君の空知らぬ雨

「こういうものは……特に今の君は、腰を落ち着けて一人で見る物だろう」


「今週の燃えるゴミの日は終わりました」


 菫の的外れな回答に、昴生は眉を顰める。


「もし、わたしがこれを捨てたくても、来週のゴミの日まで手元に残しておくことになるの。この足だから週末も家で過ごす事になるし……希望あれば、焼却処理してくれるんだよね?」


「火種としてここにいろと」


「忙しいなら引き留めないけど……」


「……ここ数日の問題は、今を含めておおよそ片付いたところだ」


「あー、あぁー……。年明けてからずっと、気にかけてくれててありがとう、なのかな。まだ一月なのに、調べるの早すぎるって驚くところ、かな」


「わざわざ選ぶ必要性を感じられない」


「あと、わたしの場合は、誰かがいてくれたほうが心強いのもあるかな。一人だと、すぐ怖気付きそうだし」


「…………それで、まだ出せなさそうか?」


「も、もう少し、ご辛抱いただきたく……」


 軽く走った後みたいに体が汗ばみ心臓が暴れている。それなのに体は全然温かくならないし肌寒い。逆に頭は外気が心地よく感じるところから、全身の血液が頭に回っているようだ。

 結果の紙はまだ封筒の中。きちんとつまんでいて、あとは引くたけの状態から、動かない。動いてるのは菫の口と、忙しない心臓だけた。

 知りたい。それでも、知れば元に戻れない。


 ふと、目の前の魔術師にまた意識がずれる。

 彼に頼めば、知った後でも知らなかった事に出来るのではないか。そんな弱い気持ちが細い逃げ道を探り出す。

 何だかんだ頼れば応えてくれるのだから、こんなに覚悟をしなくても。


 ……甘い考えを一蹴する。

 そんな二重の手間で、結果なかった事にするなら、多分彼は中身を見せる前に燃やすだろう。

 自らの意思で受け取り、中身を確認する事に意味がある。


 織部菫に必要なものだと判断した、彼の言葉を信じよう。瞼を下ろし深呼吸をして震える息を、ゆっくりと吐き切る。


 紙を引き抜いた。

 それでもまだ、目は開けられていない。


 ふぅ、ふぅ、と口から焦燥感が絶えず溢れる。指の震えが伝わって、紙が音を立てている。手汗で少し、紙が湿っていて、みっともなくて少し恥ずかしい。


「いや、あは、あはは、本当ごめん、時間かかっちゃってる、よね、ごめん、わざとじゃなくて、ほんと、これでも頑張ってて、あはは、はっはぁ、はぁ……!」


 怖い、怖い。それでも、これまで目を逸らし続けた事実と、向き合うべきだ。たった一枚の紙にしてきてくれた、彼に報いるために。

 瞼も震える。薄めを開けてうっすら文字が見えると、読む前に何度も視界を閉ざした。



 兄は、軽蔑するだろうか。


 これまで妹だったから、仕方なく面倒を見てたんだって、怒り出したら、どうすればいいだろう。謝って、謝って謝って。

 夕昂は許せなくても、きっと、許してしまうんだろう。あの人は優しいから、謝り続ける菫を許してしまう。もういい、と水に流そうとしてくれる。

 そのあと……そのあと、は。もう、兄に、嫌な思いをさせないために、……。


「急かすつもりはないが、踏ん切りに時間はかかりそうか」


「わ、わかん、ない。どうして?」


「成り行きで僕が君の見届け人になっているのが、改めて考えれば不相応だろう。今のうちに、片岡を呼び出すべきだと思うんだが」


 目を閉じたまま会話に応じていた菫の瞼の裏に、突然アルカが景気良く「おまたせ!」と挙手する幻覚が浮かんだ。


「い、今から!?」


「それほど遅い時間でもない。連絡に気付けば、片岡はすぐやってくる」


「いや確かにアルカならすぐ駆けつけてくれるだろうけど! でも、一から事情説明しないといけないし、それはさすがにちょっと……アルカにはまた、別日にきちんとするから! 今は、今として、まってて! すぐ腹括るから!」


「何を慌てる? 急かすつもりはないと言っているだろう」


 こうして目を瞑っている間に連絡が行き、「今すぐ行くぞ!」と玄関扉を蹴破る勢いでアルカが参戦する光景が瞼の裏に浮かんだ。ひょっとしたら早めの夕飯を口に詰め込みながらやってくるかも、とまで想像力が働き頭を軽く振ると……さっきまでぐるぐると複雑になっていた思考が、少しすっきりした。

 ああ、自覚するとわかる。あれはよくないものだった。この感覚を、意識して取り入れていこう。


 もっと、思考をシンプルに。



 …………。兄と一緒にいられない理由は、いくつでも思いつく。血縁者でないなら、家族としているべきではない。


 それでも、たとえ血の繋がりがなくても。

 織部菫はこれまで通り――織部夕昂の妹でありたい。


 きっと拒絶される。気持ち悪がられるのも、覚悟しなくてはいけない。想像するだけで苦しさを覚える。自分勝手さに反吐が出る。

 それでもこれが、聞き分けの良い子らしい嘘の混じらない、菫の本心。


 力が抜けたら自然と、目が開いた。


 紙には馴染みのない単語と、数字と英字で埋められた表があり、目が滑る。菫の目が相当泳いでいたのか、昴生の指が紙面に影を落とす。


「昴生くんって、手も綺麗だね」


「どこに注目している。この欄だ、ここに書いてある。二名のDNAに血縁関係が認められる。双方の父は同一人物の可能性が限りなく高い」


「…………、え……?」


 記された文字を要約した言葉が、菫には現実のものには聞こえなかった。

 頭の中で反芻し、目に映る文字を何度も読み直しても、現実味がない。兄と血の繋がりはない、長い時間の思い込みが妨害している。


「君が夕昂さんと血縁がない事を意図的に隠しているのではないかと思ったが、鑑定結果はこの通りだ。君の隠し事に関わる調査は振り出しに戻り、この結果は不要な物になるはずだったが……昨夜、綿毛茸の言葉に動揺していた君を見て、一つ仮定の余地が生まれた」


「え、ぇと、え……?」


 信じた瞬間、目覚ましの音で起こされてしまうような恐怖に目が回る。

 ああ、ほら悪い癖。もっと思考をシンプルに。


「君自身が、事実を誤認している可能性。つまり、酷い勘違いをしているのではないかと考えた」


「勘違い……」


「仮定は正しかった。確信したのはつい先程だが。これは、君に必要なものだった」


 ぱたた、と紙が水を受け止めた音が響く。

 菫も、昴生も、大きく目を見開いて言葉を失った。


 まるで世界から音が消えたように、窓の外の街の音が遠くなり、ぱた、ぱた、と紙が鳴る。菫の頬を伝い落ちた涙を受け止めて、湿っていく。


「う……ぅ、っ…………」


 なんだ、馬鹿だな。

 最初からずっと織部菫は夕昂の妹だった。


 恐ろしくて見て見ぬふりし続けて、どうしようもなく愚かで、それでもそういう生き方しか出来なくて、息苦しくて。そうしてこれからも生きていくのだと、早い終わりを求めながら諦めていたのに。

 それなのに……あまりにもあっさりと、長い間張り詰め続けたものが解けてしまった。笑うしかない。

 でも、現実は喉から込み上げてくる嗚咽を抑え切れず、後から後から溢れてくる涙も止められず、顔も歪んで全然笑えそうにない。


 こんなに簡単な事だったのに、本当に馬鹿だ。


「……だから、一人で見た方がいいと言っただろう」


 いや、簡単ではなかった。

 菫だけでは、けして、この夜に辿り着けなかった。


 涙を流しながら顔を上げると、昴生は酷く居心地悪そうに顔を背けていた。まるで、泣いてる顔を見ない配慮をしているように。


「一人が難しいなら、片岡を呼べと。……君を、慰める人間がいないだろう」


「なぐさめる……」


 彼に、泣いてる女の子を慰める発想があったのか。

 深々と溜息混じりに呟く言葉を聞きながら、少し意外な気持ちでその横顔を見て、口から零れ落ちた。


「君じゃ、駄目なの?」


「……は…………?」


 虚を突かれた顔を向けられても、出した言葉に後悔はなくて、相変わらず涙は止まらなかったけれど、口元は緩んでいた。


「君が、いい」


 慰めてもらえるなら、彼がいい。

 ふと現れた感情の名前が何なのか、うまく答えが見つからないけれど、織部菫を理解してくれた継片昴生に、受け止めてもらいたい。


 昴生の顔に浮かぶ困惑は増していく一方だ。涙で濁る視界で、彼の変化を眺めて随分と表情が読みやすくなったなと考えつつ、鼻を啜る。

 大丈夫、今度はちゃんと笑えた。


「……ふふ、嘘。ちょっと言ってみただけだよ」


「――、」


「わ、なんで睨むの……そのほうが昴生くんだって、」


 部屋に一歩踏み入った昴生が、とても不本意そうな顔のまま菫を抱き寄せた。

 涙で濡れている顔が肩にぶつかる。困らない都合がいいだろう、と続くはずの言葉の代わりに「んぶ」と少し間抜けな声が出た。

 体が前に倒れているけれど、腰に回された腕のおかげで安定感はある。もう片方の手のひらが、とんとんと優しく背中を叩く感覚があり、宥められているようだ。

 びっくりした。まさか抱き締められるとは。いや、赤ちゃんをあやしてるみたいな感じだけども。


「コート、濡れちゃうよ?」


「雨に比べれば大した事はない」


「じゃあ、昴生くんが土足なのは目を瞑っておこ」


「……君は本当に、妙に口が回るな」


 呆れたような声が何故か心地よくて、自然と口角が上がり、治まったと思っていた涙が溢れて瞼の裏が熱くなる。


 涙が止まらないのは先程と変わらないのに、肩に埋めた菫の顔は笑っていた。不思議だな、と疑問には気付きつつも、答えとなる言葉はわからない。わかるのは、きっとこの胸の温かさに関係がある事だけ。

 菫のすすり泣く僅かな呼吸音だけが、静かで穏やかな夜の時を刻んでいた。




 彼らの時は進む。

 刻一刻と『大災害』の時が近付いていく。

 残された時間は、もう一年もない。

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