強制エンカウント



 ――その男は、娘を殺し損ねた。





「菫ちゃんのパパ、かっこいいね!」


 それは小学生初めての運動会の日。

 直前まで面倒くさがっていた父と、まだ周囲に向けて猫を被り切っていた母が、家族として参加した。

 隣にレジャーシートを並べた同級生の女の子とその家族が、父を褒めた。背が高いとか顔が俳優の誰かに似ているだとか。子供でもわかるお世辞だとわかったけれど、見てくれを気にする父は口では謙遜しつつもそれはもう喜んで、夜になっても珍しくずっと上機嫌だったのを覚えている。


すぅちゃん夕昂ゆぅみたいに、俺似になればよかったのになぁ。まぁ、ママ似でも美人にはなんだろ」


「ダァったらひどーい! このおさるさんと、うちの、どこが似てるって言うのよ~!」


 機嫌がいい時だけ撫で回すように触りにくる父も、わざと散切り頭にして笑いものにする母も、どちらにも似たくなかった。

 普通の少女らしい感性なんて当然歪む。いや、髪については最初からどうとも思ってなかったような気もする。兄が悲しむ顔をするから、頭が軽くて楽だと、本当だったのか嘘だったのかわからない気持ちを、本音にした事がきっかけな気もする。


 気分の浮き沈みで振り回してくる両親を見て育ち、大人とはそういうものだと学ばずに済んだのは、ひとえに兄のおかげだ。

 おなかがすいたと言ってうるさいと父に叩かれた日、兄に手を引かれて家を出てコンビニでパンを買って半分こした時。遊んで帰ってきた泥だらけの服を母に捨てられ、汚れた服は兄との入浴中に洗うと決めた時。兄は間違っているのは両親だと慰めてくれた。


「お前が悪い子になってたら、兄ちゃんがちゃんと叱ってやる。火に触ったら危ない事、濡れたらそのままにしないでちゃんと拭く事、痛い時と具合が悪い時は言う事、駄目だって教えたら菫はやらなくなるだろ? 大丈夫、菫は良い子だ。だから明日も好きなことしてこい」


 それは、両親への反抗の一種だったのかもしれないし、ただただ大人の都合で幼子が弱っていくのを避けたい良心だったのかもしれない。兄がどんな気持ちでいたのかは推し量れないし、どちらでもいい。

 生まれた時からずっと、織部菫は織部夕昂によって生かされていた。



 そして今、何の因果か父親に生殺与奪の権を握られていた。




「どうする? もう殺す?」「そんな気分じゃないしまだ無理」「予定とは違う、足りない」「子供はやわらかくてよかった。若い女はどうなんだろうな」「きもいきしょい」


 雑然としたノイズが菫の上で雑談をし始める。せめて退いてほしい、潰れるとまではいかなくても動けないくらいには重いのだ。


「どういうことだよ我ら! これまで見えるようになったら殺せただろうが! 早く! 早く! あああああ」「あはははは」「見えるようになったのは、我らのマーキングが完了した結果。もやがない。全く同じになってない」「下処理終わってないのに見えてるね、不思議」「へぇ~幽霊見える人って本当に実在したんだ」


 菫の耳には同じ音に聞こえるけれど、父の他に四、五人ほどいるような賑やかさを感じる。

 昴生は語った。『結合』は何らかのきっかけで複数の霊が物体に癒着している状態を示す――、つまり昴生の予想通りであれば、この場にいる霊は父だけではない。

 集合体の話す内容を未だ理解し切れていないが、少なくとも父の癇癪を笑い飛ばす個と、父の殺意を否定する個と、菫に興味を示す個がいる。そして今この場で、菫の殺害に積極的な声は少ない。


 知識は恐怖の解毒剤である。情報を整理しながら菫は全身の強張りが緩んでいくのを実感する。少なくとも、父に関しては知っている。知識があれば、抗える。

 ――どうにか、殺されずに帰ってもらえないだろうか。


 ばくばくと暴れる心臓を落ち着かせようと呼吸を整えながら、暗闇の中の影を観察する。

 遠目で見たそれはキノコのようだったが、間近で見ると頭が異常に膨らんだ大蛇のようだった。ただそこに鱗はなく、透けるガラス、やや濁りがあるプラスチック、滑らかな陶器、捻じ曲がって光沢を見せる金属、瓦礫……圧縮されたゴミの塊が、綿毛茸を形作っていた。

 全体をもぞもぞと動かすたびにポロポロと欠片を零すが、ずるりと隙間から細く黒い腕が飛び出し、欠片を元の場所に埋め込んで引っ込んでいく。……意味がわからなくて気持ち悪い。なるべく見ないようにしよう。


「ねぇねぇ、幽霊って小さい頃から見えてた?」


「――いいえ。幽霊を見たのは、二回目。こうしてお話出来たのは初めてです」


 笑顔で応じてみせると、かけられた重みが僅かに軽減した。再度過重される様子はない、友好的な態度の効果は悪くなさそうだ。


「なんだおまえ」「すぅちゃんとは怖いもの知らず?」「しゃべった」


「えー、うーん……いや、ごめんなさい、ものすごく怖いです。すごく大きいし、見た目も色々ごちゃごちゃしててよくわからないし、殺すとか言ってますし……」


 少し困った風に、言い辛い気持ちを柔らかい表現で包むように、その人が聞きたい言葉を代弁する。

 大事なのは、否定しない事。真摯であろうとする事。理解を示す事。偽りが混じらず可能であれば、同調する事。そして、堂々とする事。

 本当のところ今すぐ逃げ出したいが、そんな本心は不要なのだ。身動きが取れなくても胸を張れ。兄が、菫にとって良き兄で居続けたように。笑え。


「でも結構、皆さんおしゃべりが好きだったりします?」


「好き!」「めんどう」「どうだったかな」「ああ? 何だその喋り方は! 気持ちわりぃ、気持ちわりぃ!」「興味深い」「声を抑えよ、我ら」


「ええと、ちょっとわたしの耳だと声の判別が出来ないので、皆さんと呼びますね。皆さんはわたしの父の、そのお手伝いをしているんでしょうか?」


「ぶっ、お手伝い」「我らは共同体」「なんかそんな悪い子じゃなくない?」「ゆえに我らは一蓮托生」「ぎぃぃいい」「我らの妻が悪かったのだろう」「妻は許さない、子も許さない」


 笑顔を維持しながら菫は思う。

 ……これは困った。話は通じているし会話も成立しているはずなのに、ズレを感じる。そういえば父も、一方的に言いたい事だけ言うタイプだった……似たような素質が固まったのだろうか。


「……皆さんがした事は見て、知っています。わたしの事も、殺すんですね?」


「ん? やっぱ悪い子? それとも馬鹿なのかな?」「やはり見ていた。隠れていたのは我らを見ていたのか」「子供の出歩きは悪い」「殺す殺す殺す、お前も殺す、めんどくさいのに生まれやがって」「飽きた」「こいつ気持ち悪い」「さっきから何だその喋り方は」「一丁前に媚び売りやがって、そんなに死にたくねぇか? 死にたくねぇだろうなぁ、我らもそうだったとも!」「足掻くなど惨め」


「……あー……うぅん…………」


 ただでさえ声が雑音のようなのに、ノイズが多すぎて聞くべき声を聞けているのかわからない。思わず眉を寄せてしまう、笑顔を取り繕うのも難しくなってきた。多分苦笑いになってる。


 先日の深夜、菫だけが一方的に目撃していた。どうやらそれが間違いだったらしい。

 身を縮み込ませ息を潜めていた菫を、綿毛茸も見つけていた。その時に娘だと気付いた父が、次のターゲットとして目をつけたのだろう。


 その場で危害を加えられなかった理由は、恐らく彼らの『下処理』をされてなかった事。何を示しているのかわからないが、下処理と呼ぶくらいなので多少の手間と時間がかかるのだろう。


 他に、彼らの活動時間に制限がある可能性。霊が出るという丑三つ時、深夜二時から二時半の三十分間。

 その時間しか、彼らは動けないのでは?

 そうでなければあの場から菫を見逃すはずがない。生前の父は、今菫が住んでいる場所を知らない。これほど殺意を向けられているのに、ここ数日平和だったのは、菫の居場所を特定出来ていなかったからだ。そして今夜、見つけられてしまった。


 菫の部屋に時計はない。スマートフォンを触る事も出来ない。だけど、推測が当たっていれば勝機はある。

 約三十分、殺されなければいい。

 のしかかられた状態で、残り時間を確認出来ないまま、最長三十分の推測には何の根拠もない。綱渡りのような勝機だ。


「そうですね。今は、殺されたくはないです」


「いい加減にしろよ!!」


 ぎし、と重みをかけられた手足が痛む。今のは父だろうか、まるで我慢の限界だとばかりに大きな声、本当に嫌だった。……本当に嫌だ、何のために声を抑えていたのか、わからないのだろうか。


「お前そんな女みてぇな言葉使うガキじゃなかっただろう?」「気持ちわりぃ!」「やっぱりあの女の娘だなぁ!」「嘘ついて媚びへつらって生き汚ねぇなぁおい」


「今のは……いや、もうどれがお父さんの声なのかもわからないから、いいや。そんなことより、もっと静かにして」


「ああ?」「ぶっははは」「すげー強気」


「あんまり声が大きいと、隣で寝てるお兄ちゃんが起きるよ」


 そう告げると、綿毛茸の動きがぴたりと止まり、一気に深夜のように静まった。

 霊が見えなければ、当然霊の声も聞こえないと思っていた。だけど、アルカは見えないのに、猫の鳴き声は聞こえていた。全く同じように聞こえていたのか確かめる術はないが、今この場にいる綿毛茸の声が兄の耳に届くかもしれない。例えば、耳鳴りのような音で。


 静かになったついでにもう一つ、大きな収穫があった。

 少なくとも父は、兄に対して害意はない。


「……確かに、死ぬのは怖い。死にたくないし、殺されたくない。でもそれは、今は絶対に嫌だってだけ。だって今、がここで自殺とは思えない死に方したら、誰が真っ先に疑われるか、わかる?」


「家族」「深夜、家にいたのは二人だけ」「アリバイ証明不可能」


「そう、お兄ちゃんが疑われる。それだけは絶対にしたくない。お兄ちゃんが殺人犯だと思われない状況だったら、いいよ。殺されても」


「へぇ、恨まれてる自覚あるんだ」


「全然ない。恨んでる理由はわかるけど、うちが悪い事だとは思ってない。お父さんの逆恨み」


「逆恨みだと!? 証拠だってあったんだ! お前の母親は不倫してたんだ!! 我ら以外に男がいたんだ!! 馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって馬鹿にしやがって!!」


「お父さんはお兄ちゃんが大事じゃないの? 大事なら、静かにして」


 激昂する声に、兄を引き合いに出して諫めれば再び静かになった。

 どうして再婚した経緯が不倫だったのに、自分は不倫されないと思い込むのだろう。菫は理解に苦しむ。恋の一つでもすれば、父の嘆きを理解出来ただろうか。不意に浮かんだ詮無い感情を横に分ける。


「お父さんはうちを殺したい。うちはお兄ちゃんの迷惑にならないなら殺されてもいい」


「何故?」「怖いなら怖がればいいのに」「お兄ちゃんのために死ぬの?」


「違うよ。お兄ちゃんのためじゃない。これは……わたしが、そうしたいだけ」


 事実か虚偽か、幼い菫には調べようがなかったけれど、生前の両親は事故直前の頃、修復不可能なほどに険悪だった。母の浮気が発覚した。それは両親の結婚、――菫を身籠る以前からの関係で、つまり母は父の他にもう一人恋人がいて二股していたらしい。

 らしい、と言っても菫は両親の喧嘩を聞いていただけで、当の母はずっと否定していた。父は全く母を信じていなかったので、酷い泥沼の数日だった。


 その数日を、一人暮らししていた兄は知らない。

 知らないでいてほしい。今や菫だけが知る話を墓場まで持っていくつもりだ。その墓場まで案内してくれるというのだから、ある意味都合がいい。

 だからこれも、嘘ではない。本心がどこにあろうとも、偽りではない言葉だ。だから曇りなく笑っていられる。


「だから今日はやめて、明日の夜にしよう。同じくらい時間に、お父さんが遊んでくれた公園で待ってるから」


「それで騙せると思うのか」


「今ここで騙しても、もう逃げる場所なんてないよ」


「だが、」「時間だ」


 ふと、体を抑えつける重みが少なくなる。

 部屋の中で狭そうにしていた綿毛茸の影の輪郭が、蝋燭の火のように揺らぐ。


「約束を違えるな」


 一言だけ残し、影が暗闇の中に溶けるように消えていく。体の上の重みもなくなり、菫は恐々と体を起こして部屋の電気を付けた。何もない、痕跡も残っていない。確かに重かったのに、布団越しとはいえ触れていたのに。

 スマートフォンの画面を付ければ、時刻は二時二十八分。推測に間違いはなかった、と思ってもよさそうだ。


 菫はこの場で殺されたくなかったのは、兄に嫌疑がかかるのを避けたかったから。これは嘘ではない。

 だけど綿毛茸の標的が自分であると知った時、チャンスだとも思った。そしてしっかりと掴んだ。何せ昴生が探している対象が、自らやってきてくれる機会を作れたのだから。


 殺されてもいいとは言ったが、場所を移動するのは殺してもらうためとは言ってない。昴生の言う対処の場を用意したかったのが、理由として大きい。

 都合がいいとはいえ、死ぬつもりなど毛頭もない。役立たずの命だろうと、死ねば兄が、アルカも悲しむだろう。投げ捨てるつもりはない、使うべき時に使うだけ。うまく使えたのではないだろうか、静かに自賛する。


 二人に事情を説明するべきだと頭ではわかっているが、酷い疲労感のせいで整理が出来ない。深夜であることも言い訳にして、夜明け後に回そう。


「……頑張った、よね。わたし」



 ちょっとは役に立てただろうか。


 電気を消し、布団の中に潜り込んで、菫はようやく震える事を許せた。

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