トリカブト

 織部菫がまだ小学校低学年だった頃。名前の由来を家族の人に聞いてくる宿題が出された。



 名前は親から初めての贈り物です。


 優しい子になるように。友達に恵まれるように。強い子になるように。

 貴方達の名前にはそれぞれ色んな願いや、気持ちが込められています。



 柔らかい先生の言葉に希望を持ってしまうくらいには、幼かった。


「は? 知らない。あんたの名前はダァがつけたし」


 母は名前をつける事すら頓着しないほど、自分に興味を示さなかった事実を知る事になった。

 母は父しか大事にしていない。それはよくわかっていたけれど、直接知るたびに息を詰める時間がやってくるから、少し苦しかった。


「あー、あったなぁ、くっそだるい宿題。ほら、この女優。■■すみれちゃん、可愛いし美人だろ? こういう娘になってほしかったんだけど、なぁ。はー……あ、お母さんには黙ってろよ。花の名前だって言っとけ。めんどくせえから」


 大きな胸を露出した綺麗な知らないお姉さん。それが、菫の名前の由来だった。

 そうか、そのお姉さんと同じ漢字にすると母が怒るかもしれなかったから、花の菫になったのか。そうか。


「うん。わかった、ありがとう、お父さん」


 そう言う以外、どうすればよかったのかわからなかった。




 わからなかったから、『菫』に意味を求めた。漢字には色んな意味がある。強さ、優しさ、温かさ。そういう子になりますようにと願いを込めてくれました、と言えるような意味が欲しくて、探した。

 だから、余計な事を知った。


「……トリカブト」


 自然界最強の猛毒、トリカブト。

『菫』の読み方の一つとして辞書に載っていたその名を知っていた。ミステリー作品で毒殺に使われていた毒の名前、探偵が切迫した声で告げて恐れられたもの。


 菫はパタリと分厚い辞書を閉じた。

 子供がちょっと調べたらわかる事を父は知らなかった。いや、もしかしたら知った上でつけたのかもしれない。事実はわからない。確かめられない、確かめたくない。頭の中がめちゃくちゃになる。

 どうすればいいのかわからなかった。




 答えは、思わぬ形でわかった。


「あれっ!? 今日だったっけ! 忘れてたっおかーさーん!!」


 同じ集合団地に住むクラスメイト達とエントランスで待ち合わせして、学校に向かうのが習慣化していた。その中で一人、よく遅刻する子がいて、その子の家まで迎えに行く事は珍しい事ではなかった。

 家族の人から聞いた名前の由来をスピーチする日。その子はすっかり忘れていたようで、とんぼ返りで家の中に戻っていく。


「私の名前の由来ってなーにー!?」


「は!? それもしかして宿題だったんじゃないの!? 今!? もう!」


 玄関扉を押さえていたので、中の会話が菫達には丸聞こえだった。その子の母の声は朝の慌しさに切迫しているが、どこかそれを許しているような優しさを感じる。叩くような音も聞こえない。


「顔よ、顔! 生まれて顔見た時に『×××』って顔してたの! お父さんもおじいちゃんおばあちゃん達も満場一致! そんで漢字は、」


「わかった! 行ってきます!」


「最後まで聞いてけっ! ああああもう! 車と自転車に気をつけてね!! あっ、ごめんね待たせちゃって、気をつけてね」


 その子と母親が玄関までやってきて、扉を開いたまま待っていた菫達に気付くと笑顔で見送った。その子は、『×××』はお待たせーといつもの顔。

 確かに『×××』っぽい顔だ。うまく説明出来ないが、とても似合う名前だと菫は思った。


 羨ましかった。

 家族全員で話し合ってもらえた事。きっと話の続きには漢字に込められた意味もあった事。それを聞き流しても、いつでも聞ける事。それが、きっと、当たり前な事。


 惨めさに苛まれながら、どうすればよかったのか、わかった。

 持つ事を許されなかったと、諦める。

 だって、どんなに泣いても欲しても羨んでも、どんどん惨めになっていくだけだ。込み上げてくる『どうして』『なんで』って気持ちを『仕方ない』で蓋をする。


 だけど、この時はまだそこまで苦しくなかった。その子のように母に対して我儘に振る舞えなくても、菫は兄に甘えられた。

 兄に「兄ちゃんの一番好きな花はスミレにして」とねだれば、菫はその瞬間から、毒の名前でも、知らないお姉さんの名前でも無く、兄の一番好きな花と同じ名前になれた。


 その時はまだ、ただの名前だった。





 兄が就職を機に家を出て行ってから、父母の関係が少しずつ変化していった。

 父を愛してる母と、そんな母が煩わしくなった父。母が父への執着を緩める。父が母に対し心を配る。ただそれだけで喧嘩は少なくなるのに、両親は互いに譲ろうとする事も謝る事もしなくて、言い合いする日が多くなった。

 ちゃんと話し合えばいいと間に入っても手を上げられるだけだったので、壊れた物や汚れた物を綺麗にしていた。そうしたら、少しは役に立つと言ってくれた。でも、それは最初だけ。割れたガラスが残っていて、それを踏んで怪我をしたと母に怒られるくらいには、両親の喧嘩の後片付けをするのが当然になっていた。

 割ったのは父なのに、怒られるのはいつも菫だった。


 次の日が休みの時、菫は一時間ほど歩いて兄の社宅によく遊びに行っていた。

 一人暮らしを始めた兄は週に一度は菫の様子を見にきていたが、その頻度は徐々に減り、二年経った頃からは顔を出す事もなくなった。仕事が忙しいのも本当だっただろう、菫を心配していたのも本心だろう。だがそれ以上に、あの両親がいる家に訪れるのが嫌だったのは想像に容易い。だから、寂しくても責めるつもりはなかった。

 毎週のように小学生の妹が泊まりに来るのは、社会人の兄にとってはさぞしんどかっただろう。

 それでもいつでも迎え入れてくれた。

 呼吸が出来る週末の時間に、救われ続けていた。



 その週末も、兄の家に向かう途中だった。


 だけど、少し遠回りしたところで自分よりも小柄な子供が一人蹲って泣いているのを見つけた。周りに大人もいない中、初めて迷子と遭遇したのだ。

 子供に色々尋ねても答えらしい答えは得られず、菫はその子を交番まで送り届ける事にした。

 大きな道に出て、通りすがりの大人に交番までの道を付き添ってもらい、辿り着いてその迷子がいた場所などを答えていたら外はすっかり真っ暗になっていた。

 警察には菫が近所の子供ではない事に気付かれてしまい、運悪く兄とも連絡が取れず、両親が迎えに来る事になった。菫は不満だったが、小学生を一人で帰せないと大人が判断するのは仕方ない事だと諦めた。

 また明日、改めて兄の元に行けばいい。そう思っていた。


 両親が車に乗って迎えに来て、菫は驚いた。母は免許を持っていない。迎えに来るとしたら良い父親面を引っさげた父だけで、車の中で面倒ごとを起こしたと文句を言ってくると考えていたので、二人揃ってやってきたのは、とても驚いた。

 警察官に応対する父は笑顔だがいつもより疲れていて、母はここに来る前に泣いていたのか目が真っ赤になって俯いていた。

 菫はそのまま両親に引き渡された。両親は運転席と助手席、菫が運転席の後ろに乗り込んでシートベルトをするよりも先に車は出発した。かなりのスピードを体感して、父を睨むと両親ともシートベルトをしていないのに気付き、目を見開いた。


「ちょっ、お父さん! はやいよ、こわい! シートベルトもして!」


「うるっせぇな!! 黙ってろ!!」


 父の怒鳴る声に体が強張ったのは菫だけではない、母の肩もびくりと跳ねた後ずっと小刻みに震えていた。


「おい、話の続きだ」


「……ごめんなさい、でも、うち寂しくて! ダァが全然うちを大事にしてくれないから、だからしかたなかったの!!」


「お前の話はどうでもいいんだよ! あのメッセージはどういう意味だって聞いてんだ!!」


 両親が怒鳴り合っている時は、二人の視界に入らないように、出来るだけ二人の声が聞こえないように隠れて耳を塞いで布団に潜り込んで寝たふりをしてやり過ごしていた。狭い車内では逃げ場がどこにもなく、菫は胸の前のシートベルトに頼りなく縋りつく。

 二人の喧嘩はいつも、寂しいと面倒の言葉の殴り合いだった。今日は様子がおかしい。


「付き合ってから十年ってどういう事だ? なぁ、お前は俺だけだとか言ってるくせに、十年も付き合ってる男がいるなんておかしいだろうが!!」


「ちがうの、ちがうの! あれはただの嘘!! 一回だけなの!」


「だったら男呼び出せって言ってんだろうが!!」


「嫌や! 嫌ああああ!! ああぁぁ!!」


 母が錯乱したように泣き喚き、父は舌打ちしながら運転がどんどん乱暴になっていく。急ブレーキで母がダッシュボードに頭をぶつけても心配する様子もない。苛立ちを抑えきれないのか何度もハンドルと座席を殴る音が聞こえた。

 菫はどうしたらいいのかわからず、ただ無意識に兄に助けを求めていた。恐怖と混乱で、自分の膝を見るだけを意識して現実逃避しか出来なかった。

 赤信号で止まった時、父が嘲笑する。


「……なぁ、菫は本当に俺の子か?」


「は……?」


「俺と結婚する前から、付き合ってた男がいたんだろう? 俺はなぁ、お前が妊娠したから前妻あいつと離婚するって決めて、だから前妻あいつは死んだんだ!! お前が! お前が騙したせいで何もかもめちゃくちゃだ!」


「ちがう、酷い! うちが妊娠する前からダァはあの女と別れたいって言ってた!!」


 菫の母は、兄を生んでいない。そもそも、兄と母の年齢差は十三しか離れていない。兄と母の関係がずっと険悪だったことも含めて、思い至るきっかけはいくつもあった。母自身が兄を自分の子ではないと謗る場面も何度も見た。兄からも、説明を受けた。

 だから、兄とは腹違いの兄妹だと、父親は同じだと、ずっと、そう教えられていて、――。


 息が苦しい。息を吸っているのに、ずっと苦しい。毒でも飲んだみたいに。


「ふざけんなくそがぁぁぁあァァアア!!」


「ぁ、」


 その後の事は、あまり覚えてない。

 耳が壊れそうな大きな音と、体に強くシートベルトが食い込む衝撃だけ。



 とても静かになったと思った。


 あんなにもうるさかった両親が同時に喋るのをやめて、空気が抜けるような音だけが菫には聞こえていた。

 だから、あまり怯えずに目を開けた。


 助手席は電柱に抉られるように潰れて、血塗れの母は眠っているようだった。運転席は空っぽで、割れたフロントガラスの向こうで不自然な姿勢で地面に倒れている父がいた。その時は理解出来なかったが、シートベルトをきちんとしなかった場合、中にいた人間が車外に投げ出される事は珍しくないらしい。


「おとうさん……おかあさん……」


 ああ、あんなに喧嘩していたのに、二人とも頭潰して、お揃いで死んだんだ。まるで仲良しみたい。

 一緒にいたのに、一緒に逝けなかった。まるで仲間外れみたい。



 次に気付いた時には、病院にいた。


 傷は軽傷、事故に気付いた大人達によって車から出された時も救急車に乗った事も治療を受けている間も、起きていたはずなのに夢の中にいるようで、ずっとぼうっとしていた。


「菫! 菫、大丈夫か、兄ちゃんが来たぞ」


「……にいちゃん……?」


 事故からどれほど時間が経ったのか、菫の目の前には兄がいた。車内でずっと縋るように心の中で呼び続けていた兄が、そこにいた。


 兄は、兄ではない。

 ずっと母が父と兄を騙し続けていた。

 本当に? 母が嘘をついていたのか、父が正しかったのか、菫にはわからなかった。兄がどう考えているのかも、わからなかった。


「兄ちゃん……!」


 菫は、夕昂に向けて包帯の巻かれた両腕を伸ばす。


 この人は、兄ではない。だけど、だけどそれはきっと父の勘違いだった。きっと母に対して逆恨みをしていたんだ。そうに違いない。この人は兄だ。たった一人の腹違いの兄。兄がいなければ、もう、誰も。誰もいない。

 だから、菫は、兄を騙した。

 哀れな妹が縋っているのだと、母ではなく、菫が騙した。


 だってこんなのは、『仕方ない』で蓋を出来ない。

 そうする以外にどうしたらいいのか、わからなかった。


「ああ、そうだな、怖かったな。もう、大丈夫だ。兄ちゃんが一緒にいるから」


 だけど、兄に優しく抱き締められた時に、酷く後悔した。

 あんなにも安らげた兄の傍で、菫はもうまともに呼吸が出来なくなっていた。


 あの時、織部菫は兄に手を伸ばすべきではなかった。



 

 そう、こんなものである。

 人の腹を暴いたところで、中から出てくるのは血と内臓だけ。見て、知ったところで気分が悪くなるだけ。


 美しい思い出があったところで、踏みつけられ汚されればゴミ箱行きになるように、織部菫の人生は始まった瞬間から猛毒に侵されていた。両親が適当につけた名前はあまりにも皮肉過ぎて、菫の本質を表しているようで、どうだ似合っているだろうと、もう笑うしかない。


「……はい、申し訳ありません。シフトに穴開けてしまって、怪我が治ったらすぐ、……ありがとうございます。はい、よろしくお願いします」


 何とかアルカを説得して学校から一人帰宅した後、菫は自室に引き籠っていた。

 ギプスの写真と診断結果を兄に正直に申告すれば、家事の一切を禁止されてしまった。松葉杖を使いながら働けるはずもなく、少なくともギプスが外れるまではアルバイトに行く事も出来なくなった。バイト先に連絡した後、完全に手持ち無沙汰になった。


 ……家で何をすればいいのだろう。

 何をするにもお金がかかる。家の中でも外でも働かない自分が、兄が頑張って働いた金を使うなんて、そんなの許されないのに。


 兄と同居を始めたばかりで雇ってもらえない子供の頃の、そんな懐かしい感覚を思い出して、苦く笑う。

 半月分バイト代が入らないけど、貯金を崩せば生活費は今まで通りに出せる。大丈夫、あの頃とは違う。でも家事出来ないのは、やっぱり心苦しい。そこだけはあの頃に倣って、ささやかでも光熱費は抑えよう。兄はいい顔をしなかったけれど、暗い部屋の中で植物のように静かにしているのは、少し気が楽になる。


 冬は日が暮れるのがあっという間だ。

 出来る限り電気を使いたくなかった菫にとって、夏も冬も敵だった。夏は水風呂に浸かって、そのあと洗濯水として再利用出来れば良かったけれど、冬はそうもいかない。冷たい水や乾燥した空気で何度も指はひび割れたし、髪を自然乾燥させては風邪も引いた。

 そう考えると、やや冬のほうが苦手なのかもしれない。

 街灯の光を少しでも取り入れようとカーテンを開けて、冷たい窓越しに外を眺めながら益体もない事を考える。冬は感傷的にさせる。昨夜に怪物になった父を葬ったのだから、当然と言えば当然だ。せめて雪でもちらついていれば、心が少し浮かれたかもしれないが、月と星が良く見える夜空だった。


 昨夜の出来事が頭に蘇った時、そういえば、とふと思い出す。

 鬼の口から出てきた耳馴染みのない単語の一つ――『救世の斧正器キュウセイノフセイキ』。あまりにも聞こうとしていた事が多すぎて、それについて聞きそびれていた。

 だけど、菫が忘れていたとしても、取りこぼしを昴生が気付かなかった、とは考えにくい。わざわざ質問するほどの事ではないと判断したのだろうか?


 机の前に座り、適当な紙に文字を書いていく。『急性』『旧制』『救世』……どれが適切だろうか。急性は、後に続くフセイキに合わせる単語ではなさそうだ。旧制……古い制度を意味するものだろうか。救世……世を救うための何か、という意味として一番合いそうだ。丸で囲っておく。

 フセイキに関しては不正という単語しか思い浮かばず、スマートフォンを頼ろうかと少し悩んで、電池の消耗を遅らせる事を優先させた。キの部分は機械の機だろうか。それとも分度器などの器だろうか。確か物の数え方の一つに一基というものがあったけど、その可能性もあるだろうか。

 正解に辿り着けるのかわからない謎のパズルは、持て余した時間を消費するにはちょうど良かった。紙とペンだけで済むし、明かりも窓から差し込む街灯りで充分だ。余計な感傷も、忘れられた。


 ふと、机上に影がかかる。


 近くの電灯の一つが切れたのか、はたまた月が雲に覆われてしまったのか、どちらにしても菫の集中が切れてしまって、意識を窓の外に向けた。

 窓の外、普段洗濯物を干すために出るベランダに、人がいた。


「へ……?」


 カーテンを全開にしていたため、ベランダの侵入者の姿がはっきりと見えた。片手に何かを持った継片昴生が立っていた。

 真っ暗な室内で上着を羽織ったまま机に向かっている菫を見て、かなり怪訝な顔をしている。


 いや、ここ、三階なんだけど……。何でベランダにいるんだ、魔術か? 魔術でどうにか出来るものなのか? 用事があるなら玄関から来たらいいのに、本当に何故ベランダにいるのか。

 突然の事に数秒見つめ合ってしまったが、彼の口から白い息が吐かれたのが見えて、片方の松葉杖で窓際まで寄っていき窓を開けた。


「ええと……色々と聞きたいんだけど、とりあえず寒いし、入る?」


「いや、ここでいい」


「そ、そっか……。じゃあ、ええと、ご用件は……?」


 元々暖房をつけてなかったが、外気が入り込んで室内がさらに冷えていく。彼の目的は何かわからないが、長話にならないだろう。ちょっとした換気だと思えばいいかと肩を竦めた。

 用事は何かと問えば、彼が片手に持っていた物を差し出された。知らない会社名が印字された大きな封筒だった。


「中を見てくれ」


「これ、何?」


「ここに、君と夕昂さんのDNA鑑定の結果が入っている」


 受け取ろうと持ち上げた手が、硬直した。

 昴生の言葉の衝撃に菫は頭が真っ白になる。松葉杖のグリップを握る指先が冷たくなっていくが、足がうまく動かなくて、後ろにも逃げられない。


 何故、彼がそんなものを持っているのかわからない。

 ただわかるのは、菫が今まで目を逸らし逃げ続けていた『一番恐ろしいもの』が、薄い封筒の中身という形で目の前に現れてしまった。その事実だけだった。

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