囮、攻撃、防御-2

「でも、菫を囮にするってどうなの?」


 再び時を戻し、織部宅の作戦会議の最中の話。

 アルカの目になる。菫がそう告げて始まった作戦会議だが、話し合った結果、菫の役割は綿毛茸から逃げ回る事となった。


「囮にするのではなく、囮として動けるのを利用するんだ。現状、綿毛茸が片岡と僕を狙う理由はない。おそらく何度か攻撃を与えても狙うのは織部だけだ」


「そ、そうなの?」


「霊は無関心と執着が極端な傾向がある。その場に居合わせただけの織部の自宅を特定し、下処理とやらの手間をかけるほどの殺意を持つのは、執着としか言いようがない」


 霊としての特性が混ざった結果、殺意が嵩増しされているのか。なるほど、と菫は納得しつつ、嫌な気分が増した。

 アルカの「うーわ……嫌過ぎる通り魔だ」とげんなりしたぼやきがその通り過ぎて頷く。


「その下処理についてだが……」


「えっ、何か心当たりあるの?」


「本来、生物の魂は体の中に収まっているが、今の織部はずれて見える。ヒビの入った瓶から水が漏れ出しているように考えてくれ」


 不穏な例え話に背筋が冷たくなり、思わず自分の体を撫で付ける。ガラスのヒビのような怪我などはなく、内側から命が漏れている感覚など話を聞いても実感がない。


「端的に言えば、今の織部は穢れに侵食されて死者に寄っている状態だ」


 その瞬間、アルカは菫の胸に手を当てる。あまりにも素早過ぎる行動のため、その勢いはほぼ張り手。

 衝撃を受け止めて「ゴフッ」と軽く咳き込む菫に構わず、厚手の冬服では確認出来ないと裾から手を侵入させようとして「脈、脈は手首からでも測れるから……!」と咽せながら止められ、アルカは菫の手首をしっかりと握った。

 脈は少し早いが、きちんと確認出来た。


「アホなこと言うな。菫はちゃんと生きてる」


「当たり前だろう。死者に寄っているとは言ったが、既に死んでいるとは言ってない」


 片岡アルカの唐突な行動は、死者に寄っている=死にかけ、死んでいる=脈拍の確認という連想によるものだったらしい。

 よく即座に理解出来たものだと昴生は感心しつつ、菫の呼吸が落ち着くまで待ってから話を再開する。


「綿毛茸の本質は悪霊だ。障れば穢れる。穢れは死に至る因果だ。死者が生者に直接手にかける事は不可能だと思えたが、生者が生者に危害を加えられるように、死者同士もまた同様である可能性がある。穢れを対象に擦り込む事で死者に近付ける……それが、悪霊が人を呪い殺す方法なのだろう」


 闇夜に同化し、痕跡も残さず、何も見えない。殺意を感じ取れたとしても、証拠も確信も持てず、時間を持て余している間に強烈な悪意によって殺される。

 体験した菫は昨晩の重みを思い出し寒気が込み上げてくるが、アルカにはとんでもなくすごく危ない事であると想像出来ても、リアリティを体感出来なかった。何せアルカの周囲に死者の呪いを恐れる者はいなかったのだ。


「それ、本当なの? 本当だったらたくさん人が死んじゃうじゃん」


「……。穢れは永続的なものではない。厄を祓う術は数多あり、風習や習慣として脈々と受け継がれて、僕達の日常の一部として存在している。君達が塩を渡したのもその一つだろう」


「あー、そういえば」


「うん。渡したね」


「いたちごっこのようなものだが、都度対処しながら活力で霊との根比べに勝てば良い。それに、穢れが引き寄せる死とは病として現れるものだ。食糧が安定供給されて医療が発達した現在、多くの病気は身体の抵抗力で未然に防がれるし、治療法も確立している」


「幽霊の祟り、神聖な力とかじゃなくて、農業とか医学の力の発展で乗り越えちゃったんだ……」


 科学によって超常現象が解体されるのとはまた違った話に、残念なような一次産業が素晴らしいような、複雑な気持ちで菫の声色はやや落ちた。


「穢れだけであれば対処は可能だ。解決策はいくらでもある上、緊急性もない。だがそれは悪霊の話で、動く体を手に入れた『結合』、綿毛茸は例外だ。あれは直接殺しに来る。抱える殺意は同じでも、凶器が弱い毒物と刃物では対処も危険性も変わる」


 猛毒でなければ解毒の猶予がある。耐性のある毒物なら体力さえあれば自力で排出する事も出来るだろう。

 だが、刃物で喉を裂かれたり心臓を刺されれば、それだけで死に至る。そして綿毛茸の凶器は、最低でも人間の上半身を粉砕出来る威力を持っている。現代医学を持ってしても蘇生は不可能だ。


 そこまで理解したところで、菫は安堵の息をこぼす。


「……そっか。穢れに触ってない、下処理されてないアルカと昴生くんは狙う理由もないし、狙われても下処理の時間分は安全って事だね。良かった」


「そこ!? 全然良くないでしよ!? 菫だけずーっと狙われる事のどこが良かったなの!!」


「あ、いやほら、ターゲット集中してたほうが敵の動きが読みやすいし……」


「ゲームの話とは違うの!」


「ただの考え方の話で、えっと、はい、ごめんなさい……」


 憤慨するアルカに菫は謝るしか出来ず、しおらしく項垂れた。


 けれど、織部菫の優先順位は変わらない。

 攻守それぞれ担う二人のどちらかの負傷は戦況に影響は出るだろうが、囮はそうでもない。何なら殺した直後に有頂天になって倒す隙が多くなりそうだ。

 ……この二人が、その隙を有効利用してくれるかどうかわからないけれど、きっとうまくやってくれるだろう。


「……なんか、ごちゃごちゃ色んな話聞いて、ちょっと思っちゃったんだけどさ」


「どうかした?」


「幽霊に矛って、効く? 急にすかったりしない?」


「え、でも、わたしに直接触ったりしてたから、当たるんじゃない、かな……?」


 そう聞かれると急に不安を覚える。

 全く問題ないと断言していた昴生に、そこのとこどうなのかと二人で視線を送ると、何故そこに疑問を抱くのかと不可解そうに彼は目を眇めた。


「今回に至っては、片岡の矛ほど綿毛茸を倒すのに有効な武器はない」


「そ、そこまで?」


「その矛が在る理由を知っていれば、考えるまでもないだろう」


 在る理由。

 菫は首を傾げるが、実際に手にしているアルカには理解出来たのか、表情から不安が消えて、頷いた。






「ぎぃ、」「うわぁああぁあ」「やめてよ、やめてくれよぉ」「ふざけんなふざけんなふざけんなふざけんなふざけんな」「語彙力の著しい急降下はうける」「死に怯えるのは、生きている証と言える。素晴らしいではないか!」「気持ち悪い! 気持ち悪い!」


 懇願と癇癪のノイズが響き渡る。

 綿毛茸は何度も追撃を受けながらも、敵であるアルカに見向きもせず、崩れた体を掻き集めて続ける。


「う、っお、ととと……えっ、何、うるさっ、これ、声……?」


 突き刺した矛を手放し、綿毛茸から少し離れた位置に着地したアルカは耳障りな大きな雑音に思わず耳を抑えて顔を顰めた。

 どこか抑揚を感じ取れるノイズは、まるで喧騒の中にいるような……。


「アルカ、滑り台まで! 暴れてるから離れて!」


「ぁっ、おっけ!」


 不気味な音に耳を傾けるのを止めて、菫に指示された滑り台に視線を向けるが、その場に踏み止まる。


「おまけにもう一発あげるね!」


 綿毛茸に刺さっているらしい空中で宙ぶらりんになっているように見える矛に向かって、もう一本の矛を投擲すると、ガシャンと音を立ててから矛が二本落ちていく。

 また騒音が大きくなったので、多分当たっただろうと満足してアルカは滑り台まで駆け出した。


「……うわぁ」


 追撃を見た菫は思わず感心した声が漏れた。

 アルカは見えていないので、矛が目印として残っているからもう一発いけるだろうと軽い気持ちで投げたのだろう。ごっそりと抉り取られたように削れたのが見える。空気の抜けたボールのような凹み具合だ。


「あああ、ああああ」「ゆるさないゆるさない、すぅちゃんはゆるさない」「怖いよ」「どうしてこんな事をするんだ」


「……ごめんね、お父さん」


 もしも、一年前の今だったなら、父のために死ねただろう。生きているだけで迷惑をかける存在だったから。高校に進学する道ごと人生を断ち切って、兄から離れる道を選んだ。

 兄は絶対に悲しむ。だけど、時間と自由が兄の心を癒し、心のどこかでほっとする一時が生まれる、そう考えて身を捨てただろう。


 だけど、知ってしまった。

 兄に言われたからという理由だけの高校が、楽しかった。アルバイト先の先輩である大人は皆、優しかった。世界は思ったよりも、菫を傷つけなかった。

 自分で稼いだお金で、お菓子を買った、外食をした、浴衣を買った。スマートフォンの料金も自分で払うようになって、初めてゲームをダウンロードした。普通の子供が出来る当たり前のような贅沢を満たされた気持ちは、言葉に余る。

 悲しませたくない友人が出来た。自分が死んだら、悲しんでくれる友人が出来てしまった。身の丈に合わないとわかっていても、嬉しくて仕方なかった。


 生きる事が楽しくなった。

 もう少しだけ、生きてみたいと思った。

 だからごめんね、と雨音に消えるように、小さく謝罪する。


「わたし、今はまだ生きていたいから!」


 水風船を投げつけるが気合を入れた一投は変な方向に飛んで行った。うええかっこ悪い!

 手元に使える水風船が全部なくなると、ビニール袋をレインコートのポケットに突っ込みながら逃げ出す。迫りくる綿毛茸を近付かせない盾が次々と出現するので、頼もしさと自分の頼りなさのギャップに情けなくなる。


「一の水風船回収! 昴生くんありがとうー!」


「こちらも五の水風船を回収! 東入り口、ブランコ間は移動不可! 西入り口から中央まで補充完了した!」


 補充用の水風船には配置場所ごとに番号を付けた。東と西の真向かいにある二つの出入り口を標準に各方位に一つずつ、菫は一に割り振った東入り口の、昴生は五に割り振った西入り口に置いた水風船を回収した。

 そうして菫が逃げ回っている間、昴生は一度発動して無くなった盾の壁をもう一度作れるように魔力を込めた小石をばらまき直し、綿毛茸の横をすり抜けて東側から西側まで逃げるルートを作っていた。


 囮となった菫が綿毛茸の注意を引きつつ、水風船で目印を付ける。

 そこをアルカが攻撃する。

 盾を再度出現させるために昴生が菫の後を追うように移動しつつ魔力を補充し、ついでに弱点となる位置を探り水風船を投げ、綿毛茸と菫が接近しないよう盾の出現のタイミングを計るため状況をまとめる。


 ……並べてみると、明らかに一人オーバーワークがいるが、彼の役目を彼以外が担えないため、こういう割り振りとなった。

 まとめると、綿毛茸を中心に囮と防御がぐるぐると回り、目印を攻撃する。命懸けだというのに、まるで子供の遊びのような戦い方だ。


「アルカ! 見える!?」


「見えた!」


 水風船をぶつけ、突き刺す。アルカの蹴りを含めれば合計六度目の攻撃。

 昴生が作戦会議中に想定した瓦解までに必要な十回程度の回数の半分を越えた。綿毛茸の大きさも、最初の出現時より一回り以上小さく、あちこち削り壊されて形の歪さが増した。三人ともそれぞれ息があがりながらも、全員無傷のままだ。

 綿毛茸は全体をボロボロに崩されながらも、標的の菫だけを執拗に追い続けている。このままなら、と少しだけ希望が見え始めたため、菫は気を引き締める。


「うぅぅ、」「ひどい、我らはただ、正しく生きて許されたかった」「愛して愛して、」「受け入れろ」「おお、これはひどい。なあ我らよ」


「はぁ、はぁ……っ昴生くん! 核ってまだ見えなさそう!?」


「まだだ!」


「急がば回れ、と知っているだろう」「なんだ急に」「いやだいやだ」「メインディッシュの前に前菜があるように、今の我らも品位を問われているのだよ」「は?」「またなんか言い出した」


「…………う、ごかない?」


 相変わらず欠けた部分を掻き集める綿毛茸の異変に、菫は嫌な違和感を覚える。


「ほら、よく見て。彼女よりも食べ頃なのがもう一人」「ほんとだ」


 その時、初めて綿毛茸が菫から標的を外した。

 一体何故、と疑問が浮かぶより早く、綿毛茸はその体を伸ばす。その先にいたのは、昴生だった。


「な、――」


「逃げて!!」


 菫の悲鳴のような声に、昴生は咄嗟に魔力を込めるため握りこんでいた砂を綿毛茸に向けて投げる。

 視界を遮るように盾が出現するが、綿毛茸は構う事なく防御の薄い隙間を狙って突進し、盾越しに昴生の体を突き飛ばした。


「がッ、ぁ……!」


 強い衝突に耐え切れず吹っ飛ばされた昴生の姿に、菫もアルカも驚愕する。

 一番狙われるのは菫、時点で攻撃をしているアルカ。二人の対角であり綿毛茸の視界の端を移動する昴生は、相手がよほど知能的でなければ狙わない。そしてアルカと昴生に至っては、綿毛茸の言う下処理がされていないため、さらに可能性は低くなる。それが三人の共有した認識だった。


 アルカはまだ声をはっきり聞き取れていないため、この時点で標的を昴生に変えた理由を理解できていないが、菫は違った。

 昴生の妨害によって食事にありつけないから、昴生を動けなくする。これは知能的な行動だ。だが、綿毛茸は違う。彼女よりも食べ頃なのがもう一人、と言ったのだ。


 なんで、なんで、どうして?

 理由はわからない。それでも混乱する頭の中で、前提が違っていたと気付く。

 下処理をされていたのは、織部菫だけではなかった。

 何らかの理由で、。誰にも気付かれず、昴生自身も勘定に入れられなかったそれが、たった今判明してしまった。


 この状況は非常にまずい。昴生の作る盾は彼の魔力に依存する。有限のため、割り振っていたのは地面に施す分と、緊急用として菫とアルカに持たされた石しかない。この中で一番、彼が手薄だ。そして今、昴生がいる位置は一度菫が逃げているため、地面から盾も出せない。

 菫は考えるのをやめて水風船を投げた。水色の跡が綿毛茸の根元付近にかかる。


「アルカ! 思いっきりやって!」


「っ、わかった!」


 とにかく、綿毛茸のターゲットを昴生から離さなければならない。危険だが、綿毛茸に近付いて父に呼びかければ菫に意識を戻すことは出来るはずだ。

『霊は無関心と執着が極端な傾向がある』――ふと、昴生の言葉が蘇る。

 もし、執着の対象が既に昴生に移っていた場合。その可能性も頭の隅で考えながら、菫は綿毛茸に向かって走り出した。


「ちょっ、菫!?」


「大丈夫! アルカはそのまま、思いっきりお願い!」


 目印の横を通り過ぎようとしている菫に、アルカは驚いて矛を投げようとしていた手を止めてしまう。しかし返ってきた言葉を信じて、アルカは改めて矛を振りかぶる。

 矛が命中し、苦しみ悶え出す様子を見上げながら菫は綿毛茸に接近する。


 ああ、どうか、どうか自分の声が、雨と絶叫に掻き消されて二人にの耳に届きませんように。そう願いながら、喉を引き絞り、声を張る。


「こっちに来て! っ、お父さん……!」


 それは測らずとも、幼い頃この公園で淡い期待を持ちながら何度も、何度もかけた言葉だった。

 そして、いつだってその期待は、踏みにじられた。


「すぅちゃん」「こっちでもいいな」「どっちでもいいよ」


 ぐるり、と綿毛茸の口が向けられる。

 この足元は魔力が補充されていない、守ってくれる盾は出現しない。菫は一歩だけ後退して、縦に裂けた大口の動きを注視する。

 ポケットの中に潜ませていた緊急用の小石を手の中に移し、今度は横に一歩分、足を開いて軽く膝を曲げる。逃げようとする菫の姿勢に対し、綿毛茸の反応は明らかに鈍い。


 ……これは、駄目だ。囮にすらなれてない。


 命の危機とは違う薄ら寒さに、菫は歯を食いしばる。どうにかしなければ。ちらりと昴生に視線を向けると、地面に転がされていた彼は立ち上がっている。

 十秒、いや五秒でも稼げれば、彼ならこの状況を立て直してくれるだろう。そのためにどうにか、どうにか、


「え、」


 菫が見たのは、昴生がこちらに向けて砂を投げる光景。

 ざぁっと血の気が引く。違う、確かに今は菫のほうが綿毛茸に近く、口も向けられている。でも違う、この盾になる砂が必要なのは菫の周辺ではない!


 空中を散らばる砂が、地面に落ちるより先に菫は駆け出した。


 もっと考える時間があれば、もう少し頭の回転が早ければ、手の中の石を昴生に投げ渡して頭の中を整理して、危険である事を素早く伝えたり出来たかもしれない。いくらでも賢い方法が、きっとあったと思う。

 でも残念なことに、体が動くほうが早かった。


 大丈夫。織部菫は継片昴生の代わりにはなれないけれど、継片昴生は織部菫がいなくてもうまいことやってくれる。


 それは、三秒にも満たない。

 菫が走り出した直後に綿毛茸も動き出す。菫の方が足は遅いが、スタートダッシュで距離は稼いだ。濡れた地面で滑った勢いを殺さず、火事場の馬鹿力で走力に変えた。だから、まっすぐ伸ばした手が、先に昴生に届く。

 握り込んでいた緊急用の盾となる石を彼の胸に押し付けながら、全力で突き飛ばした。


 あの夏祭りの夜と同じだ。何も出来ない、お荷物で役立たずだった。

 だけど、庇って盾になろうとする度胸は、養えたらしい。


「ッ〈フリッ――」


 術者の身を守る、基礎魔術の〈反発フリッカ〉。昴生の短い呪文が終わるよりも先に、縦に裂けた口が菫を背後から覆う。きっと菫に対してかけようとしたのだろうが、それは術者である昴生に効果はあっても菫にはない。もしあったとしても、間に合わない。

 彼の防衛手段が残っていた事に今更気付いて、なんだ、余計なお世話だったかもしれないな、と笑えた。


 綿毛茸の口の中は、鋭いものでひしめき合っていた。包丁、ハサミ、カッター、のこぎり、丸鋸、チェーンソー、アイスピック、一瞬で把握できないほど凶器の壁が、菫を挟みこもうと迫る。

 死を直感するには充分すぎる恐ろしい光景だった。


 殺意によって、視界が暗く暗く狭まっていく。

 それでも菫の胸には、誰にも語れなかった仄暗い喜びがある。

 織部菫は抱え込んだ秘密がある。墓まで隠し通したい思いがある。それが苦しくて、手放すために早く死んでしまったほうがいいなと何度も思った。誰にも迷惑をかけず、「仕方なかった」と少しだけ寂しがられるように、死にたかった。消えてしまいたかった。


 だけど――どうせ死ぬなら、何かの役に立って死にたい。

 夏祭りの夜、使い魔に狙われた彼女を追いかけた理由の根底は、きっとそれだった。織部菫は、自分のために、自分の命を投げ捨てた。それがたまたま、友達のために命をかけたようになってしまった。優しくも美しくもない、身勝手さしかない。


 その願いは叶った。

 けれど、思った以上に喜びはなかった。

 突き飛ばされて驚愕する昴生の表情は、初めて見るものだった。それがあまりにも悲痛で、罪悪感が湧いた。だけど、謝る時間は残されていない。


 ……そんな顔をさせるつもりはなかったんだよ。ごめんね。どうか生き残ってね。


 小さく息を吐いて、菫は目を閉じた。



――――――

ここで、二章のおまけで公開してた『分岐 食事』に繋がります。

菫は「昴生くんなら冷静に何とかしてくれるからヨシ!」と思っていますが、実際はあの有様なので全然そんなことはないのですよ。ははは。


本編はアルカのアイディアロール成功ルートです。

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