スミレはただスミレのように
DNA。体を作り上げる細胞の核。
核に内包された情報は三万冊の本に匹敵する量で、一個体ごとに異なり、生体の説明書と呼ばれている。
その情報の一つ、遺伝子。
それを調べると、どんな遺伝を辿ったのか詳らかに出来る。
封筒の中身、そこには菫と夕昂の……血縁鑑定の結果が書かれている。
「それを持って帰って!」
どうして、どうして。どうしてそんなものを彼が持っているのだろう。わからない、恐ろしい、菫はほとんど反射的に声を荒げた。嫌悪感による悲鳴だった。
その拒絶の声の響きが、あまりにも母に似ていて、菫は震える手で口を抑えながら俯く。
彼を見る事が出来なくて、それぞれルームシューズとギプスで包まれた足元に視線を落とす。
「ごめ、ごめんなさい。大きい声出して……。でも、どうして、昴生くんがそんなもの……」
「君の腹を暴く過程で、確かめておくべき情報だと判断して
「あぁ……そう、そう言ってたね、たしかに……」
いつもだったら、困ったなと笑って受け流すのに、今はどう笑えばいいのかも菫にはわからない。自分が今、どんな表情なのかも把握出来ない。きっと人に見せられない顔をしているに違いない。だから、まだ顔を上げられなかった。
俯いて、足元とフローリングだけの視界に、再び封筒が差し出される。
「結果を見て、不要な情報だと破棄する予定だった」
そう告げられてよく見ると、確かに封は開けられていた。菫にとって長年のブラックボックスを、知らない間に暴かれていたようだ。その事実にも、体の芯から冷えていくのを感じる。
「……どうして、捨てる予定だったのに、持ってきたの? そんな事をわたしに教えて、一体何がしたいの? 黙って検査したなら、黙って捨ててればよかったのに!」
感情を抑えられなかった。封筒を弾き飛ばす乱暴をしないように空いた片手で服をきつく握り締めるのに精一杯で、言葉はどうしても責めるような声音になってしまう。違う、違う。こんな親のような言葉を使いたくない。いつもの柔らかい言葉を選びたいのに、何も出てこない。
一刻も早く、その恐ろしいものを遠ざけて欲しかった。何度も強く目を瞑り、再び目を開けても封筒は差し出されたままで、菫はこれ以上怒りの言葉が出てこないように唇を噛み締める。
「……早く、それを持って、帰って」
「僕には不要の物だった。だが、君には必要だ」
そんなはずない。菫は首を横に振る。
それは今、菫が兄と共にいられる薄氷を砕くものだ。菫の愚かな謀りを暴くものだ。そうなれば、もう夕昂の妹ではいられなくなる。菫の兄はいなくなり、誰も残らなくなる。
それでも、目の前の封筒は無くなってくれない。
どうして、どうして……彼は黙って、封筒のまま差し出し続けているのだろう。
中身を出して見せればいいのに、こんなにも無駄な時間を、根気よく。嫌がらせ、はあり得ない。昴生がそんな事をするはずがない。
「……どうして、封筒の中身を言わないの?」
「僕が結果を告げる事に意味はない。君が受け取って、自分で確認する事に意味がある」
「もっ、と説明、してくれないと、意味がわからないよ……」
「答えた以上の意味はない。中を見てくれ」
冬の冷たい空気が部屋を満たしていく。
上着を羽織っているのに、寒さのせいか、恐怖に耐えられなくなってきたのか、頬の内側で歯が音を鳴らす。
「いや、だ……」
「織部」
「おねがい、おねがいだから、持って帰って……わたし、怒らないから、もうこれ以上怒らないから、何も言わないで、持って帰って。いくらでも軽蔑していいから、最低な奴だって思ってくれていいから、わたしが全部悪くていいから、あやまるから、もう、やめて」
彼が何をこだわっているのかわからないけれど、それに応えることは出来ない。回避するためなら何でも出来る。みっともない懇願もいくらでもする、怪我の足のまま土下座をし続ければ彼は折れてくれないだろうかと卑怯な手すら厭わない。
「織部菫、――君は蔑まれる人間ではない」
「――そんなことない」
「君のそれは謙虚や謙遜などではなく、否定だ。どれほど言葉を積み重ねたところで、無意味なほどに頑なに拒絶し続けている。まるで賽の河原の石積みのように……それが、これまで不可解だった」
一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため。
積み上げた石は鬼によって壊される、その繰り返しが賽の河原の石積み。親より先に死んだ子供の罪に与えられる罰。
親が死に、子供だけ生き残ってしまった菫とは逆の話で、無関係な話だ。
それでも、彼の目にはそう映っているらしい。
けれど、昴生の言葉が妙に胸の中にすとんと落ちていった。
どんなに善行を重ねても、良い子であろうとしても、菫にとって織部菫は、敬愛する兄を騙す大罪人に変わりはなかった。自分でありながら、自分自身を許せないまま、善行を重ねた上っ面の評価ばかりが上がっていく。自己認識が乖離していく。
「あぁ……あはは」
昴生がここまでした理由が、菫には何となくわかってしまって、枯れた笑いが零れた。
菫は兄を敬愛している。
そんな兄を、どれほど尊敬しているか、大切にしたいか言葉を尽くしても、もし言葉が届かなかったなら。『自分はそんな大層な人間じゃない』と、拒絶され続けたら、きっと虚しくなる。どうして拒むのだろうと疑問に思う。そんな想像は、容易かった。
昴生は菫を過大評価していた。
異常なほど美化されていた評価はお世辞でも色眼鏡でもなく、彼なりの嘘偽りのない本心からの賛辞だったのだ。
菫は尊ばれる人だと彼は思っていたのだ。菫が兄をそう思っているように。
どうして、尊ばれるべきその人は、自身をそんなにも蔑むのか。その不可解を解明したい。
それがきっと、継片昴生の行動原理だった。
普通、ここまでする? と困惑の方が強いが、理解出来なくはない。それに、彼は色んなところが普通じゃないのだから、彼らしいと言えば彼らしい。
それに、そんな昴生の事を菫は笑えない。
遺伝子検査の鑑定書というとんでもない物を持ち出されてようやく、あの夏の夜に語られた言葉が、冬の風が入り込むこの部屋の中で時を経てようやく、きちんと菫の胸に届いたのだから。
ここまでされなければ届かなかった。それほどまで頑なだったと、ようやく菫は自覚出来て、呆れて嗤えてしまった。
「……わたし、昴生くんの気持ち、よくわかんないよ。わたしに、そんな価値はない」
「僕個人に理解を示す必要も、君自身の評価を改める必要もない」
また、丸ごと肯定しているのか丸っきり否定しているのかよくわからないし返答に言葉を使ってくる。菫はどう答えるか悩んだ一呼吸後、「だが、」と昴生は言葉を続けた。
「僕が生きている事が、君の価値を証明しているだろう」
「それは、昨日の夜の事? ……わたしは昴生くんを突き飛ばしただけで、助けたのはアルカだよ。わたしが庇わなくたって、防ぐ方法だってあったでしょ?」
「それは綿毛茸の話だろう。確かに、あの時は君が割り込んで来なくても対処する術はあっただろう。それでも、鬼に対して僕が出来る事は何もなかった」
淡々と事実だけを語る昴生は、その時僅かに表情を歪めた。不甲斐なさに一瞬唇を噛む。
相変わらず菫は、封筒の事も彼の事も直視出来ずに床と向かい合っていたため、それを窺い知る事は出来なかったが。
「僕が継片の人間である限り、あの鬼は僕を殺しただろう。どんな命乞いも自己防衛も全て無意味だった」
「そんなの……綿毛茸の事だって作戦立てて準備して、三人がかりで勝てたのに。鬼の事はイレギュラー過ぎたもん。何というか、事故みたいなものだよ。昴生くんのおうち事情が特殊過ぎたのを除いたって、どうにも出来なかったんじゃないかな。本当に、あの幽霊猫がいてくれて、」
「君がいたからだ」
心臓がぎゅうと締められるような痛みに菫は息を呑む。
「君が救った命がここに立っている」
「……わたしは、何もしてないよ。誰かを救えるような、すごい人間なんかじゃない」
「確かに、君は秀でた才能を持つ人間とは言えないが、それが否定材料にはならない。結果はもう出ている、僕と片岡がそれを証明している」
そんなわけがない!
頭の中で強く否定した瞬間、アルカが悲しむような顔をしたような気がした。ああ、また、大切にされて喜びたい気持ちと、それを許してはならないこれまでの自戒の意識が対立して、乖離していく。心が目に見えるものだったなら、細切れになるまで裂かれたゴミと見分けがつかないだろう。
駄目だ、これ以上否定しては駄目だ。彼らの気持ちは蔑ろにしてはいけない。そんな言葉を吐いてはいけない。頭で理解はしていても、取り繕う顔は出てこない。
どうしたらいいのかわからない。菫は、頭を緩く振るしか出来ない。
困ったな、怖いな。友達だし、味方だし、話も通じて信頼出来る相手なのに、どうやったら帰ってくれるのか皆目見当がつかない。綿毛茸が雑魚敵に思えるくらい手強いよ。
「――……君のその頑なさが、これまで不可解だった。だが、綿毛茸の中の一部であった君の父の言葉を聞いて、君の反応を見て理解した。君は洗脳されている」
「……へ?」
洗脳。
唐突な発言に菫は呆気に取られて、思わず顔を上げてしまった。目の前の彼は至極真面目で、顔を上げさせるための冗談の類いではなさそうだ。
「わたし、洗脳なんてされてないよ?」
「なら、君の思い込みが激しいか、極端に視野が狭い事が原因だ」
「恩人扱いした口でよく悪口をスルスルと出せるね……」
「どちらも事実だろう、差異はない。他には、僕が思っていた以上に君が臆病だったのもあるだろう」
思い込みが激しい、視野が狭い、臆病。立て続けに並べられた言葉には多少むっと反抗心が奮い立ったので、彼の言葉通り、痛いところを突かれた自覚が菫にはあった。
それぞれが問題というよりは、臆病だから思い込みが激しく、臆病だから視野が狭い。最後の一つが根本の原因だろう。
ならば、心当たりのない洗脳も臆病に通ずるものがあるのだろうか。
「それと、君は余計な事を考え過ぎだ」
考えていたところで、考え過ぎだと指摘されて目を瞬かせる。
「様々な要因が重なった結果、君は洗脳状態になった。真っ先に確認するべき部分から目を逸らすために」
「――……」
目の前に差し出されたままの封筒に視線を落とす。織部菫にとって恐ろしい物、見てはならない物、知ってはいけない物。
――余計な事を考え過ぎだ。
昴生の言葉を思い返し、そこに封入されたただの紙として向き合うと、不思議と思考が切り替わった。
どうして、これが恐ろしいのか。
これは、菫と夕昂が血縁関係ではない事を示す物だから。中身を知れば兄妹として過ごしていく事が出来なくなるから。
…………。それが正しい、正しいはずだ。
中身を、確かめていないのに?
「鑑定結果を見る必要がないと正常に判断するなら、僕がこの場で焼却処分する。コピーはない。僕の記憶なら消す事は出来る」
「……わたし、そんなに正常に判断出来なさそうだった?」
「少なくとも、僕の目には不可能に見えていた」
母は不貞を否定していた、父の勘違いだと思い込もうとしていた。でも、きっとそこに書かれている結果は、残酷な事実だろうと諦めていた。母の不貞の証明を、父と兄と血縁でない事実を突きつけられると思い込んでいた。だから抵抗した。願望と失意と希望と絶望が複雑に入り混じり、目を曇らせて、思考を狭めていた。
何もかも曖昧にして見ないふりをしたまま、時間が過ぎていくのを耐えていた。大人になれば、自然と妹のまま自立という形で離れていける。鑑定結果の抹消は、そんな菫の意思を選択肢として提示していた。
落ち着いて思い返してみれば、昴生は何一つ菫に強制していない。必要だから見たほうがいいという姿勢を崩さず、意固地になっていた菫が落ち着くのを待っていた。
「……わたしに必要だって言ったのに、昴生くんがここまでしたのに、見なくてもいいの?」
「はぁ、君は余計な事を考え過ぎだ。僕に配慮なんて不要そのものだろう。このまま見て見ぬふりをし続けようと、事実は変わらない。情報をどう扱うかは君自身が判断するべきだ」
「……でも、昴生くんは見るべきだって、思ってるんだよね?」
菫の中で答えは決まっていた。けれど、まだ恐ろしさは拭えなかった。あと一押し、手を伸ばすための何かが欲しかった。だけどその何かがわからない。みっともなく問い続けるのは往生際が悪く思われても仕方ないのに、彼の言葉は淡々と続く。
「君は蔑まれる人間ではない。君が、」
不意に言葉が途切れる。
菫が顔を上げると、夜の薄明かりの逆光で陰る昴生の表情が、薄く開いては閉じられる口が、ほんの少し困っているように映った。
「……ただ、君らしくあってほしいと、僕は思う」
「わたしらしく……」
名前に相応しく、小さく可憐で無害な花のようであろう。名前に隠れた別の名の毒に、気付かれないように。
織部菫は、身勝手な臆病者だ。
誰かに献身する形でようやく自尊心を保てる弱者だ。
誰かにとって都合がいい存在でなければ、自分がいる意味なんてない。
「わたしらしく、かぁ」
ちょっと思いつかなくて、つい笑ってしまった。
優しい人であろう、良い妹であろう。こういう風に生きようと思える理想はいくらでも思いつくのに、そこに自分らしさを見出そうとすると途端にわからなくなってしまった。
我ながらこれは酷い。あまりにも拗らせすぎている。具体案は何一つ思いつかなかったけれど、それでも不思議と肩の力が抜けた。
……少しでも、変えられるのだろうか。
鑑定結果が、菫にとって最悪の結果なのか、夢見た結果なのかまだわからない。中を確認するまでは、彼の言った必要の意味も理解出来ない。
知るのは怖い。でも、知りたい。
自分のこの先、兄との関係、余計な思考を省いた時、心の答えはそれだった。
「うん。そう思ってくれるなら、頑張ってみるよ。あんまり自信はないけど」
菫は指の震えをそのままに、封筒を受け取った。見た目通り封筒は薄く軽く、それでも心情的には重たく感じた。
松葉杖を脇に挟んで、どうにか中の紙を取り出そうとした時、昴生が狼狽えた。
「は?」
「え?」
「今……ここで開くのか?」
「うん。もう中見られてるなら昴生くんに隠れて見る必要ないし……あ、ついでに封筒の方持っててくれると出しやすいから助かるかも」
「…………」
何か言いたげな半開きの口は閉ざされて、昴生は黙って封筒の端をつまんだ。
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