憩いと再戦の夜

 その男は持たざる者であった。

 優れた才能も、見目麗しい外見も、穏やかな心根も、他者に寄り添う余裕も、気配りできる豊かさも、脅威に立ち向かう勇気も、粘り強い根気も、哀れまれる欠損もなく、ただただ健康なだけの凡人だった。


 誰かの特別になりたかった。

 愛される存在になりたかった。

 空っぽな自分が大嫌いだった。

 大嫌いな自分を愛されたかった。


 小さな親切をしても何も起きない。

 大きな一歩の瞬間に誰も立ち会わない。

 人気者の模倣をしても見向きもされない。

 誰もしなかった事をしても誉められない。

 悪い事をしても怒られない。

 誰かの代わりにしかなれない。


 唯一の健康さえ、病で失った。男が稼げなくなり家族から見捨てられた瞬間、生き続ける理由も、生まれてきた意味さえ見失った。

 男がいなくても回る世界が妬ましくて仕方なかった。





「今日は泊まっていって、菫と一緒に公園に行く」


 一度解散して、各々深夜になるまで体を休めると決まった時、アルカはやはり怒り顔のままそう告げた。

 反対する理由はなく、菫を一人にしないための心遣いだろうと察して了承した。

 そして。


「わたし、ちょっと前まで寝てたから大丈夫だよ。アルカだけで」


「はい、寝る!」


 昴生を見送り帰宅した直後、菫は眠る事を強制されていた。


「はーい……でも制服は脱いどこう? シワになっちゃうから。服は、えーっ……と、これ使って」


 学校を早退して直で織部家に着いたアルカは当然制服のままだ。菫がシャツとハーフパンツを取り出し、ほんの少し目を離している間に布団に潜り込んでいたアルカは制服を脱ぎ捨てていた。ちょっと驚いてしまった。

 手渡した服も瞬時に着て、菫の布団に戻っていく。いつも泊まりに来た時は予備の布団を出して使ってもらっていたので、自分の布団の中に別の誰かがいるのは不思議な光景だった。

 アルカの制服をハンガーで吊るしながら珍しそうに眺めていると、布団の中のアルカは不満げに掛け布団をはためかせた。


「ほら菫も! 制服なんて適当でいいから! 早く! 入って!」


「え? 一緒に寝るの? 狭いよ?」


「早く! 寝る!」


「えぇぇ……なんか積極的だし強引だなぁ」


 菫の制服の隣にアルカの制服を並べるようにかけて、寝間着に着替えるのを諦めて菫はやや早足でアルカの元に向かう。

 部屋の照明を落として空けられていたスペースに潜り込み、仰向けで寝転がるとやはり肩がぶつかって狭かった。向かい合うように横向きにすると、やはり怒ったままの顔のアルカと目が合う。

 ……綺麗な顔が怒ってると、威圧感がすごい。


「あのね」


 固い表情のまま、優しい声が歌うように響く。


「眠れない時は朝まで手を握ってましょうって、婆さんが言ってたの」


「うん」


「それでいつも婆さんが先に寝ちゃうんだけど、私も気付いたら寝てて朝だった」


「ンッ、そ、そうなん、ふふっ」


 唐突なアルカと養母の微笑ましい思い出話に思わず笑みが零れる。

 肩の震えが収まるのを少し待ってから、話をした理由を確かめるため、菫は手を布団の中から出す。アルカの目の前に差し出すと、指を包むように握ってくれた。


「握っててくれるの?」


「うん。目を閉じてるだけでいいんだって」


「そっか」


 寒い季節はいつもひんやりと冷たい指先に、熱がしみ込んでくる。言われた通り瞼を下ろしてみると、その初めての心地よさに、なるほどと心の中で唸る。

 緩く握り返しても、温もりはそのままある。


「手を握ってるの落ち着かないけど、なんだか安心するね。あ。汗でべたつき出したら離していいからね」


「菫も熱くなったら離していいからね。今だいぶあったかいから」


「うん。……あーこれは、これはすごい、すぐ、寝ちゃいそう」


 ほんの数分前まで寝れないと言ってたとは思えないほど、すごい速度で体が重くなっていくのを感じた。二人分の体温を包んだ布団の中はとても温かく、安心する。目を閉じても一人ではないと手の感触が教えてくれて、余計な思考が抜け落ちていく。

 いつもならアルバイトの時間か、もしくは買い物や家事をしている時間なのに、兄はまだ働いている時間に惰眠をむさぼるなんて。許されないのに、許されているみたいで。


「……うん。寝よう。おやすみ、菫」


 静かな昼のひとときが穏やかに溶けて、意識が薄れていく。




 コン、コン。何度か扉を叩く音に目が覚めた。


「おーい、夕飯できたぞー。食べるかー? っていうか二人とも起きてるかー?」


 兄の声が聞こえてきて、菫はぼうっと寝惚けた頭で何故だろうと考える。

 部屋が暗く、もう日が暮れたのだろうか。いつの間に兄の帰宅時間に、夕飯を作らねば……ゆうはん、夕飯?


「――……ほああッ!?」


「わっ」


 慌てて飛び起きると隣で寝ていたアルカも起こしてしまった。寝ている間に手は解けていたらしく、少しだけ寂しいような、繋いだままだったら恥ずかしかったような。

 一瞬意識が逸れた間に、夕昂が「開けるぞ」と声をかけてから扉を開いて顔を出した。


「おお、焼きそば作ったけど食べれそうか?」


「あ、ありがと、おかえり……ごめん、ご飯作ってなくて……」


「いいっていいって。アルカちゃんも食べるかと思って多めに作ったけど、どうかな?」


「――はい、ありがとうございます。いただきます」


 アルカが、落ち着いた声で夕昂に返事をした。

 いつもの動揺と羞恥で落ち着きのない恋する乙女の姿を知る菫は驚いて思わずアルカの表情を確認すると、怒りの表情は眠る前と変わらず継続されていた。



 そうして三人は、そばのすする音だけが響く静かな食卓を囲んだ。

 時刻は二十時半過ぎ。何とも気まずい食後、アルカに先に風呂を使ってもらっている隙に、菫と夕昂は声をひそめながら食後の後片付けをしていた。


「……なぁ、なんかあったのか? アルカちゃん、いつもと全然違うけど、俺なにかやってない、よな?」


 夕昂は水切りかごから出した食器を拭いて収納しながら、恐る恐るフライパンを洗っている妹の様子を伺う。

 何も悪いことはしていない。ただ、三十分ほど前、帰ってきた時に菫の部屋を開けて中を覗いた。きちんとノックをして、返事がなかったため心配で開いて、薄暗い室内に見えたのは、仲良く寝入っている二人の姿。微笑ましい気持ちで起こさないように静かに離れた。

 何も悪いことはしていない。だが、あの時アルカが起きていて『覗き』だと判断され嫌悪されていた場合、許される弁解などなく、出来るのは謝罪のみである。


「うーん、あったような、なかったような……。あっ、でもお兄ちゃんのせいではないよ。そこは絶対にない」


「そうか? まー、話したくなきゃいいけど、なんかあったらちゃんと相談しろよ」


 内心ほっと一息ついている夕昂を横目で確認しつつ、フライパンについた泡を流していく。


「……お兄ちゃん、アルカにああいう態度されたら困るんだ」


「いッ……や、困るっていうか、びっくりするだろ普通。いつもはわりと、あー……愛想良い子が急に事務対応してきたら、何かしちゃったかなって思うもんだし」


「ふぅーん、そっか」


 兄が言葉を濁した部分は、いつもは好意全開でわかりやすいのに、とかだろうか。

 普段のアルカの好意的な態度を、元気がいいとかそういう性格としてではなく、アルカの好意として兄は受け入れていたのか。そう思うと、口元が緩んだ。


 からかうような返事に気分を悪くした夕昂は目を眇める。文句の一つでも言おうと開いた口は、次の妹の言葉によって不発する。


「もう普通に家事出来るし働けるから、今度はわたしに遠慮しないで、恋人作ってね」


「…………は?」


 フライパンをすすいでいた水が止まり、室内が一気に静かになる。夕昂は呆然と言葉を失い、菫は不思議そうに首を傾げた。


 菫の予想では、やめろよとかからかうなとか、もしくはお前が気にするもんじゃないと、どんな言葉であれ、適当にあしらわれて終わるはずの言葉だった。

 だが、実際の夕昂は酷く驚いて、動揺していた。伝染したように菫も落ち着きがなくなる。


「えっ、え? いや、急になんだよ。言ってる意味がわかんねぇんだけど……」


「え? え、と……だって結婚考えてる人いたんでしょ? わたしが小学生だった頃に……」


「……。確かに、彼女はいたけど……」


 四年前、夕昂には恋人と呼べる女性がいた。

 両親の死から時間が経ち、菫との生活も慣れ始めた頃。妙に馴れ馴れしく積極的な態度に流されて、交際を了承した。

 正直なところ、夕昂には恋に浮かれる余裕はなかった。働いて稼がねばならず、多感な時期の妹で心配事も増えていく。だから恋人らしい事も難しいと断っても、それでもいいと押し切られた。

 一年の交際期間。当時の夕昂はまだ二十三か、二十四歳。結婚など一ミリも考えていなかった。四つ年上だった彼女が同じ気持ちであったかは定かではないが。


「俺は……お前に彼女がいたなんて話、してないよな? まさか、わざわざ結婚がどうのこうとの言いに来たのか?」


「う、うん。一回だけ」


 夕昂の怒気を帯びた声に、菫は失言だったかと狼狽えつつも素直に頷いた。知らなかった事実が明かされて、夕昂はますます苛立ちが募る。

 確かに、当時の夕昂は結婚適齢期の女性に対し、横柄だった自覚はある。だが最初から妹が最優先だと伝えた上で、それでもいいと言ったのは相手だ。もう縁を切った相手とはいえ、裏切られたような気分になった。


 ……本当に一回だけだったのだろうか。

 小学生だった妹が、一度会っただけの人間を記憶し続けていたとは考えにくい。何度も会っていたか、もしくは本当に一度きりで刻み込むような余程な事をされたのか。


 妹は時折、『そのほうがいい』嘘を平気でつく。今回もその気配を感じる。しかし疑っても「そんな事実はない」と言われれば確かめる方法はない。

 結局、夕昂は行き場のない怒りを溜息を吐く事で沈めるしかない。


「……お前さ、そういうの言っとけよ。彼女がいきなり来て迷惑だったとか」


「いやー、まぁ……はっきり覚えてないけど、お兄ちゃんの恋人に陰口みたいなのしたくなかったし、その人と結婚しなかったのわたしのせいかなとか、思うと、色々言いにくくて」


「全然お前のせいじゃねぇし、そいつと結婚しなくて正解だったって今心底ホッしてる」


「えっ、そうなる!?」


 それはそうなる。

 幼かった菫からすれば、当時の彼女は好いた相手と結婚もままならない悲劇のヒロインのように映ったのだろう。

 だが夕昂から見れば、小学生に八つ当たりするどうしようもない女だったという再認識である。その悲劇のヒロインはあっさりと夕昂を捨てて、三年前に寿退社していった。強かなものだ。


「……あー、何でこんな話になったんだ? ……まぁとにかく、菫は変なこと気にしなくていいし、話したくなくても相談はしろ」


「さっきまでは嫌なら話さなくていいって言ってたのに……」


「相談しないで黙ってたお前が悪い」


 理不尽だ。

 だが兄は、アルカの態度の理由を追及してこなかった。爪の甘さに救われる。


 色々あって今晩化け物になった父と戦ってくるね! アルカの気が立ってるのは多分そのせい! じゃ! そゆことで!

 言えない、言えるわけがない。しかも相談ですらない。菫はありがたく口を結んだ。




 深夜。

 日付変わってもしばらく息を潜め、夕昂に気付かれず家を出るタイミングを測っていると、窓を叩く雨音が聞こえてきた。カーテンを開いて外を確認し、一緒に見ていたアルカが嫌そうにぼやく。


「雨、降ってる」


「予報では晴れてたのに……んん、雨雲レーダー見る限りしばらく止まなそう。アルカは傘とか持ってきてる?」


「ううん。でもいいよ、動いてたら傘は邪魔になると思うし」


「あ……そっか。でも濡れたら風邪ひいちゃうから、レインコート着ていこう? アルカはポンチョのほうが動きやすいかな」


「二つもあるの?」


「うん。自転車に乗る時用にね。ポンチョは楽なんだけど、風が強い日は大変なことになっちゃうから使い分けてるんだ。ただ……」


 袋に詰めていた真っ白なレインコートと、黄色のレインポンチョを取り出し、広げて見せる。


「暗くても目立つ色を選んでるから、隠れるような時は邪魔になったりするかも……」


「あー……まぁ最悪脱げばいいでしょ」


 借りるね、とアルカは黄色を手に取る。

 公園で迎え撃つ準備も考えて、少し早めに向かおうと上着を着込む。もし大人に見咎められても、「ちょっとコンビニに行く途中」と誤魔化すつもりが、上着、荷物、雨具の重装備感で台無しになった事にお互い小さく笑いつつ、ひっそりと家を抜け出した。



 雨が降る夜は、誰とも擦れ違う事はない。水を捌く車の音と、水を纏った二人分の足音が雨音の中で時折際立つだけ。


 深夜一時半。

 黒のレインコートを着た昴生が公園内で待っていたところに、白と黄色のやたらと目立つ格好でやってきた二人と合流した。溜息を吐かれ、文句があるのかと噛みつき、小さな衝突の後、三人は園内を回った。


 柵で囲われた砂場や、ブランコ、滑り台。可愛い動物のスイング遊具やロープウェイもあり、見晴らしが良く、遊びがいのある遊具の揃った公園だ。

 幼い頃、気まぐれに連れてきた父が園内の中央にあるベンチに座っているのを、ちゃんといるか確認しながら遊んでいた記憶が菫の中に過ぎる。


「ねぇ、菫。なんで綿毛茸を呼び出すのにこの公園にしたの? 菫の家から三十分以上離れてるし、夏祭りで行った公園のほうが近くて広かったんじゃない?」


「……そうかも。ごめん、混乱してたのかなぁ」


「あっちがうよ怒ってないよ! 顔はまだ怒ってるかもだけど、ああ〜なんなんだろうなぁ顔」


 迎え撃つをする菫の手伝いをしながらアルカは険しい表情のままだった。確かに表情を見ながら聞いていたら、文句を言われているように思えたかもしれない。

 自分の手元ばかり見ていたから全然気にならなかったが、公園を選んだ理由を深掘りされるのは困るため、菫は苦笑いで流す事にした。

 ビニール袋の中にまとめた下準備たち、二袋にまとめた片方を差し出された昴生は受け取り、胡乱げな視線を向ける。


「……本気でこれを投げつけるのか?」


「うん。駄目かな?」


「駄目ではないが……この雨だからな。効果は短いだろう」


「意味がないわけじゃないなら、充分」


 しゃがみ込んでいたアルカは立ち上がり、拾い集めていた枝の一本を銀色の矛へと変えて、雨粒を払うように振るう。


「一瞬でも効果あるなら、あとはなんとかしてみせる」


「……そうか。なら、君の力を存分に振る舞うといい」


 青い瞳から漲る闘気を受け止めた昴生は、少女二人から視線を逸らす。

 そこには、何もない。

 否、何もなかった空間が翳る。公園周りの道路にある街灯のみが唯一の灯りである園内はずっと薄暗かったが、異常な影がゆっくりと形を作っていく。


 そこそこの広さがある園内で綿毛茸はどこから現れるのか。出入り口か、三人の死角か……考えた時に一箇所、心当たりがあった。

 予想通り、綿毛茸がベンチの前に現れた時、ああ、と菫は昏い嘆息を溢した。

 人間と呼べない形になっても、あれは、父だ。


 いる、と伝えるためにポンチョを引くと、アルカは小さく頷く。

 姿が見えていないため視線は定まらない。そこに困惑はなく、敵の姿を見逃さない鋭さだけが込められている。


 雨に打たれる異形は緩慢な動きでにじり寄ってくる。


「ひとりじゃない」「……三人?」「何故?」


「もちろん、返り討ちにするためだよ!」


 恐怖はある。それでも己を奮い立たせるために、菫は声を張り上げた。

 ビニール袋の中に詰めた、下準備――水風船を一つ掴むと綿毛茸に向かって投げつける。ボールをしっかり投げるのは体育の時間か、小学生のドッチボール以来だ。それでも感覚は覚えている。


 ばしゃり、と破裂と水の弾ける音が上がる。ぶつかった綿毛茸の一部が黄色の飛沫で汚れる。


「アルカ、当たった! 見える!?」


「見えた」


 たった一言、単調な応答でアルカは一歩を踏み出す。

 片岡アルカの五十メートル走のタイムは七秒台、と聞いていた菫はそのスピードに瞠目する。跳ね飛ぶように十メートルほどの距離を一気に詰めたアルカは手にしていた矛で、黄色の目印めがけて貫く。

 アルカの目には黄色の汚れが浮かんでいるようにしか見えない。だが、空振りではない確かに何かを突き刺した感触を得て、口角を上げる。


「え」「い」


「よかった。手応えがあっ、――てぇい!!」


 そうして突き刺さったままの矛を軸に、再び飛び跳ねる。

 アルカは『そこにいる』と言われた空虚に向かって、疑うことなく躊躇いもなく落ちる勢いのまま、目印を思い切り踏み抜いた。


「ちょっ」「なんだなん」「うわああああ!!」「ぎゃあああ!!」


 バキバキ、ごしゃ、と生き物とは思えない硬質な破壊音と共に崩れ、綿毛茸の一部を抉るように壊していくアルカの雄姿に、菫は思わず「うわぁ」と感心が憐れみが漏れてしまうのだった。

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