっていた。
妻は腹を抱えて蹲っていたので、恐らく蹴り飛ばしたのだろう。指の間に挟まっていた長い髪を床に振り落とし、和やかなテレビの音声が流れる中、妻のスマートフォンを取り上げた。通話は切られている。
パスワードを吐き出させてから中身を確認すれば、生々しい交際の痕跡が残っていた。
浮気相手はどこの誰だと問うても、妻から出てくるのは
不毛な尋問の最中、妻のスマートフォンが着信する。
反射的に浮気相手からだと男は威圧的に通話を始めるが、電話越しの相手は警察と名乗った。
妻の番号にかけられているのに、男は横領の件の話かと勘違いして勝手に恐ろしくなったが、ただ娘を保護しているため迎えにきてくれという連絡だった。
そういえば、とっくに帰宅してもおかしくない時間にも関わらず、娘は家にいなかった。また息子の家に遊びに行って、その途中で帰れなくなったのか。面倒だが、警察に悪印象を持たれるのも嫌だ。
嫌がる妻を引きずって車に乗せ、娘を引き取りに向かう。逃がさないための措置と、話を続けるためだったが、結局浮気相手がどこの誰なのかはわからなかった。
男と結婚する前から同時に交際していて、男との結婚を期に一度別れ、遡ること五年前から再び関係を持ち始めた。メッセージのやりとりだけでそこは読み取れた。
結婚前から、この女は不貞していた。
元々既婚者だった男を寝取った女だ、まともな貞操観念があると勘違いしていたのが愚かだった。
『ほら、お父さんとお母さんが迎えに来てくれたよ』
『はい……ありがとうございました』
…………なら、娘は?
頭の悪い女は元々、ただの遊び相手だった。若くて顔が可愛かったから可愛がってやっただけで、一つ屋根の下の家族になった途端に鬱陶しいだけの存在と、何故結婚したか。
男との間の子供を授かったからだ。
だから男は、女と結婚するために元妻に離婚を迫って追い詰めて……それが、それが全て嘘から始まっていたとしたら?
ああ、めちゃくちゃだ。
この同乗者達のせいで、自分の人生はめちゃくちゃだ。
消えていなくなれ。
やぶれかぶれでハンドルを切り、男の意識は途絶え、同時に人としての一生も終えた。
そうして終わった男の意識に、その後が与えられた。
「つらい」「かなしい」「ひもじい」「はらだたしい」「ねたましい」「むなしい」
いくつもの声が男に寄り添っていた。男は事態を理解する頭はなく、ただ感覚に従って煩わしいと呟いた。
離れる事なく、消える事なく、怨嗟の声が鳴り続けた。ぬるま湯の中で浮かび続けているようだった。
始めは中途半端な温度が気持ち悪かった。次第に慣れた。慣れると不快感は心地よさに変わった。そのまま心地よさに何もかも任せていると、男は男自身の形を忘れた。
辛いと俯く者、悲しいと嘆く者、ひもじいと苦しむ者、腹立たしいと憤る者、妬ましいと憎む者、虚しいと息だけ吐く者。
男のものではない感情が、男のものとして混ざり合い、一つの事に七つの言葉が飛び交い、やがて全能感となった。
集合体の一部はその全能感から抗うために、未練を絶ちたいとアイデアを出した。集合体は各々の生前のやり残しを片付けていき、同時に空虚を一時的に満たしていった。
達成感、充足感、解放感。感情を分かち合う事に全能感は増していった。
もっと溶け合って、分かり合って、混ざり合って一つになれば、抱え込んだ苦痛を乗り越えられる。そんな確信を集合体はそれぞれ感じていた。
生前あれほど苦しめてきた人間達があまりにも弱い。弱すぎて悲しくおかしく哀れで愉快だった。一人だけではどうにも出来なかったけれど、我らが一つになれば、何でも出来る。
そんな時、一人の少女を見つけた。
集合体は妙な違和感を抱きつつ、活動出来る時間制限になり、いつも通りどこだかわからない暗闇の中で動けなくなった。
動けずとも全員思考は働いた。全員が少女を気にかけていたため、元は一人だった誰かの関係者だろうか。未練に関係があるのではないか。
そんな話し合いをしているうちに、声が一つ飛び出した。
「あれは俺の娘だ」
溶け出した集合体の内側で、男が男自身の形を思い出した。けれど、それは一瞬の事。
「あれは殺し損ねた俺の娘だ」
「生き残っちゃったの?」「じゃあ殺しておかないと」「住所特定だる」「どうして殺そうとしたの?」
「クソ女が浮気してた、あいつは俺と血の繋がりがない」
「妻は許さない」「ウケる、娘じゃないの?」
「違う、」
反射的に否定が口を出て、ふと思い至った。――自分は、あいつを娘として扱いたいのか。
血の繋がりもない、可愛げのかけらもなく育った子供。憎たらしい妻の不貞の証。
娘として受け入れたい気持ちと、その結果妻の不貞すら受け入れる事を拒む気持ちで、端から捩じ切れそうな不快感が襲う。
「クソ、クソクソクソ……あああああぁぁ」
「なぁ我らよ、我らは既に血も肉もなく、ゆえに一である」「なんか言ってる」「わかりにくい、一言で言って」
クク、と愉快そうな声が上がる。
「穢らわしい血の通った体から命だけ引き抜いたその時、その娘は、正しく我らの娘になるのではないか?」「正しく、娘に」
そうか。もう自分には血も通っていないのだから、同じように血が通わない者同士になればいい。簡単な事だ。
あの時の会話を娘も聞いていた。父親と血の繋がりがない事を娘も嘆いたはずだ。
ああ、早く父として娘を正してやらねば。
……既に常識の通じない存在に成り果てていると融解した形なき者は気付かない。
かつて一人の男だった一部の内側から、じわりと温かいものが込み上げてくる。
これが、親心というものなのだろうか。――その怪物の内にいくつ意思があっても、『我ら』と一括りにした自己愛に満ちた彼らから修正される事もなく、凶暴性が我が子へ向かう事が、彼らにとっての歓喜であり、愛となった。
男は命を手放し、人の形を失い、怪物と成り果てた末にようやく、父性が芽生えた。
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