回転焼、大判焼、今川焼
鬼と目があった瞬間、体は恐ろしさで硬直した。
だが、頭の中に恐怖はそれほどなく、少しだけ冷静でいた。
顔は厳しく、肌の色も皮膚の表面も人間のものとはないのに、真っ直ぐ見下ろす黒い双眸からは敵意を感じられない。
「み、えてたら、まずいでしょうか」
「何もまずくはないが、生者と目が合うのは久しいな。昔は俺らを見る者はそこそこいたが、近代では稀だ。死にかけならよくあることだが……ん? お前寿命のわりに随分深く穢されてるな? だからか? んん?」
思わず問いかけに答えると、鬼は何でもない様子で話を繋いだ。
先程まで悪意と殺意に満ちて会話すら成立しなかった綿毛茸と対面して麻痺しているのか、見た目が恐ろしいだけで対話出来ている鬼が、かなりまともに見えてしまう。
ナイフのような鋭い爪がついた無骨な指が顎を触り興味深そうに顔を寄せてくる仕草もなんだか人間的で見た目以上の威圧感はなく、菫は凝視される居心地の悪さを覚えるだけだった。
「へえ、ほーん、珍しい。『窓の目』か」
「え……?」
「チリョクもねぇし、寿命も関係ねぇし、穢れもそこまで深刻じゃねぇ。なのに俺が見えてるのは、お前の窓の目が妙な形に変形してるせいだな。生きるのに支障はなさそうだが、苦を背負いそうな障害だな」
「えっ、ま、まって、待って!?」
急に耳馴染みのない言葉を含めてつらつらと説明するように出され、菫は慌てふためく。
「わたしの目、窓の目って言うんですか?」
「ああ? あー、確かに他にも名前はあった気がするが、馴染みのない呼び方だったか? まぁあれだ、地方によって回転焼か大判焼か今川焼みたいなもんだ」
「わたしの目、地方によって呼び方が変わるくらいバリエーションあるんですか!?」
「地方は例え話だ、例え話。獄卒に馴染みのある呼び方は窓の目だが、人間には別の馴染みのある呼び方が……、…………」
鬼の言葉がそこで途切れた。
「いや、多分無ぇな。人間は在るとわかってから名前つけるんだった。あ〜、窓の目自体知らねぇって事か」
「そうです、そうです。なので、是非詳しく教えていただきたく、」
「悪いが仕事中だ。他の鬼に当たれ」
「他の鬼にあてなんてありませんよ!?」
鬼は菫の目の観察を終えてもう興味がないらしく、屈み込んでいた体を起こして歩き出した。
鬼の向かう方向には昴生がいて、菫は緊張に細く息を呑む。
昴生は音を立てず立ち上がり、鬼の動向を静観していた。
援護しようにも距離が遠く、逆に鬼と菫達は至近距離。一撃目を防御したとしても、気を失っているアルカを抱えた菫の行動は確実に鈍い。
さらに、鬼の方が全く戦意がなかった事で、下手に手を出して逆上されるのも避けるため不意打ちの機会すら失った。
鬼はこちらに興味は薄く、本人曰く仕事中だと言う。ならば関わろうとせず、鬼が去るのを待てば、この奇妙な緊迫感から解放される。
しかし、『窓の目』。
魔術師の知識にはない、織部菫の奇妙な体質。それを一目見ただけで見破った鬼の知識は、今後の対策のためにも引き出しておきたい。
昴生は歩み寄ってくる鬼を警戒するが、鬼は人間など見向きもせず、昴生の前に落ちていた綿毛茸の残滓に近付き、おもむろに引きずり上げた。
「うーわ、グズグズになってら。どうすんだこれ」
「……鬼は、魂を直接掴めるのか」
「あ? そりゃそうだ。俺らはそのために、……うわ、お前のほうも随分と穢れが、」
再び問いを投げられた鬼は面倒そうに昴生を見て、げんなりと顔を歪めた後……みるみると表情が抜け落ちていく。
黒い眼光が、継片昴生を捕捉する。
「いや、ちげぇな」
剣呑な声音に昴生は咄嗟に盾を出現させるが、鬼はそんな事に動じる様子はなく盾ごと昴生を蹴り飛ばした。
「え…………っ」
菫の目には、鬼が何かを拾い上げて昴生と会話が始まった直後、急に足蹴されたように見えて、混乱していた。
鬼が激昂するような言葉を投げかけていない。質問をしただけで攻撃されるなら、先に菫が蹴られていたはずだ。なのにどうして。
盾で直撃を防ぎ後ろに飛び退いた昴生は、衝撃を受けた腹部を抑えて重く咳き込む。
「あの女の穢れはこのグズグズに向けられた怨嗟だ。お前は違う。べったりとこびり付いた死の穢れ……お前、地獄に潜ったな?」
「ゴホッ、な、んの事だ……」
「惚けるな。地獄荒らしのチリョク使い、継片一族。お前達のせいで、こちとら随分迷惑を被ったんだ。心当たりがねぇとは言わせねぇ」
「……確かに、僕の姓は継片で、かつて問題を起こした縁者がいると言われれば、否定はし切れない。だが、僕個人に心当たりはない。地獄荒らしとは、一体何の話だ?」
「……あン?」
断定的な鬼の言葉を、昴生は冷静に否定する。一触即発の張り詰めた空気の中、鬼は目を眇めて不可解そうに首を捻った。
「嘘はついてなさそうだな」
「……鬼の目は、そこまで見通すのか」
「チリョク使いにしては随分と質の悪い問いかけだな。人間の目は七色を識別するのか、と問うようなものだぞ」
「人間の色識別数は万を超えているが」
「そんな話をしていたつもりはないんだがなぁ。人間は妙に最大数を好む、面白みがない」
昴生は事実として訂正したつもりだったが、鬼は冗談のわからない奴とばかりに嘆息し、肩を竦ませる。
その空気は張り詰めたままで、和やかさなど一切ない。
どうしよう。菫は鬼に悟られないようにそっとアルカを揺さぶってみるが、起きる様子はない。そもそも起きたとしても、彼女にどれほど余力があり、鬼と対抗出来るのか菫には計り知れない。無理はさせたくない。
どうしよう。頭の中でぐるぐると思考を巡らせる。魔力はなくても余力があるのは菫だ。何か、自分に使える武器はないだろうか。囮は無理だ、水風船で威嚇、レインコートを投げ付けて目眩し……。
「ま、嘘はついてないが、お前は実際穢れに侵食されている継片の人間なのは確かだ。ちょうどいい、このグズグズのついでにお前も持ち帰った方が、後々のためになる。どうせ短い命だ、今ここで死んでも誤差だ」
「まッ……! まって、待って!」
アルカの体を遊具に預ける形で離し、ほぼ反射的に菫は両手を前に出し鬼に歩み寄る。
鬼の話はほとんど詳細が掴めないが、昴生の親族が地獄を騒がせた疑惑があり、心当たりのない昴生も関与している。鬼から見て指名手配犯を見つけたので逮捕したい、と言ったところだろう。
――いや、気になる事が多すぎる!
急にどうして鬼が出てきた! 鬼が出てきた扉の向こうは地獄に繋がってるって事? チリョク使いとは魔術師の事でいいのか? 地獄荒らしって本当に何!? グズグズって何の事!? 短い命ってどういう事ー!?
疑問の嵐で荒れ狂う内心をそれどころではないと押し鎮め、菫は友好的に笑顔を浮かべる。
武器と呼ぶのは烏滸がましいが、菫が出来るのは対話、――交渉くらいだ。いや、交渉するなら互いの条件の妥協案を出すものだが、命が天秤にかけられている今の場合、ほぼ懇願だ。
何でもいい、やる事は同じだ。回転焼か大判焼か今川焼みたいなものだ。
「話を聞いてください、鬼さん」
鬼の尖った耳が、僅かにぴくりと揺れる。
妙な反応に初手でしくじったかと菫は背中に汗が伝う感覚を雨だと思い込む。いつの間にか雨は傘がいらないくらいの小雨になっているが、雨ったら雨だ。
「……おう。何だ、人間の小娘」
「鬼さんの事情を詳しく知りませんが、彼はわたしの友達なんです。物のついでみたいに殺すとか、聞き流せません」
「悪いが、冥府の事情を生者に語るわけにはいかねぇ」
「こちらとしても事情があるからと聞き流せませんけど……あの、結構ぽろぽろと気になる話を聞いてしまってますが、わたしもまとめて地獄行きだから構わない、とか?」
「はあ? お前らに語ったのは窓の目と俺の目だろう、冥府のどこと関係がある。臆病すぎやしないか?」
「わたしはその、チリョク使いとかじゃない一般人なので、そのあたりの違いなんてわかりませんし、ちょっと臆病すぎるくらいじゃないと生き残れないんです」
「怯えてるわりに一歩も退かねぇ奴が何言ってんだ。俺の事を言いくるめられると思ってるのか?」
「どうでしょう。でも、鬼さんはわたしの話を聞いて、きちんと答えてくださってるので、話を聞く価値もない弱者だと見下してはいないように見えます。わたしの言葉が『もっともらしい』と納得してもらえたら、振り上げた拳も下ろしてもらえるとは考えています」
嘘ではない。元人間の綿毛茸より鬼のほうが話が通じる。情に訴えて通じるとは思えなかったが、鬼は止められた事に苛立つ様子も結論を急かす様子もない、平静と菫の話に耳を傾けている。何か琴線に触れたのだろうか。
だが、言いくるめられるとは思えない。それでも昴生が鬼との距離を離すための時間稼ぎにはなる。
「へぇ……」と零した鬼は生返事だ。考えを読み取れない。
「わたし達は争うつもりはありません。仕事中の鬼さんのお邪魔をするつもりはないんです。でも彼に手を出すならさすが、にッ!?」
「おお。お前の話を正面から聞かないほうがよさそうなのは、よーくわかった」
適度な距離を取っていたつもりだったが、たった二歩で接近されて首根っこを掴まれた。まるで猫の子のように軽々と持ち上げられて両足が地面から浮く。
「生きてる窓の目を殺すつもりはねぇ。あっち行ってろ」
「ひゃ……っ!!」
「あ」
ボールのパスのような気軽さで、菫の体は宙に放り投げられた。
頭が空に向いているのか、地面に向かっているのかわからない。考えるより先に両腕で頭を反射的に庇い、全身で地面にぶつかって転がった。
勢いが止まり、俯せの状態から体を起こす。右側から落ちたのか、肩と二の腕に、足がじんと痺れるような痛みと共に、投げられた直後に鬼がやらかしたとばかりの声を漏らした事がようやく頭の中で処理される。いや「あ」とは何だ、「あ」とは。
「いっ、たたた……」
「あー、悪い。普通に間違えた」
「何をどう間違えたら人間を投げちゃうんですか!?」
「いや、尤もだ。悪かった。慣れってのは恐ろしいな、まったく」
鬼が放り投げた理由を菫は理解出来なかったが、反省している様子を見て思う。
この謝罪を使って、鬼に帰ってもらう事で手打ちに出来ないだろうか。
鬼も悪意ではなく、うっかりミスをしてしまったといった雰囲気だ。悪くない手ではないだろうか。罪悪感に訴えるのは、果たして鬼相手にも効果があるのだろうか。
ぐるぐると菫が思考している間、鬼が一歩歩み寄る。
加害者として怪我人の様子を確かめるために近付く、相応の行動を妨害する横槍……否、盾が出現し、鬼の顎を下から突き上げた。
「あぁ?」
「…………」
直撃の瞬間を正面から見ていた菫はぎょっと目を見開くが、鬼は痛みなどなさそうな様子で僅かに収まっていた剣呑さが表情に戻り、背後を睨む。
鬼の視線の先の昴生は片手を前に出したまま、何も語らない。しかし、僅かに開いた口は絶え間なく動いている。
凍てつく風が足元を流れる。
鬼の足元から地面が凍りつき、膝下が氷で覆われていく。足が氷漬けされても鬼は些末だとばかりに蹴り壊す。
「この程度の氷なんて八寒の入り口にもならねぇぞ」
「…………なぜ、」
昴生は鬼を見ていない。
鬼の手によって飛ばされた菫に、過去の幻視を重ねている。
「どうして、……、それでも、進まなければ、……、」
「あ? 何の話だ、頭が逝っちまったか?」
独白とも言えない独り言の合間に、呪文を紡ぐ。
砂を纏った風が吹き荒び、風に乗った盾が鬼に向けて飛んでいくが、虫でも払うように手で弾き飛ばし、ぶつかる直前に掴み取る。
ふっと鬼の手から盾が消えると、何かに気付いたように嘆息した。
「おいおい、救世の
「……、まだ、」
昴生の右手が炎に包まれ、その炎が鬼に向けて放たれる。
首筋に触れて火を纏っても鬼は涼し気に埃を落とすように手で鎮火させた。炎を放った昴生の手のひらが赤く焼け爛れた一方で、鬼は火傷一つ負っていない。
「あのなぁ、俺は獄卒なんだよ。アホみてぇに熱い地獄と、バカみてぇに寒い地獄でお仕事してんの。次は雷撃か? 斬撃か? お前らの辛苦となる、あらゆる事象に耐性があるってわざわざ説明しねぇと、無駄だって理解出来ねぇのか?」
「生きている、間に合う、まに、……、……? 何、が……」
何が、起きているのだろう。
菫の目には、突如昴生が鬼に向けて一方的に攻撃を仕掛けているようにしか見えない。彼は何かを喋っているが、声が小さすぎて、それが言葉なのか呪文なのかも聞き分けすら出来ない。鬼と会話している様子もない。
どういう状況なのかはわからなくても、悪化しているのだけは肌で伝わってくる。
昴生の様子は目に見えて異常で、しかし攻撃は鬼に通用していない。鬼との力量差は目に見えて明らかだ。
だけど、どうしたら? どうすればこの状況を変えられる?
争うつもりはないと穏便に済ますのはもう無理だ。アルカをもう一度起こせないか試すか? 昴生を止める?
「まッ……!」
鬼に言っているのか、昴生に言っているのか。どちらに向けたのかわからないまま、止めようと立ち上がるより先に手が滑り、再び地面に倒れ伏す。雨に濡れて夜風に冷やされた地面にぶつけた顔が冷たくて、痛い。
もう、考える事が多すぎて、頭が焼き切れてしまいそうだ。
「だ、れか、」
意味のない懇願だった。
疲れ切って、何も考えられなくて、一人ではどうにも出来ないと吐き出した絶望だった。
どこにも届かない、願いだった。
――――チリ、と鈴の音が応える。
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