囮、攻撃、防御-1

 その男は食べる事が生き甲斐だった。

 そも、生きるとは食べる事だ。食べるために生きて、生きるために食べる。単純な生き方を男は好んだ。


 食事はいい。こんなにも簡単に満たされるものは他にない。誰もが必ず必要なものであるから、節度と礼儀を弁えれば万人に通ずるコミュニケーションにもなる。食べる事が好きな人間。わかりやすく生きる男は人に溶け込むのも容易であった。


 しかし、男も老いる。自然と食が細くなって時、気付いてしまった。生涯で口に出来る量は限られているという、当たり前な事を。

 制限を設けられると、人はそこに希少性を見出す。限りある中で更なる充足を求めて、男は美食の領域に踏み込む。世界が広がるような幸福感を男は知ってしまう。


 人間とは、慣れる。どれほど良い環境にいても、慣れてしまえば感動も薄れる。限られた回数を無駄にしてしまうと、男は酷い焦燥感に駆られた。

 いつしか男にとって、食べる事は幸福感を得るものと価値観がすり替わり、それに気付かぬまま、感動なき味を無意味なものと思い込むようになっていった。


 男の価値観は、男を孤独にした。

 食べても食べても、満たされない。どんな逸品を食べても、幸福を感じるのは最初の一口だけ。


 寂しい、寂しい。口が寂しい。



『ええ、寂しいのはよくないわ』






 時間は遡り、織部宅。


「……話をまとめる。片岡は矛を使用して綿毛茸の破壊に集中。手や足を出そうとしているようだが、止めておけ。どの程度頑丈なのか、織部の話だけでは推測しきれない。矛は作り直せば替えが利くが、君の体の負傷によっては共倒れの可能性もあると重々理解しておけ」


「わかった。殴っても大丈夫か確かめてから殴る」


 夏空をくり抜いたような鮮やかな青い瞳の決意は揺るがない。ガチのマジ敵意を越えて殺意である。

 一度身を賭して助けにきた友人の命の危機となれば、さもありなん。昴生は諦めて、視線をアルカの隣に座る菫に移す。


「……織部。片岡はこの調子だ。位置情報の指示役としてコントロールは任せる」


「うん。アルカに危ない事はさせないように気をつけるね!」


「……今回、綿毛茸の標的は?」


「え? あ、はい、わたしです……安全を心がけます」


 前のめりで意気込んでみせた菫はすぐに姿勢を戻して頭を垂らした。

 出力の仕方は違えど、どちらも溢れんばかりの戦意を露わに、やや暴走気味な二人の少女に昴生は溜息を吐く。


「それで、織部が提案した水風船だが……照準として役に立つものなのか?」


「え? そう、中に水を入れる前に少しだけ絵の具を入れるの。ぶつけたら防犯用のカラーボールみたいに出来るかなって……もしかして水風船使った事ない?」


「名前から想像は出来るが、触れる機会はなかった。そんな簡単に割れる代物なのか?」


「私も見た事はあるけど、実際に遊んだことないや」


「そ、そっか」


 綺麗な外見の二人には合わなそうなアクティブな子供の遊びに好んで混ざっていた菫は、少しだけ居心地の悪さに肩を縮めた。

 そんなことを気にも留めない昴生は、大きさや強度、重さなどの情報を次々と確認していく。


「水風船を持つのは織部と僕。機動力を落とさないため、一度に携帯する数は五つ。これを一組として、補給用に八組を園内に配置して適宜回収。回収した箇所は声をかけ合う。懸念点は?」


「わたしと昴生くんが最初に持っておく分を含めて全部で五十個……用意するのも大変そうだけど、足りるかな?」


「片岡の矛であれば、十回程度で瓦解は可能だろう。水風船に効果がない可能性も考えている」


「その時は何を刺したらいいの?」


「水風船と比較して使い勝手は悪いが、網と縄を用意している。あと、探る時間はかかるが核となる部分を見つかれば一撃で済む。その時は僕が直に掴んでおくから、手を目印に貫いてくれ」


「……わかった」


「ま、待って待ってアルカわからないで!? 昴生くんも自分の体を大事にして!?」


 ぎょっと目を見開く菫とは対照的に、鋭く目を細めたアルカは苦渋に満ちた表情で頷く。

 昴生は呆れたように首を横に振る。


「無血での決着を望むのは当然の思考だが、相手にとって今回は七度目の殺人、片手の怪我で収められるなら、上々だろう」


「……うん。私だって別に、また継片に怪我させたいわけじゃないし、直前に言われたら困ったかもしれないけど、そうしないといけない時はそうしろって話でしょ。だから、わかったよ……覚悟しとく」


「――……、」


 二人に何も話さず菫だけで挑めば、こんな覚悟を決める必要はなかっただろう。けれど、何も話さず菫が遺体として見つかった場合、残された二人が何も感じないとも思えない。

 何が正しいことなのか、菫にはわからない。感謝も謝罪も、間違っている気がして奥歯を噛み締めた。






「なに、なん」「なにがおこった、何が」「体が! 我らの体があああ!!」


「アルカ下がって! ブランコまで!」


「おっけ!」


「……片岡、足に負傷は?」


「ない!」


 雨音と異形の悲鳴が満ちる公園、手と足を出すなという注意を予想通り軽視された昴生は溜息を吐き出す代わりに、状況を口にする。


「水風船、矛、打撃有効。全体の五パーセント程度下方右損壊。本体は内側の泥、量は多くなさそうだが、液状……いや粘土状に変化。要警戒。表面のゴミらしき塊は鎧の役割だろう。魂は七つ、八割が溶解」


「えっ?」


 綿毛茸は崩れた体の一部をかき集めるように、崩れた箇所から黒い腕が忙しなく蠢いている。昨晩間近で見た時は悍ましい光景に見えたそれは、少し滑稽に見える程度には菫の心に余裕はあった。


 だがよく観察しようと目を凝らしても、七つの魂らしきものは見えない。

 溶解……言葉通り溶けて混じり合っているという事だろうか。人の形になる事も多い幽霊が?

 思わず隣を見る。昴生が綿毛茸から視線をずらしたほんの一瞬だけ目が合うも、菫の困惑に対し言葉はない。


「僕は速度を測る。織部、サポートはするが、距離を詰めるな」


「う、うん、わかった。アルカー! そいつの本体は内側の泥! 外側のゴミは鎧で、ええと、殴ってもダメージゼロ!」


「わかった! ……えっ、じゃあ今のダメージゼロだった!? 泥感なかったよ!?」


「ううう」「乱暴なガキ」「奪うな」「壊された、壊された、我らは全てを失い、なおも損なわれる運命なのか」「憐れむな」「なぁに、無くした分は補えばいいさ」


「っていうか、反撃とかこないの? さっきからモゾモゾした音は聞こえてるけど……」


「えっ? あ、あぁー、アルカが壊したとこ直そうとせかせかしてて、動きはないかな……」


 もしかしたら、アルカには綿毛茸の喋る声が、声として聞こえていないのかもしれない。しかしまぁ、説明もしづらく聞かない方が良さそうではある。

 見た状況だけをそのまま説明すれば、アルカは信じられない様子で「殺しに来たのそっちなのに被害者面腹立つ」と離れる前の位置を凝視する。殺意が強い。


「直せなかった直せなかった」「すぅちゃん悪いコ」「仲間を連れてくるなんて卑怯者」


 回収しきれなかった鎧のゴミは砂のように崩れ、公園の地面に混ざってしまう。壊し続ければ裸にする事は難しくなさそうだ。

 恨めしそうな意識を向けられたのを察知し、菫は後ろに走る体勢に入りながら警戒する。

 すると、


「――我は宣誓者の、誓いを繋ぐ者、意志に続く者。この身を薪に。燃やし続ける我らに、爪先の慈悲を」


 菫から離れるように歩き出す昴生が、静かに歌うように、重々しく乞うように言葉を紡ぐ。

 呪文らしいものは何度か彼の口から聞く機会はあったが、どれも耳馴染みがなく意味不明の単語の羅列だった。堅苦しい言い回しだが、初めて理解出来る詠唱に菫は少しだけ感動し、僅かな怖気を覚えた。

 何か、厳かな儀式の始まりのようだ。


「おいしそう」「早く殺そう、なんか怖いよ」「ああ、ああ、お前を殺してようやく我らは」


「っ……!!」


 綿毛茸はその場から動かなかった。しかし、ぐにゃりと揺らした体を伸ばし、縦の裂け目を開きながら巨大な笠を菫に接近させる。


 二回の接触で、菫は綿毛茸がどう移動するか確認は出来なかった。

 蛇のように這うのか、支柱となる柄の部位が足として跳んでくるのか、瞬間移動してくるのか。三人は相談し、あらゆる可能性を踏まえた上でそれぞれ対策を練った。

 瞬間移動じゃなくてよかった、と静かに安堵しつつ、迫る綿毛茸を尻目に菫は走り出す。


「動いた! アルカはそのまま、」


「ひわっ……!?」


 菫が指示を出す前にアルカは驚いたように体を跳ねさせた。


「ちょっ、ちょっと継片!? お前なんかした!? 空気が気持ち悪い!」


 雨に濡れた地面から、沸騰した湯面のように湯気が立ち昇る。

 けれど、それは菫の見知った煙のような湯気ではない。深夜の暗闇の中で浮かび上がる散乱した光、虹色に見えるプリズムの粒子が、継片昴生の元へ向かって水のように流れていく。


「そうか、誇るといい。感知能力の精度が上がっている証左だ」


 まだいくらか距離がある菫と綿毛茸の間を巨大な盾が立ち塞がった。出現する複数の盾に囲まれ綿毛茸の姿が見えなくなると、菫は走る足を止めて振り返る。

 体当たりで突破しようと揺れている様子を見て逃げる方角を変え、アルカのほうに向かった。


「は!? もう少し声張ってくんない!? 雨の音でいつもより聞こえにくい!」


「アルカがすごく頑張ってるって、言ってた、よ!」


「えっ、うわ、鳥肌立った。聞かなきゃよかっ、た! なぁっ! おりゃあ!」


 とんだ言い草である。

 盾の壁に奮闘している綿毛茸の根元に向かって水風船を投げながら手短に伝言すると、アルカは嫌悪感を露にしつつしっかりと矛を投擲する。苛立ちを発露するために投げられた三本目が青い目印に突き刺さり、外側を壊された事に綿毛茸は再び悲鳴を上げた。

 菫とアルカは擦れ違いざまに片手でハイタッチし、それぞれ別方向に離れる。


 盾の壁を齧り取り、薙ぎ倒し破壊した綿毛茸がぐらぐらと頭を揺らしながら菫の背中を追う。

 その様子を、昴生は観察する。


「盾損壊まで五秒。出現位置固定、座標移動に警戒。行動範囲目測固定位置より半径三十メートル未満、到達速度およそ三秒」


 百メートル九秒。

 それが人間が最速と呼ばれる世界記録であり、昴生が目測で計測した綿毛茸のおおよその接近速度だった。織部菫五十メートル九秒台が全力で走ったとしても、到底逃げ切れない。


 ただし、それは何の妨害もなく、まっすぐに向かえた場合に限る。


「また壁」「なんっだ、これ! うざってぇ!」「ぎゃあっ! 壁が!」


 園内にばらまいた魔力の石。園内の砂地に混ざり、目視では最早どこに何があるのかわからない場所から、盾は出現する。行く手を塞ぐように、逃げる方向を惑わすために、時に体を突き刺すように妨害する。菫の元に辿り着けない。


 そうして無防備な背後から昴生は水風船を浴びせる。

 笠の部分に黄色、緑。柄の部分に青の汚れが付着し、昴生は己の視覚情報から計算する。


「片岡、君の位置から緑は見えるか!」


「は!? 見えるけど!」


「可能な限り上から突け!」


「はぁあ!? 上からぁ!? ほんとさ! お前さぁ!!」


 綿毛茸の高さは笠を起こした状態でも三メートル、菫を追いかけ横向きに傾いている笠の大きさはアルカよりを上回る。自分の身長よりも大きな相手の頭上から矛を振りかぶって攻撃しろと言ったのだ。とんでもない無茶ぶりだ。

 しかし、アルカは即座に行動した。

 すぐ近くの木によじ登り、昴生の指示した緑の目印が見える位置に向かって飛び降りた。


「ふざっけんなよ禿げろボケ――!!」


 渾身の一撃が、目印を破壊しながら貫通する。

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