おまけ
閑話 太陽の下で花は綻ぶ
子供の頃の嘘や隠蔽工作は上手くいったわけではなく、見逃されていたのだと、大人になるとよくわかる。
まず、玄関。
水浸しになっていた。とはいえ浸水などの大袈裟なものではなく、小さな水たまりが残っている程度だ。
普段、靴箱の中にしまわれている長靴が出されたまま爪先は砂まみれ。どうやら夜中に雨が降っていて、外に出たらしい。
次に、浴室。
一晩中回していた換気扇のスイッチを切り、扉を開けると二枚の雨具が吊るされていた。菫のレインコートとポンチョは乾いているが、浴室の床は濡れている。夜中にシャワーを浴びたのかもしれない。……とりあえず、使用感あるバスタオルが増えているのは見なかったふり、換気扇は止め忘れたふりをしようとスイッチを付け直し、扉を閉めた。
眠っていて全く気付かなかったが、妹は宿泊中の友人を連れて雨の中も構わず深夜に出掛け、何故かシャワーを浴び直す必要があるくらいずぶ濡れで帰ってきたようだ。
あまり褒められた行為ではないが、何か理由があったのだろう。二人とも悪い遊びをするようなタイプでもない、様子見しておいて、不審な行動が続くなら釘を刺せばいい。
夕昂は早起きをしなかった。そういう事にするため、一度自室に戻りいつもの時間まで静かに過ごした。
見逃すつもりだった。
けれど、妹の足首が紫色に変色して腫れているのを見て、考えを変えた。
「菫、今入っていいか。つーか入るぞ」
「えっ、まっ、」
いつもより早く帰宅して夕飯用の弁当と朝食用にパンをテーブルに置き、妹の部屋に直行する。ノックはしたが、ほぼノータイムで扉を開けた。
外から見た時、部屋の明かりがついていなかった。
事故後、菫を引き取った直後から始まった極端すぎる節制の記憶が蘇る。夕昂自身はけして不自由な生活はなかった。節制していたのは菫だけだ。
働けない、家事も役立たず、ならせめて使わないように……それが良い事だと言わんばかりに笑う小学生が、真っ暗な部屋で帰りを待っていた時の思いを、忘れかけていたところだったのに。
菫は案の定、真っ暗な部屋にいた。何故か開けていた窓を閉めながら、肩で息をしている。
「……いや、何してんだお前」
「へ、部屋の空気の、入れ替えを少々……おかえり」
「ただいま。……とりあえず、ちょっと話がある。そこ座るか、キッチンのほう来い」
「う、うん。キッチン行く。水飲みたい」
「俺が入れるから、菫は座ってろ」
慌ててカーテンが閉められる。ベランダに猫でもいたのだろうか、いや三階だからないか。鳥……も時間的にいるとも思えない。
先にダイニングキッチンに戻り、菫が座りやすいように椅子を引いておいてから水を入れたコップをテーブルに置く。コツ、コツと松葉杖の音が歩み寄ってくる。
「――……、」
「どうしたの?」
「いや、」
明るい部屋に出てきた菫の目と鼻が赤らんでいた。目も充血している。
泣いていた。菫が? 妹の泣き顔を見たのはいつぶりだろうか、――あの事故の時も涙一つ落とさず、不安そうに目を伏せていただけの妹が、泣いた。
……いや、今まで知らなかっただけで、自分が見ていないところで泣いていたのかもしれない。
夕昂は己の不甲斐なさに歯噛みしつつ、菫の正面に腰を下ろす。菫は菫で全く気にしていない様子で弁当の入ったビニール袋の中を覗いて明るい表情を浮かべている。
「あ、お弁当ありがとう。あとで半分払うね。それで、話って何かな?」
「…………」
お前、夜にどこに行っていたんだ。
しかも一人じゃなく、友達まで連れ出して、怪我までして、一体何をしていたんだ。
それを問おうとしていた。
特に理由もなく、楽しそうだという思い付きで出かけた可能性も充分あったが、それならそれなりの叱り方をするつもりだった。
そのはずが、夕昂は喉まで出かかったその詰問が間違っているように思えて、言葉に詰まった。
そんなものを聞いたところで、本当に聞いておきたい答えは得られない。
ならば、何を聞いておきたいのだろうか……?
夕昂は自分自身に問いかけながら、深呼吸を挟んで菫に向かい合う。
「菫は、俺と暮らすのは息苦しいか?」
「――」
「お前はまだ未成年で、学生で、女の子だ。まだ保護者の元で暮らしたほうがいいと思っている。アルカちゃんみたいに一人暮らしするほうが、気が楽になるか?」
「え、え? どうしたの、急に……」
菫は困惑するが、夕昂が答えを待つために押し黙ると、少し考える姿勢を取る。
「そりゃ、いつかは一人暮らしするのは考えてるけど、今は現実的にわたしのバイト代だけで一人暮らしなんて絶対に無理だよ」
「足りない分は俺が補填すればいいだろ」
「なにもそこまで……」
「そのくらい、させてくれよ。あんな両親のところにお前を置いて、俺だけ出て行った事に、思うところがないわけじゃないんだ」
高校卒業後、夕昂は実家を出た。その時の菫は、まだ小学校に上がったばかりだった。
まだ幼い妹をあの両親の元に残していく事に不安がなかったわけでないが、若かった自分はとにかく距離を置く事を優先させた。同じ屋根の下で暮らさなくなると、その快適さに慣れていき、数年が経ち、いくらか成長した妹を心配する気持ちも薄れていった。
思い出せば出すほどに、己の薄情さを痛感する。菫から見れば、唯一頼れる家族が自分だったはずだ。その事が、時折……酷く重かった。そんな思いが、余計に離れるきっかけにもなったのだろう。
その結果、菫はあの両親の元に残され、事故に巻き込まれた。
菫はそのことを、何も語らない。
それがまるで、夕昂を責める言葉を出さないように口を噤んでいるように思えて、庇護下である事を弁えて良い子でいるようで。
もしも『お前なんて家族じゃない』と、直接言われてしまったら。義務感で支えている心が折れてしまいそうで。
少し充血の治まった目を丸く見開いて、菫は瞬きをしていた。
唐突な発言に呆けているのか、暗黙だった本音に踏み入った事に驚いているのか。その反応がどちらなのか夕昂には読み取れなかった。
「……お兄ちゃん、そんなこと気にしてたの?」
「お前にとっては、そんなことじゃなかっただろ」
一人暮らしを始めた時、菫が何度も夕昂の家に
それでも、当時の夕昂はその距離感の快適さを取った。楽な方へと逃げた。
少なくとも、その時の菫はそれを望んでいただろう。わかっていたから、心のどこかで、いつか、いつかと考えていた。拒絶を恐れる顔で、治療を受けた小さな手が縋るように伸ばされた事故の夜、受け入れる事に迷いはなかった。
同時に、妹がそこまで追い詰められた状況にならなければ、『一緒に暮らそう』と言えなかった自分の未熟さが情けなかった。
夕昂の友人達は進学した者が多く、自由に過ごす彼らは、夕昂の家庭環境を知っていた。知っていたが故に、彼らは夕昂の自由を喜んだ。
友達と過ごせる夕方。恋人を作れる余裕。妹が両親の元で暮らす事への不安から目を背けて、ようやく訪れた自由を謳歌した。
何も……悪い事はしていない。楽しく充実した日々だった。ただ、足枷のような後悔がついて回る。
共に暮らすようになり、何度も思った。
自分は、菫の兄として相応しくないのではないかと。
だからといって、どうすればいいのかわからなかった。
自分が普通の家族を知っていれば、妹も穏やかに過ごせただろうか。気兼ねなく頼れる兄であれただろうか。そもそも、自分の決断が遅すぎたせいだったなら、手の施しようがないのではないか。
「じゃあ……お兄ちゃんが、わたしの面倒見てくれたのは、責任感だけじゃなくて罪悪感もあったって事?」
「……そうだよ。どっちかというと後者のほうが圧倒的だよ。責任感ある兄ちゃんだったなら、お前をとっくに両親から引き離してただろ」
「…………、……ぷっ」
目をまん丸にして呆然としていた菫が、急に笑い出した。いや、わけがわからん、どこに笑う要素があった。
「……なんだよ、大人のくせに情けねぇなぁってか?」
「違う違う、えほっこほっ、あはっ、ははは! いや、なんだろ、なんか、わたし達って兄妹なんだなぁって、思って」
「はぁ?」
何故かおかしそうに当たり前の事を言い出して、夕昂はますます困惑した。
菫は笑うのをどうにか抑えて水で流し込み、一呼吸入れる。いつもの笑顔だった。女の子らしく慎ましやかな、だけどどこか吹っ切れたような清々しさのある微笑がまっすぐに向けられる。
「あのね……お母さん、浮気してたんだって」
「は?」
「事故の時に、お父さんが言ってた。お母さんがずっと浮気してたって、わたしの事もお父さんとの子供じゃないのかーってすごく怒ってた。でもお母さんは違うって泣いてて、……そのあとすぐ二人とも死んじゃったから、どっちが本当の事かわからなかった」
「は、ぁ……?」
「わたしはもしかしたら、お兄ちゃんの妹じゃないのかなって、思ったら怖くて……ずっと言えなかった。ごめんなさい」
事故の日に何かあったのか。話せるようになるため時間が欲しい。そう懇願した妹の言葉を思い出した。
そうか、それが今なのか。理解すると同時に、夕昂は混乱の中にいた。
元々母の夫である父と浮気をしていた継母なら、確かに二股していてもおかしくはないなとか。確かに腹違いなんだから、父親まで違っていたら当然血の繋がりはないなとか。まだ小学生だった夕昂の指を握った赤ん坊の小さな手のひらの握力とか、一緒に遊んでとせがむ舌足らずな声とか、抱き上げるたびに腕に感じる成長過程の重みとか。
関係があるのか無いのかわからない、さまざまな思考と記憶が頭の中で散乱して――答えが一つになる。
たった一つだけ、確かな事はある。これだけは言わなくてはならない。
「お前は、俺の妹だよ」
「――……」
「血の繋がりがなくても、菫は俺の家族だ」
「…………、うん」
菫は小さく頷いて、安心したように微笑んだ。
その笑顔を見て、妹の急激な変化の理由はこれだったのかと、ようやく繋がった。
もっと、早く打ち明けて欲しかった。もっと早く気付いてやるべきだった。六年、こんなにも長い間、不安を抱え続けなくてよかっただろうに。
ああ、なるほど。お互い様だったわけだ。同じように、些細な事で悩み合ってて。確かに、兄妹らしい。
「……俺こそ、ごめん。事故の後からお前の言葉遣いとか変わったり、様子がおかしいのはずっとわかってたのに、気付いてやれなくて」
「いや、普通は、気付けない……と思うよ。わたし、本気で隠してたから」
「それはまぁ、そうかも、しれねぇけど」
夕昂は知らない、知る由もない。
いつか星に語った願い事が聞き届けられたなど、わかるはずもない。
「そのせいで、息苦しそうに見えてたのかな。だったら、お兄ちゃんはちっとも悪くない。よそよそしい感じになってた、わたしが下手くそだったせい」
「どこが下手くそだよ。種明かしされるまで全然気付けなかったぞ。当てつけか? というか、兄じゃないかもしれない大人と過ごすのは、萎縮しても仕方ないだろう」
「全然。お兄ちゃんには感謝しかしてないよ、本当に。わたしの面倒見るの、すごく大変だろうな、迷惑もかけてるし、たくさん我慢させてるだろうなって。だから、責任感だけじゃなくて、ちょっとほっとした」
「いや、ほっとするとこじゃねぇだろ」
「愛があるから、罪悪感は生まれるんだよ」
小さな少女だった妹が、まるで大人の女性のような事を言い出して夕昂は少し面食らった。
けれど、悟ったような表情を見て納得するところもあった。
六年間隠し続けた秘密、罪悪の時間の中で、菫が学んだ事でもあるのだろう。
そうか、愛か。
菫が抱え続けたもの、自分が背負っていたもの。形はなくやたらと重いその名前が、何だか面映い。からかうような笑いで有耶無耶にしたくなった。
「なんだそれ、痒くなるだろ」
「今日だけ、今日だけ。……ずっと、わたしが言える資格なんてないって、思ってたから」
「……馬鹿だなぁ」
愛する資格さえないなんて、卑屈を極めるような育て方をした覚えはない。全く仕方のない妹である。
だけど、少しずつ教えていけばいい。まず、怪我人が用意された食事の値段を気にする必要はないところと、深夜の外出は大目に見るが危ない事はしないでほしいところから。
これからも、家族として一緒に暮らしていくのだから。
「あー、一応DNA鑑定やっておくか? まぁ安い買い物じゃねぇけど、はっきりさせた方がスッキリするんじゃねぇか?」
「……え? DNA鑑定って、高い、の?」
「ん? 検査とかは高くなりがちだけど、ん〜……うおあぁ、こんな感じ」
検査と聞いても、学生である菫にはピンとこないだろう。社会人になった夕昂も『保険が利かない検査とか高いんだよなぁ』と曖昧な印象だ。
具体的な数値を求めてスマートフォンで検索し、兄弟姉妹鑑定費用の金額が想像よりも高く思わず声が漏れてしまった。血は繋がっているだろうな、と思っている夕昂にとって確実にするための値段にしては高く感じた。
でも、必要なのは不安がっていた妹の方だろう。画面を菫にも見せて共有する。
わかりやすく菫は硬直した。そして、両手で顔を覆った。
「うっ、ううぅ……うわあぁ〜……あははは……オーブンレンジ買ってお釣りが出る値段だ〜……」
「そんで、や」
「やらない! やらない!! ああぁぁぁ…………」
意見が一致して、夕昂はちょっとだけほっとした。しかし、菫の過剰な反応に首を捻る。
「え、なんだよ急に。どういう反応なんだよ」
「ちょっと、わたしもどう言えばいいのかわかんない…………」
両手で顔を覆ったままテーブルに突っ伏して菫はうぐうぐと唸り声をあげていた。
怒っているのか、嘆いているのか、はたまた別の感情で泣きそうなのか笑いたいのか、その全てをちゃんぽんしているのか。
この六年、必死に背伸びしていた妹の子供らしい様子に、夕昂はこっそりと愉快な気持ちになった。
久しぶりに頭と背中を撫でてやれば、菫は突っ伏したまま「少しの間撫でてて……」と弱々しく甘えてきたので、もういいと不貞腐れるまで、夕昂は存分に妹の頭を撫で回し続けた。
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