決戦前昼

 その女は、結婚すれば幸せになれると信じていた。


 ごく一般的な家庭の次女として生まれた女は飢える事も、痛め付けられる事も知らず、祖父母に可愛がられ、両親に褒められ、姉とは歳の離れた友人のように共に成長し、愛に包まれ女は伸び伸びと育った。

 望めば与えられ、望む事を許される環境で、女は緩やかに、その素養を育んでいった。


 友人達が次々と結婚し始めた頃、当時恋人だった男との結婚を夢見て数年待つが、男が妻帯者だった事で夢から覚める。まだ幸せになれると信じていた。

 一から始める恋愛結婚の難しさから、婚活を始めた。紆余曲折の数年を経て、女は一人の男と婚約を結ぶ。これで幸せになれると信じていた。

 結婚のために必要だと言われれば、女は素直に金を出し、名前を貸した。失踪した男が詐欺師だと気付いた頃、女に残ったのは多額の借金だけだった。


 祖父母は既に他界し、老いた両親は自己破産を勧めて肩代わりを拒否し、家庭を築いていた姉は応援すると口にしながら距離を置いた。両親の暮らす実家を売って、姉の子の学資保険を解約した分で借金を帳消し出来なくなった女は、欠乏感で狂った。

 女は失踪した男を捜索した。この手で殺めるために。けれど、揉み合いの末に頭を打って命を落としたのは女の方だった。


 奪われたから、奪い返したかった。ただそれだけ。

 女は醜い男の絶叫を聞きながら、小さく「やったぁ」と零した。





「そんなわけで、今夜決戦です」


「何でそんなことになったの!?」


 茶目っ気を含めて冗談っぽく話を締めると、アルカは絶叫した。少し仰け反りながら菫は同意のために頷いた。ごもっともだ。




 強制エンカウントの夜が明け、明るくなっていく空を見届けた菫は安心し、そのまま眠ってしまった。目が覚めたのは五時間後、もうすぐ昼だった。


 兄からは『学校から連絡あったから、寝坊して遅刻って言っといた。休むなら学校に連絡すること』『あと俺はちゃんと起こしたぞ』とメッセージが。

 アルカからは『大丈夫?』『寝坊?』『かぜひいたならおみまい行ってもいい?』少し時間を置いて、『ほんとに大丈夫?』と心配するメッセージが重なっていた。


 人生で一番酷い寝坊をした菫は、ずる休みを決めた。

 学校に仮病を使い休む連絡を終え、アルカには『風邪じゃないけど色々あったから、askのほうに書くね』と返信。


『昨日の夜、綿毛茸と会って』

『会ったというか不法侵入されたというか』

『色々あって今日の夜に殺されるみたい』


『え?』

『はぁ??』


『は?』


『いみわからんいみわからん』

『いく』


 そして放課後を待たずして、アルカは早退し、昴生は自宅を出て、三人は織部宅に集合した。




「……綿毛茸に会った時、菫だけは目をつけられちゃったって事?」


「そうみたい。でも下処理? が足りないとかで、昨日は殺されなくて済んだんだよ」


「うん」


 ぐ、と眉間に皺が寄る。


「それで明日も来るって話してたから、その、家で殺されたくないから別の場所にしてってお願いして……」


「……うん」


 薄く開いた口から出るのは不満げな短い相槌のみ。話を聞いてる間は堪えるように唇をきつく結んで、口角はどんどん下がっていく。


「とりあえず、動きやすそうな広さで人もいない公園を指定しまして……ええと、アルカさん?」


「うん、……え、何?」


「なんか、とっても怒ってらっしゃる?」


 アルカは多弁なほうだ。楽しい時は楽しいと、むかついた時はむかついたと、思った事を口にする。一緒にいて心地よく、素直さが親しみやすい。

 だから黙ったまま、顔だけが厳めしくなっていくのは異常だ。

 菫の問いかけに対し、アルカが見せた反応は驚きだった。思いがけない言葉をかけられて目を瞬かせていたが、顰め面に戻って首を横に振る。


「怒ってない。菫は何も悪くない、悪くないなら、私が怒るのはおかしい。だから怒ってない」


「そ、そうかな? んん〜、でも、やっぱり顔が怒ってる、ような……?」


「心配はしてるけど、怒ってないよ。顔は見えないからわかんないけど、なんか勝手にこんな感じになっちゃうだけ」


 むすっとしたままの自分の顔を揉み回し、「そんなに悪い顔してる?」と怒りの表情でやや不安げな声を出し、アルカは洗面所に向かった。本気で無自覚の表情だったらしい。


 その背中を見送る菫は素知らぬふりをしていたが、アルカに怒られる心当たりがあった。

 綿毛茸と遭遇し、命を狙われている。それ以上の事はよくわからないと誤魔化した。わからない事ばかりだったのは事実だが、意図的に隠した事実もある。

 綿毛茸の一部が、自分の父であった。それは一度も口に出さなかった。殺意の理由も『目撃者だから狙われた』とそれらしい事にすり替えた。


 菫が個人的に話したくなかったのもあるが、正直に打ち明ける選択もきちんと考えた。考えた結果、二人に知らせるべきではないと決めた。

 除霊なのか、退治なのか、適切な言葉はわからない。

 ――それでも、綿毛茸は菫達の日常から切り離され、恐らく抹消される。


 その一部が菫の父親だと、知るべきではない。知ったところで、気分が悪くなるだけだ。何も知らず、脅威ある外敵として倒した方がいい。


「……何があったのかは知らないが、中途半端な事はやめたほうがいい」


 不意に、黙って話を聞いていた昴生が口を開いた。


「えっと……何が?」


「君は昨晩の出来事を、事細かに話していないだろう」


 彼はエスパーか何かなのだろうか?

 まさに心の中を覗き込まれ、責められているようだ。菫は少し困ったように眉を下げつつ笑顔が崩れないように気を引き締める。


「そりゃあ、まぁ……しっかり聞き取れた部分が少ないのもあるけど、細かいところっていっても、許さないとか殺すとか、幽霊と話そうとして怖いもの知らずとか、悪口みたいな事くらいしか言われてないし……」


「それは嘘ではなかったとしても、事実とはかけ離れているのだろう」


「ものすごく断言してくる……」


「当然だろう。僕だけじゃない、片岡すら気付いている」


「……へ?」


 洗面所の方向へ憐れむような視線を向ける昴生に、菫は普通に驚いてしまう。

 気付いている、アルカが? そんなはずはない、彼女は少しも疑うような態度も言葉もかけてこなかった。ただ、顔だけが怒っていただけ……――。


「前回、綿毛茸に遭遇した時、君がどれほど怯え、困惑していたか、僕も片岡も見ている。そして今回は直接、殺意を持って接触してきた。自宅を特定され、眠っていた部屋に侵入され身動きを封じられた」


「…………あ……」


「状況は悪化している。今晩、君は殺されるかもしれないというのに、――どうして笑っていられる」


「あ、ああ……あぁー、うん……たしかに」


 そこまで言われて、納得した。最初は顔が真っ青になるほど怯えてた人間が、二回目の遭遇で命を脅かされたのに、やや呑気に笑っている。何かあったと思うのは当然だ。正気を疑われなかっただけ、随分と優しい。

 つい、いつも通りでいようとしたのが間違いだった。隠すことがあるなら、前回と同じような態度でいるべきだった。


 そう考えると、アルカの反応も少しだけ想像が出来る。

 菫の説明を聞いただけでは、笑っている理由に辿り着けない。素直に聞き入れても違和感を拭えない。もし昴生ではなく、アルカから「どうして笑っていられるのか」と尋ねられたら、多分菫は「アルカがいるから心配してない」と答えただろう。

 嘘ではない、だけどアルカが求めていた答えでもない。実際にアルカがどこまで考えたのか菫はわからないけれど、それはもう、とてつもなくもやもやしただろう。


 気付かされてしまって少しだけ気まずい気持ちになった菫は、どう笑っていいのかもわからなくなる。味のないぼそぼその寒天をかじったような気分だ。


「……ごめん。でも話さないほうがいいなって、ちゃんと考えた事だから、言えない」


「何故僕に言う。片岡に言ってやれ」


「そうなんだけど、説明が難しいなぁ……」


 なにせアルカからは何も言われてないのだ。隠し事をしていると疑われたわけではなく、言葉にならない違和感と不安と疑問が入り混じり、抱えきれない感情が苛立ちとして表に出てしまった。そんな雰囲気だった。そしてその原因が、菫ではないと言い切っている。

 どう切り出し、打ち明ければいいだろう。要である父親の話を出さない限り、埒が開かなそうだ。

 改めて、いつも通りの態度でいようとした判断の誤りに歯噛みした。しかし、拳を握り込みながら奮起する。


「でも、綿毛茸を退治しちゃえば、アルカの心配もまとめて吹っ飛ぶから、大丈夫! だいじょうぶってことにしておいてください」


「……はぁ、一先ずそうしておこう。時間も限られているからな」


 時刻は午後一時。約束の時間はおよそ十二時間後。作戦を立てるにも準備を整えるにも、少し心許ない時間だ。


「わたしの事はとりあえずそんな感じで。それより、昴生くんは綿毛茸をどうやって退治するつもりだったのか、聞いておきたくて」


「難しく考える必要はない、単純に形としてある部分を壊せばいい」


 お札、お経、塩以外で幽霊退治に使えそうなものがビームパックしか思いつかなかった菫だが、現実はもっと物理的であった。


「え、なんかこう、お焚き上げとか、呪文とか読経したりとかは?」


「燃やすことは試せなかったが、他の二つの効果はなかった」


「えっ試したことあったの?」


「場所を特定する前に、対処法を探る必要があったからな。以前『結合』について話した木を確認しに行ってまだ残っていたので色々試し、切り倒してきた」


 教室で静かに読書をしているのが様になる美少年が、山に向かって呪文、読経の後に伐採。

 菫とアルカがいつも通り通学している間の彼の行動の一部を知って、なんだか溜息が出てしまった。とんでもなくアクティブだった。ちょっとだけ狂気すら感じる。


「た、たしか大きい木って言ってた記憶があるんだけど……怒られたりしなかったの?」


「多少の罰は覚悟しておこなったが、何故か伐採と同時に木が消滅した」


「……消えた?」


「倒木の途中で木が砂のように形が崩れた。砂だろうと地面に落ちれば音を立てるはずの質量だったが、何も聞こえなかった。いつの間にか切り株も消えて、何もなかったように地面だけが残されていた。不可解だが、消滅したとしか説明しようがない。質量を錯覚する幻覚を見ていた可能性も否めないが、君の話を聞いた後だと、『結合』された霊の性質とも思える」


 そこに存在していたはずなのに、消えてしまった。昨晩菫が体験したそのままの奇妙な現象を、昴生も別の形で目撃していたらしい。

 確かに幽霊であれば透ける――壁をすり抜けてしまう特性持ちというのはイメージしやすい。自宅に不法侵入してきた理由も説明がつく。

 けれど、触れたり、姿を消したりを任意で切り替え出来るというのは、あまりにも厄介な性質ではないだろうか。対処法が物理であるのだから、なおのこと相性は悪い。


「つまり、触れるタイミングで綿毛茸を叩いて殴って壊そうってことに、なる?」


「そうなる」


「わかりやすくていいじゃん!」


 洗面所から戻ってきたアルカは途中から話を聞いていたらしく、敵を殴って倒すという単純明快な話だと思っていて得意満面な顔で椅子に座った。


「どんくらい頑丈なのかはわかんないけど、とりあえず壊せばいいなら任せてよ! 爺さんから壊す才能は磨かなくてもピカイチだって言われてたから!」


「……問題は、主力になる片岡の目が使い物にならない事だな」


「あ」


 得意分野を生かせるといきいきしていたアルカは一瞬で現実を思い出して、しゅんと落ち込んだ。

 三人の中で唯一、アルカだけは見えない敵と相対する事になる。相手の大きさも形も全体像も、何もわからないまま、何もないと思っているところに全力で攻撃をしかける。そんなことを出来るだろうか。菫は少し想像して、それらしい素振りしか出来なそうな自分には難しいなと感じた。でも、



 ――私は菫を信じてる。



 幽霊猫を追いかけた時に言われたことを思い出す。思い出すたびに思う、薄っぺらい自分には分不相応過ぎる、強くまっすぐな信頼。


 菫は出来ない。

 でもアルカなら、きっと出来る。


「わたしがアルカの目の代わりをするよ」


 何度か打診し、そのたび却下され続けた提案を出した瞬間、俯きがちだったアルカは顔を勢いよく上げた。


「いやいや、菫は狙われてるんでしょ、どこかで隠れてた方がいいんじゃ……」


「うん。一緒にいたら多分、アルカも危なくなると思う。くっついて動いてたら邪魔になるし、お荷物になっちゃうかもしれないけど」


「ちがうよ、そうじゃなくって!」


「うん、ごめん。ごめんね、アルカ。でも、お願い」


 心配をかけてごめんなさい。我儘を言ってごめんなさい。何も話せてないのにごめんなさい。それでも、それでもと乞うようにアルカの手を握る。


「わたしだけじゃ、何にもしてあげられないから」


「え……?」


「アルカがわたしの代わりに戦ってくれるなら、わたしはアルカの目の代わりになる。わたしを信じて戦って。お願い、綿毛茸を倒して、」


 倒して――……、その先の言葉は詰まって出せなかった。

 戦うしかないのだ。綿毛茸は、……父は、自分の命とこの先続く穏やかな日常すら脅かす存在になってしまった。直接対峙して和解が出来る存在ではないのも痛感した。選ぶ道はたった一つだけ、わかっている。


 それでも。それでも……胸は苦しい。

 中途半端なことはするなと忠告を受けたのに、やはりいつもの癖で、口角は上がってしまった。


「アルカ、お願い」


「わかった」


 手を握り返された瞬間、菫は覚悟していた以上の罪悪感に襲われ、か細く喉が鳴る。


「菫のことは守るから、私から離れないようにしてね」


「ぁ、はは、ありがとう。……かっこいいなぁ、本当」


 守ってほしくない、とは口が裂けても言えなかった。菫なんて見捨てて安全圏に逃げて忘れてくれれば。少し寂しいけど、そのほうがずっと良かった。

 本当に……強くて、頼もしくて、頼りになり過ぎる。


 アルカと昴生に助力を頼み、綿毛茸を倒す。こうするしかなかった。もうすでに二人は渦中にいたとわかっていても、綿毛茸の正体を垣間見た今となっては、拗れに拗れた親子喧嘩に巻き込んでしまったと申し訳なさが増す一方だ。

 人殺しをする父も、それを止められない自分も、下手に話せない状況も、おとなしく殺されて詫びても収束させられない情けなさも、どこから謝ればいいのかわからない。謝ったところで、どうにもならない。


「よし! 色々、使えそうなもの準備しないと! ……って言っても、誰が見ても危なそうなものはさすがに持ち歩けないか。リュックに入れられる範囲で……あ、綿毛茸にペンキとかかけたら、アルカも一瞬見えたりしないかな? いや、公園にペンキ撒いたら迷惑にもほどがあるよね、絵の具とかなら……」


 せめて……巻き込んでしまったのだから、何があっても、二人だけは無事に帰さなければ。


 菫はひそかに決意を固めて、本心を圧し潰す。

 逃げ出したい気持ちも投げやりな気持ちも怖い気持ちも、いらない。いらないいらないいらないいらない重要ではない必要ではない。

 ぎりぎりと、内臓が締め付けられるような痛みを気のせいにして、菫は気合いを入れ直した。



 この時、織部菫は精神的に酷く追い詰められていた。

 自分がどんな顔をしていたのか、二人の魔術師が何を思っているのか。思慮する余裕もないほどに。

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