今は未だ正体見えぬ綿毛茸
その女は、憤りと共に生きていた。
女にとって世界とは、不条理で不自由。人生を損得勘定で例えるなら、損しかない。念願だった宝物は兄に奪われ、大切に作った物は母に壊された。借りただけだと返されても、わざとじゃないのと一緒に直されたとしても、それは女にとって『宝物』でも『大切に作った物』でもなくなった。
それでも女は兄と母を許さなければならなかった。そうしなければ、何故か女が悪者にされてしまうから。
物は駄目だ。奪われれば損なわれてしまう。女は技術を磨いた。技術は真似されても奪われても、女にとって損なわれない。
そうして社会人となった女は、上司から重用された。どんな難題でもこなせば、上司は褒めちぎるので女は非常に満たされた。人との交流が下手な女にとって、人と関わって初めて嬉しい日々だった。
一年、二年は平和だった。三年目、女が同期の年収よりも低い事を偶然知った。調べてみれば女の功績は全て、上司の能力として評価されていた。
技術は、女を人ではなく『利用出来る物』に貶めた。
その事実に怒り、しかし発露する事も出来ず、女は酒に溺れた。その後の記憶は途切れている。何が起きたのかはわからない、ただ女の人生はそこで終わった。
後悔するなら、終わってしまうならば、一度くらい本気で怒ってみればよかった。
菫は深々と頭を下げて、自分の考えなしの行動で振り回してしまった二人に謝罪した。
「改めまして、大変ご迷惑をおかけしました」
深夜、織部菫は眠る直前に害虫と遭遇し、片岡アルカに取り留めのないメッセージを送った、つもりだった。実際メッセージを送った先は片岡アルカ個人ではなくグループ『ask』、つまり継片昴生の元にも届いていた。
アルカはもちろん、昴生も就寝していたが、眠りの浅い昴生は受信音で目を覚ました。『どうしよう』『やつがでた』『いまお兄ちゃんいないのにどうしよう』に対し、『何があった』『やつとは誰だ』と返信するも無反応。電話も出ない。非常事態の可能性を感じて身支度もそこそこに昴生は織部宅へ向かった。『今からそちらへ向かう』と最後にメッセージを残して。
そして翌朝、その後の報告が何もない事にアルカも着の身着のままで家を飛び出した。
「それだけなら全然大した事なくてよかったー……で済んだんだけど、済まないんだよね?」
「……正直、情報は少ない。判断に迷うところだ」
織部菫は帰宅途中、衝突音と悲鳴を聞いた。
そこで泥の滴る異形と遭遇し、身動きが取れなくなった。
その一方、昴生は織部宅に向かっている途中、乗り捨てたように置き去りにされた自転車が菫の物だと気付いた。前かごの中にはコンビニのテープが貼られた『虫ケア★ゴキコロリン』と書かれた殺虫剤のスプレー缶。
やつとは何者か、メッセージを送る前後のパニック度合い、連絡が取れなくなった理由、――ただ、ゴキブリが出た。その絶叫だったと察した瞬間だった。
しかし、何故自宅から離れた場所に自転車とスプレー缶を放置しているのか、という新たな疑問が浮かんだ。そうして近辺を捜し、自転車から近い場所で蹲っている菫を見つけたのが深夜に起きた出来事の全貌である。
そして翌朝。アルカが害虫駆除をして朝食の買い出しの間に菫は二度寝。一時間ほど一眠りしてすっきり目覚めて、ようやく少女二人は情報交換を行う。
結局菫視点では何が起きたのか不明で首を捻り合っていたが、警察の事情聴取から一時帰宅し仮眠を終えた昴生から連絡が入り、こうして三人が織部家に集まった。
「わたし、全然何が起きたのかわかってないんだけど……本当に、あそこで誰かが死んでたの?」
「ああ。織部が隠れていた車庫のあった家、そこの住人の所在が不明らしい。さすがに身元確認までは探れなかったが、被害者は住人の男で間違いないだろう」
「いや、探れなかったって何。何をどうやってそんな話だってはっきり言えるの? 知り合い?」
複数の疑問を一度に投げるな、と昴生はぼやきつつ人差し指を立てる。
「一つ目、情報を得るためにいくつか魔術を使った。だが被害者に関しては調査途中で不明点が多く、身元確認を含め詳しくは探れなかった」
何の毛なしに話しているが、自白の魔術でもあるのだろうか。菫は少しだけゾッと震えた。しかし問われた側が知らない情報は答えられないらしい。
昴生は続けて中指も伸ばす。
「二つ目、住人と僕は赤の他人で、顔も名前も知らない。だが死体発見現場から、血が付着した窓を確認している。窓の位置は三階、僕は織部が聞いた衝突音、それが住人であり被害者となった男がそこから落ちた時の音じゃないかと推測している」
「え……わざわざ外に落とされたの?」
「いや、織部が聞いた悲鳴が衝突音の後であれば、落ちた時点ではまだ生きていたんだろう。死因とは別に、死体の手足が折れ曲がっていた事から、被害者は自らの意思で飛び降りたと考えられる」
何かがぶつかる重い衝突音。菫は交通事故を連想したが、三階からの落下音だと言われれば違和感はない。意識がない体が投げ出されれば、体の重い部分ーー胴体か頭から落下するはずだが、着地したのは恐らく手足。自ら飛び降りた可能性も納得出来る。
では何故、被害者は自らの意思で三階からの飛び降りたのか?
「三階って、打ち所悪かったら死んじゃうよね……?」
「そうかな? やろうと思ったらぴょんっと降りれそうじゃない?」
「片岡は自分を基準に考えるのはよせ。想像しにくければ、織部がやった場合を想定してみろ」
すぐに想像が出来たアルカはヒッと喉を引き攣らせ、落ちてもいない菫の手を必死に掴んだ。
「無理! 危ない!! 絶対に一人でやっちゃ駄目だよ! 飛び降りる時は私も一緒にだからね!」
「やらない、やらない」
止めてるのか推奨しているのかわからないが、身を案じているのはわかって笑ってしまった。
三階から飛び降りるのは危険、と認識を共有したところで昴生が話を戻す。
「まともな判断力があれば試そうとも思わない。だが、命を脅かす危険が迫っていたなら、どんな手段を使ってでも逃げるのが正常だろう」
「三階から飛び降りるほどの危険……火事とか? でも家は燃えてなかったし」
「火では無いものは見ただろう」
「え?」
最初、昴生の言葉の意味を処理しかねた。言っている意味はわかる、心当たりも当然ある。しかし、これまで彼から学んだ知識とは結びつかない。
菫の頭の中でアレは、彼らの魔術に近しく本来人の目に映らない、幻想に近いものだと思い込んでいた。
思い込みに気付いて、菫は細く息を呑む。
「あ、れは……普通の人にも、見えるの? わたしの目のせいとかじゃなくて?」
「わからない。だが、あの場所に魔力の痕跡は残されていない。魔術によって作られた使い魔の類ではなく、織部の証言から人間の犯行とも考えにくい」
「んん〜? つまり菫が見た綿毛茸が何なのかは結局さっぱりなわけ?」
いつの間にかつけていたらしい異形の名称に、昴生は「わたげたけ……」と物申したげに呟くが特に追求することなく飲み込んだ。
「最初に言った通り、情報が少ないんだ。確実とは呼べないが、心当たりはある」
「何?」
「幽霊」
「ゆっ……うれい……?」
急にオカルトな話になった。
いや、魔術の話全般がオカルトな話ではあるから、唐突な話題変更というわけではないが、しかし……幽霊。
菫もアルカも、予想外の回答に目を白黒させて顔を見合わせ、改めて昴生に向き合う。
「……わたし、幽霊って生きてた頃の姿で、半透明とか足がないとか、そういうものだと思ってたんだけど、違ったの?」
「大まかな認識としては当たっている。去年、君が猫を見つけたように生前の姿が多い。死を認識していると半透明や足がない場合もある。だが、多いというだけで枠内から外れた存在も当然いる」
「……あと、幽霊は、恨んだり呪うけど、生きてる人間を殺せないと、思ってたんだけど……」
「……そう、だな」
一番の懸念を肯定されたはずだが、彼らしくない煮え切らない答えに菫は不安が込み上げてくる。
半端な回答を納得出来ないアルカが前のめりに顰め面を向けて、焦ったそうに詰め寄る。
「継片さぁ、なんか隠してない?」
「…………」
「あっもう絶対なんか隠してる顔だ! やっぱりねぇ~そうだと思ったんだ! さっきから言ってる事がコンニャクみたいだったからね!」
「……君達の言葉のセンスはどうにかならないのか」
暴いてやったりと得意げな顔をしているアルカに対し、昴生は頭痛に苦しむように片手で顔を覆っている。
本当に何か隠しているらしい。だがアルカに図星を刺されて焦った、という様子はない。出かけた時の空が今にも雨が降りそうな暗い曇天で、雨に降られない事を願ったものの予想通り雨に降られたような、諦めとがっかりした気持ち。そんな雰囲気を感じる。
眼鏡の位置を直しながら、昴生はいつになく厳しい表情で二人を睨み付ける。彼が何を考えているのか相変わらずわからないが、菫は無意識に背筋を伸ばした。
「――……何度も繰り返すが、情報が少ない。これは、普段であれば君達が知る必要のない情報に分別するものだ。だが、今は判断に迷う。……これから話すことは、聞き流してもいい」
きちんと聞け、知識を頭に叩き込め。それがいつもの継片昴生だった。同じ口から出てきた『聞き流していい』という言葉にアルカは勢いを削がれて前のめりだった姿勢を正す。
昴生の言葉とは逆に、きちんと聞こうとする少女二人に重々しく溜息を吐く。
「幽霊に関して明確に答えられる事は少ない。生者である限り、踏み込めない領域の話だ。これは研究された結果ではなく、僕がこれまで見てきたものの話になる」
「昴生くんの心霊体験ってこと?」
「体験と呼べるほどのものはない。言葉通り、見てきただけの話だ。霊は生前の恨みつらみ、もしくは心残りを持ってるだけで基本は無害だ。勝手に存在して、勝手に消えていく。一部の例外として、僕は『結合』と認識していた。『結合』は何らかのきっかけで複数の霊が物体に癒着している状態を示す。山の中の大木に凍える者達、マンションの玄関扉に埋め込まれた者達、ペンダントの宝石をひっかくように突き刺さった何枚かの爪。そういう物があった」
「こわい」
アルカの素直な感想に菫も思わず頷く。こわい。山の中の木はともかく、マンションの扉とかペンダントなんてわりと身近なものだ。扉に埋め込まれた人って何。宝石に爪を立てるなんてどういう未練があったらそんなことが起こるんだ。わからない。木もこわい。
怯え出すのも構わず「聞き流せなければ離席しろ」と加えて、昴生は話を続ける。
「織部の話を聞いた時、君達の言う綿毛茸は『結合』された状態だと考えた。だが、僕がこれまで見た『結合』はどれも自力で動かないものばかりだ」
「あ、ああぁ……例外の中の例外が出てきてしまった感じですねぇ……」
「そうだ。幽霊が生前関係のあった人間に殺意を抱くのは不自然ではない。動く『結合』に殺人が可能だった場合、織部の証言や遺体の状態から考えても楽観視出来ない危険性がある」
「い、遺体の、状態?」
そういえば、聞いていない。恐らく一軒家から飛び降りたらしい住人というだけで、死因は教えられていない。
「上半身が無かった」
「……え」
「僕が見つけた遺体は、腹部から下半身、肘から下の左手、二の腕から下の右手。そして、血だまりに肉の塊が飛び散っていた。塊の中から視認出来たのは頭皮の一部らしき毛髪、眼球、生え揃った奥歯の一部、食道らしき管状の臓器の一部。元々上半身だった部分の遺体だと考えられる」
淡々と並べられていく言葉に理解が追い付かない。知っている言葉のはずだが、無意識に理解をしないようにしているのか頭の中を素通りしてしまいそうになる。
「何らかの工具か機械による犯行でありながら凶器は特定出来ず、上半身が粉砕された特徴的な変死体と、監視カメラにも捉えられていない姿の見えない殺人鬼。今回で六件目らしい」
「ろっ、けんめ……」
つい先日、菫が思い付きで鬼退治として話題に出した、連続殺人事件。
それはどこか遠い話のようで、自分とは無関係な出来事で、話にすら上がらなければ忘れられていく。それが脅威として、昨晩擦れ違った事実に気付いて背筋が凍る。
そして、あの異形は、なんと話をしていた――?
「『こんなもので。終われない。もう一度』……言葉の通りだと考えれば、また被害者が現れる可能性は高い。そして、警察では抑止力になれない」
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