おいたわしや

 その男は人生に疲れ切っていた。


 両親共に優れ、恵まれた家庭に生まれながらも、それに見合う優秀さに欠けていた。兄が父と同じ医学の道を、弟が母と同じ士業の道を進み、男はどちらにもなれなかった。そうして男は燃え尽き、努力を放棄した。


 親の勧めた相手と見合い結婚し、惰性に生き続けた。能力以上の努力を求められれば、親と兄弟の伝手を頼り何度も転職した。

 そうして煩わしい物を排除して、どうにか普通のサラリーマンを取り繕い、生かされてきた。


 結婚して二十年、男の妻が妊娠を告げた。最後のチャンスだから生ませてくれと懇願する妻と、それを支援する両親と兄弟に挟まれ、男は決断を迫られた。


 子供が出来れば、今までのように生きられない。男の中に喜びなど欠片もなく、今までのように放り出したかった。

 そうして男は、楽そうだという理由で駅のホームから一歩踏み出し、電車の前に身を投げた。男の中の最後の良心の決断だった。


 その時、男にとってこれまで排除し続けてきた煩わしい物は、自分の子を宿した妻だったから。





「すぐに来るそうだ。その前に、いくつか聞きたい事がある。話は出来そうか」


 スマートフォンで警察に通報し終えた昴生は、いつもと変わらない様子で尋ねてくる。なんだって彼はこんな冷静でいられるのだろう、菫は信じられない気持ちでいっぱいだ。


 支えにしている壁の向こうに死体がある。


 話を聞いただけの菫は動揺を隠せないのに、実物を直接確認してきた昴生は呼吸の乱れすら整えている。

 だが、繊細な外見とは逆に図太い神経を持つ彼が、今は頼もしい。


「だい、じょうぶ」


「厳しければ首を振るか、瞬きでもいい。質問の前に前提として、君も遺体を見たと警察に証言する。君からは警察に何を問われても答える必要はない」


「嘘ついて、大丈夫かな……」


「嘘ではなく黙秘だ。権利として認められている。今の君を尋問するとは考えにくいが、黙って首を横に振っていれば充分だ」


 菫は自分自身が今どう見えているのか客観視出来ず、少し不安を覚えるも頷いた。


「まず、君がここに隠れていたのは何故だ? 死体以外で駐輪場に何かを見つけたからか?」


「う、っうん。しんじてもらえるか、わかんないけど……」


 問われてすぐ、見たままの光景が脳裏に蘇り体が震え出す。

 これまで見たことの無い、おおよそ生物とは思えない何か。その近くに死体が残されていたのなら、あれは害を成す怪物だったのか。

 はぁ、と小さく呆れたように息を吐かれる。


「それを僕に言うのか?」


「……あ、そういえば、そうだった」


 継片昴生は魔術師。常人には見えないもの、不思議を能力として行使する側の人間であった。

 忘れていたわけでは無いが、菫にとって彼は色々と難しい友達でありクラスメイト、特異な存在である意識が薄れていた。


「織部の場合、会話が成り立つから正常寄りだと判断するのは早計だったな」


「もしや貶していらっしゃる?」


「そんな時間の余裕はないし、単純に精神状態の話だ。目を開いているにも関わらず六回の呼びかけに無反応、顔色は土気色で呼吸も荒い。揺さぶってようやく気付く状態は、どう考えても異常だった。まだ回復し切っていないんだろう」


「た、たいへんご迷惑を……」


 二回ではなく、六回も? そういえば視界がぐらついていたなと、言われて気付く。確かにそんな状態が健康的とは呼べない。普通の心配だったらしい。

 昴生は気にしていない様子で首を横に振り、黙り込む。

 本題の続きを促されているとわかると、菫は片腕でジェスチャーを加えながら話し出す。


「ええと、説明が難しいんだけど……まず、すごく大きかった。マンションの二階と同じ高さくらい。それで、形はキノコだった」


「キノコ」


「あっ、キノコって言っても椎茸みたいなふわっとしたのじゃなくて、なめことかエノキみたいに丸っこくて、でもその丸いところがすごく大きいのは椎茸っぽくて……」


「織部、悪いがキノコ以外で例えられるものはないか?」


「キノコ以外……こう、上が丸くて下が細くて、んん……そういう形に覚えはあるんだけど、んん、んんん……あっ、たんぽぽの綿毛!」


「たんぽぽの綿毛」


「泥まみれの巨大なたんぽぽの綿毛が喋りながらぐねぐねしてたの」


 昴生はとんでもなく渋い顔をした。

 菫の説明では、巨大なキノコとたんぽぽの綿毛がダンスする愉快な光景しか思い浮かばない。恐怖ではあるが。

 間違いなく彼女は恐ろしい体験をしたのだと、反応を見てわかっている。だからこそ、もう少し説明をどうにかならなかったのかと思う。


「今、四十度近い熱は出ていないな?」


「信じてくれてない!?」


「可能性を潰しているだけだ。正直、熱に浮かされて見た幻覚であったほうが良い話だろう。君の証言が正確であればあるだけ、状況は悪くなる一方だ」


 ぐうの音も出ない正論である。

 菫の見た三メートルの異形は実在し、昴生が確認した死体を作ったかもしれない。それが現実だとしたら、悪夢であった方がまだマシだ。

 だけど、菫は耳にしている。雑音の中の憎悪の合唱を。記憶を探り、輪唱する。


「……すべて、終えた。我らの恨みは晴れたか。憎しみは消えたか。わからない。こんなもので。終われない。もう一度……」


「……それが、君の聞いた声か? 独り言ではなく?」


「うん。もっと色々言ってた気がする。でも独り言じゃなかった。何人かが集まってわいわい騒いでるみたいに聞こえた。……その死体と、関係あると思わない?」


「無関係であればいいが、あると仮定すべきだ。それと、織部は今、片岡から魔術をかけられていないな?」


「え? それはもちろん……何で?」


「〈意思疎通シェロ〉で翻訳された言葉として受け取ったわけでなければ、その怪物は同じ言語を発していた事になる。それはおかしな事だろう」


 言語は、本能では無い。時間をかけて学んでいき、時に教わり、身につけていくものだ。ならば、あの異形は、流暢な物言いをどこで学び習得したのか。考えると背筋に悪寒が走る。

 異形は被害者らしき遺体の人物に恨みを抱いていた。一方的な憎悪を可能性だとしても、関わりを持っていたと考えられる。では、言葉を教えたのは被害者の可能性もある?


 考えていると横から光が差し込んできた。車のヘッドライト、パトカーが近付いてきた。驚いた事にパトカーだけでなく一般的な乗用車まで複数台現れて、大事になっていると改めて実感する。


「時間だ、僕は応対してくる。織部はそのまま動くな、あとは話した前提通りに。一応、君の自転車の回収も頼んでみるが、車への積み込みは難しそうだ。あまり期待はしないでくれ」


 何故自転車に乗ってきた事を知っているんだ。

 というか、そもそも彼が何故こんな時間のこのタイミングでこの場所にいたのかすら、菫は聞きそびれていた。しかし問おうにも動かず黙っているように指示されているし、すぐさま下車した警察官の元に駆け寄って行く昴生の背を見送るしか出来なかった。


 昴生の誘導で複数人の警察官が駐輪場の方へ向かい、若い男性の警察官が二人「大丈夫ですか」と菫に声をかける。反射的に頷きそうになるのを抑え、俯きがちに首を横に振る。体調を気遣うような言葉にも緩く首を振るだけで、申し訳ない気持ちになってくる。本当にこれだけで大丈夫なんだろうか。


 けれど不安をよそに、菫はパトカーの後部座席へ丁重に案内された。昴生が伝えていたらしい自宅の住所を口にされ、合っているか尋ねられたのでそれには頷いておく。彼は住所まで暗記しているんだ、と内心震えた。

 自転車を置いた場所までパトカーで移動し、前も後ろもしっかりカゴのある菫の自転車を見て助手席から降りた警察官が、積み込みは難しそうだと運転席の警察官と話している。


「そんな離れてないし、押してってやれば?」


「そうっすね。これ、運んじゃいますね~」


 軽い調子で声をかけられる。菫は申し訳なさ過ぎて放置していいと首を横に振るが、警察官同士はあまり気にせず車を発進、自転車を押しながら追尾する姿が遠く離れていくを見ていると、運転席の警察官がカラカラと笑う。


「だいじょぶだいじょーぶ、お嬢さんの戦いはおうちで、これから、でしょ」


「……?」


「ゴキブリ」


 不意打ちでその生態名を告げられ、菫は総毛立った衝撃で体を跳ねさせる。

 バックミラーでとんでもなく強張った自分の顔が見えた。当然運転席からも見えるようで、警察官はあえて明るい声で続ける。


「こんな時間に出てきてほしくないですよねぇ、ほんと。あいつら夜行性だから、見つけるの大体寝る前とかで。お嬢さんめっちゃ運が悪かったから、明日宝くじとか買ったら一等が当たるかもしれませんよ」


「…………」


 宝くじの一等当選確率は、売り場に向かっている途中に交通事故に遭う確率よりも低い、らしい。

 確かに、たまたま夜更かしした夜にゴキブリと遭遇し、たまたま誰もおらずコンビニへ向かい、帰り道に謎の怪物を目撃するのは、どの程度の確率だろう。三等は当たってほしいくらい不運だ。


 現実逃避をしながら、菫は首を緩く振り続けた。頭の整理が追いつかない。


 一体、昴生は何をどこまで把握して、警察にどう事情説明をしたのか。

 家に送られるまでの数分、自転車が運び込まれるまでの数分、殺虫剤を丁寧に手渡されて家まで送り届けてもらうまでの、ほんの半刻未満の短い時間で、ずっと慰められ続けた。


 帰宅して一人になると、全身が重い疲労感に襲われる。何もする気が起きず、布団に倒れ込んだ。洗面所の事も、歯を磨いてない事も、置きっ放しのスマートフォンも、全部後回しにして、意識を手放す。



 そして夜が明け、比較的早い時間帯に来訪者を告げるチャイムの連打音により、菫は起きるしかなかった。

 玄関の扉を開くと、朝焼けの薄暗がりの中、金髪の美少女が青い瞳を潤ませながら詰め寄ってくる。幻覚ではなく、アルカである。


「菫! 菫、大丈夫!? 大丈夫じゃない! 顔色やっば!! 夜に何があったの!? 起きれなくて本当ごめん! 返事全然返ってこないし一体何が――」


「……アルカって、ゴキブリ大丈夫な人?」


「は!? えっ、全然大丈夫な人だけど、えっ!? 本当に何があったの!? っていうか菫だけなの!? 継片は!?」


 まず起きたら害虫退治から。

 約三時間睡眠の寝惚け菫の頭は、非常にぽんこつだった。

 アルカの疑問に答えられる思考能力を取り戻せず、混乱している彼女に殺虫剤を手渡し、さらに混乱を深めさせた。


 波乱の夜明けである。

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