みーつけた

 女は自由である事を求めていた。

 女にとって自由とは、自分を否定されない。ただそれだけの、難しい事だった。


 愛らしいと自負していた。好まれる事、妬まれる事は日常茶飯事。それでも女は幼い頃からどこか物足りなさを感じていた。『色』を知ったのは二次性徴の前、汚らしい欲望の餌食になった幼い女が感じたのは嫌悪や恐怖ではなく、強烈な悦楽だった。

 欲しかったものをようやく見つけたというのに、その歪な感性を知った両親は酷く嘆いて女に不自由を強いた。教育を叩き込まれていけば、子供を守る親として当然の措置だと女は納得していても、やはり息苦しかった。


 子供だから駄目なんだ。大人になれば自由だ。

 女はずる賢く、自らの成長を待った。焦れる肉欲を抑え込み、数多の男を手玉に取り、そうして成人の時を迎えた。あとはもう、愛され求められる幸福の日々。

 抑え込んだ歳月の長さ故か、素質が開花したのか、女は何人もの男を食い潰した。去っていく者は放置した。縋りつく不能は追い払った。代わりはいくらでも存在したから。


 そんな女を、特別愛した一人がいたらしい。刺された。女にはよくわからなかったが、殺す事で独り占めになるらしい。

 自由な時間はたったの二年。あーあ、足りない。もっと欲しかったなあ。




「昴生くん、今日も休みかな」


「……どうなんだろ」


 異形、綿毛茸との遭遇から数日。休み時間になった菫とアルカは、教室で向かい合う形で昼食を取っていた。


 先日の織部宅での話し合いは、夕昂の帰宅によって有耶無耶となりお開き。

 綿毛茸を放置する事で起こる懸念。一つは被害者が増え続ける事、二つは人外の犯行が国内では留まらない大きな事件として取り上げられる事。

 その結果、事件に気付いた魔術師が綿毛茸を目的にやってくる可能性がある。犯行現場が菫の生活圏内であり、接触する可能性、もしくはアルカの存在を察知する可能性が高まる。


 それらを未然に防ぐため、昴生は綿毛茸を探し出し対処すると告げた。霊が活動するのは深夜帯、情報を得るために夜中に動き回っている、らしい。週が明けてから昴生は遅刻、早退、休みの連続で顔色が悪い事しか伺えない。

 多忙な彼に対し、菫とアルカはいつもの日常を過ごしている。手伝おうと声をかけたが、ばっさりと戦力外通告をされたのだ。


「やっぱりさ、わたしが目になるから一緒に」


「駄目」


「そうだよねぇ……」


 綿毛茸が昴生の考察通り、『結合』された霊だった場合、幽霊猫の声しかわからなかったアルカは見る事すら出来ない。逆に、見る事は出来る菫は非戦闘員だ。二人一組で手伝えないか、という菫の案はアルカと昴生の二人から却下され続けている。

 いつも通り過ごす、つまるところそれ以外出来る事がないのだ。昴生一人に負担を強いている現状をもどかしく思うも、役立ちそうなアイデアはない。生産性のない溜息しか出せない。


「そりゃ、あいつに任せっぱなしなのむかつくけどさぁ、菫が危ない事するのはおかしいじゃん。なんかやばそうな奴っぽいし」


「……そう、だね」


 役立たずだし。

 言われてもいない幻聴が聞こえた気がして、菫はいつも通り笑えているか少し自信がなくなった。アルカはただ心配をしているだけだとわかっているのに、傷が疼くように心がざわめく。よくない、これはよくない。


「手伝いは難しくても、何か出来ることないかな。アルカは何か思いつかない?」


「そもそも継片、されて嬉しいって事あると思う?」


「…………ひょっとして、ない? そんなことある?」


「だってさぁ、私は菫から泊まっていきなよーとか祭りいこーとかツリー見にいこーって誘われたら嬉しいし、おかずわけてもらっても嬉しいし、可愛いって言われても嬉しいけど、継片はどうよ」


 どこに誘ってもまず正気を疑われるし、迷惑そうな顔で菫の食べる量が減るからと遠慮しそうだし、可愛いをかっこいいに変えて言ったとしてもどうでもよさそうな反応で聞き流されそうだ。

 素直に首を横に振る。何も思いつかない。家でおとなしくいるだけのほうが喜ぶだろう。


「嬉しいとか、喜ばす方向の応援が難しそうなら、お役立ちアイテムの差し入れとか?」


「……銃刀法違反にならない武器とか?」


「……夜中に刃物とか鈍器持って出歩いてたら、違反にならなくても警察に捕まったりしないかな……あ、目立たないように黒い服とか」


「…………全身真っ黒で違反ギリギリの武器持ち歩いてる奴って普通にやばくない?」


「別の理由で声かけられちゃう……」


「前に菫が幽霊に効きそうとか言ってたやつ、なんだっけ」


「え? ええと、お札とか、お経とか……塩とか?」


「それだ」



 そうして、菫はスーパーで粗塩の袋一キロを購入した。


 購入後に、これ持ち歩くのに重たすぎるな、と気付き、持ち運びしやすいように小袋に分ける謎の気遣いを経て、とんでもなく違法性の気配漂う謎の白い粉末の小袋が出来上がった。


「……これを渡すためだけにわざわざ連絡をしてきたのか」


 アルバイトが終わった夜の時間帯か、昴生が活動し始める深夜でも都合が良いタイミングで織部宅に寄ってもらえるようにメッセージを送った。そしてバイト終了後、帰宅途中の小さな公園で待ち合わせする事になった。

 昼のやり取りを知らないまま、突然塩を渡された昴生は不可解な顔をしつつも受け取り、コートのポケットに入れた。


「め、迷惑だった? 色々考えて役に立つかなと思ったんだけど、塩は役に立たない? お清め用とか売ってないから、代わりの粗塩にしてみたんだけど……」


「清めの塩は死の不浄や穢れを落とすための行為だろう。有効対象は生者だ。試さなければ断言出来ないが、目晦まし程度だろう。……まぁ、目があるのかすら確認は出来ていないが」


「……もう、このあたりにはいないのかな?」


「移動している可能性は充分ある。このまま目的も痕跡も特定出来なければ、見つけ出すのは不可能だろう」


 ふぅ、と疲れたように吐かれた息が白く空気に溶けていくのを見て、菫はかける言葉を詰まらせる。大丈夫だよ、と適当な励ましをしても彼の疲れや心労は軽減されないだろう。菫と同じように帰宅していく人々の足音と、車が行き交うエンジン音が混じる沈黙を破ったのは昴生だ。


「……まだ八重樫さんから連絡はないが、在学中にルルさんの元に行く可能性も考えておいたほうがいい」


「在学中って、一、二年以内? うー、わぁ……なんか、時間制限が出ると急に現実味が増すね……」


「あくまで、このまま僕が何も見つけられず、この先も事件が続く最悪の場合だ。……用件が済んだなら、君は早く帰れ」


 冬の夜が似合う冷たく乾いてぶっきらぼうな物言いに、やはり家でおとなしくしている方が喜ばれそうだと菫は苦笑する。


「うん……呼び出しちゃってごめん、気をつけてね。またあ、あーええと、おやすみなさ、い?」


 また明日、と言いかけた言葉を、もしかしたらまた休むかもしれないと慌てて引っ込める。代わりに出てきたおやすみなさい、はこれから夜遅くまで起きて出歩く彼に対して失礼ではないか、と不適切に思えて口がまごつく。

 夕方に近い時間帯の挨拶に「こんにちは」と「こんばんは」で迷ったみたいになってしまった。


 曖昧に笑いながら自転車のスタンドを上げて帰る準備をしていると、昴生が向ける視線が、まるで何かを探るようなものに変わっている事に気付く。


「……どうかした?」


「もう一度、同じ事を言えるか?」


「へ? ど、どうかした?」


「違う。その前だ」


「ええ? え、ええと、呼び出してごめん、気を付けてね? あと、おやすみなさ、」


「君は口が小さいな」


「え、えっ、えっ!?」


 面倒くさそうに呟きながら急に距離を縮められ、唐突に顔を寄せられた菫は思わずぎょっと目を見開く。体が触れているわけではない、三十センチほど離れているとはいえ、完全にパーソナルスペースの侵略である。


 見慣れたとはいえ、継片昴生は片岡アルカと並ぶほど容姿端麗な美少年だ。

 近い、顔が近い。威圧感に心臓が暴れ出す。


「読み取りにくい。もう一度」


「ぉ、よ、呼び出して、ごめん、きをつけて、お、おやすみ、なさい……」


「…………、」


 何だろうこの状況。

 自転車が倒れないように押さえながら後ろに仰け反る姿勢で思う。


 考え事でもしているように自身の頭に片手を添える昴生と、意図せず見つめ合う状態になった。菫は困惑のあまり瞬きを繰り返し、身動きが取れずにいた。動くなと言われてないけれど、観察する視線があまりに真面目なため、邪魔をするのも憚れる。

 別に変なことを言ったつもりはないのだが、数秒の沈黙が責められているようでちくちくと肌がむず痒い。

 頭に触れていた彼の手が下りる。


「――……おやすみ、織部」


「え、お……おやすみなさい、昴生くん」


 何を言われるのかと身構えたが、受け止めたのは夜のしじまに溶けそうな声色が心地よく響く、ただの応答だった。


 菫の顔を覗き込むように傾けていた上体を起こし、いつも通り感情の読み取れない無表情の昴生はそれ以上話すことはなく踵を返して去っていく。

 拍子抜けと唖然が混じった軽い混乱状態のまま、菫はしばらく昴生の背中を目で追っていたが思い出したように自転車に乗り、帰宅した。

 夕食を食べて風呂に入り、翌朝の支度を済ませて布団に潜り込んだところで、悶々とした感情が溜息として噴出する。


 びっくりした。

 彼のことだから、何らかの目的があって顔を寄せたのだろう。理解はしていても、心臓に悪かった。


 いつもより早い心拍数が落ち着かなくて寝付きが悪い。菫は何度も寝返りを打ちながら、羊を数える要領で昴生の目的を想像した。

 言い直させられた何でもない言葉。注視するために顔を寄せられた理由。思い返してみれば、目が合っているように感じていたが実際彼の視線の先は少し下向きだったような。このあたりだろうかと指先で鼻と唇をなぞりながら、何度目かの溜息をこぼす。


 考えてもやはりよくわからない。その代わり、緩やかな眠気が忍び寄ってきた。スマートフォンで時刻を見ればもう布団に入って一時間近く経っている。もう考えるのはやめて、このまま眠気に身を任せよう。


 ――……何かが引っかかる。

 初めての事だったのに、彼とのやりとりは妙な既視感を覚えたのだ。


 そうして眠りにつく寸前に、ふと思い出す。

 まだ暑さが続く夏の日差しが差し込む教室で、アルカが語気強く溌剌と「おはよう」と声をかけた日。既視感の正体を。






 …………。

 ……………………。



 ……気持ち悪い。


 何かが気持ち悪い。眠りを妨げる不快感に菫の意識が浮上する。眠い、頭が重い。もう朝なのか、まだ眠っていたい。布団の中に潜り込んで寝直そうとして、動けなかった。

 動けない、――動けない? どうして?


 横向きになって放り出した腕と足が、重い何かで上から抑えつけられて、びくともしない。まるで誰かにのしかかられているように。

 ゾッと全身を走る怖気に体が跳ねて目を開けてしまう。部屋はまだ、真っ暗だ。


「起きた?」「おきたおきた」「あはは」「見ろよ、困ってる困ってる」


 視線だけを天井に向ける。暗い室内で、大きく歪な形の影が、掛布団と毛布越しに菫の体の上に覆い被さっていた。その形を、ノイズのような耳障りな声を菫は知っている。目撃している。

 どうして、どうして綿毛茸が、ここに。

 自室の侵入者の存在を暗闇の中で視認して、氷水を浴びたように血の気が引くと同時に体が震え出す。


「……あれ? この子もしかして見えてる?」


「――ッ……!」


 キノコの笠部分みたいだと思っていた歪な楕円が覗き込んでくる。真っ二つに裂けた縦のでこぼこな断面が開閉する動きは、生き物が喋っているようで、嫌悪感が増して思わず視線を逸らしてしまう。


「ああ、これ見えてるな」「まだ二回目だよ」「ラク」「ね、下処理めんどくないからいいこ」「いいこ? こいつは悪い子だ! どうしようもねぇクソ女の娘なんだからなぁ!」「わかっているとも、我らよ」


 何の話をしているのだろう。二回目、下処理が楽、意味がわからないけれど、一つ気になる言葉があった。

 クソ女の娘?

 それは、聞き覚えがあった。


「すぅちゃん、みーつけた」


 やたら機嫌がいい時だけ使ったその幼稚な呼び方も、聞き覚えがあった。

 信じられない気持ちで、菫はその怪物に向き合う。


「…………おとう、さん……?」

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