かくれんぼ
織部菫はとてつもなく後悔をしていた。
翌日は学校もアルバイトも無く、これといった予定もない前夜。気になっていた映画三本分の録画をまとめて消化した。夕食を食べながら一作、風呂に入り小休憩を挟んでさらに二作。どれも素晴らしい作品だった。ほくほく。
時刻は深夜二時。映画視聴後の高揚感はありつつも眠気のほうがやや強い。歯を磨こうと浴室横の洗面所に向かった時、――黒光りするヤツと相対した。しかも、飛ぶタイプの。
「ひぃ――やっ、や、いやああああ!!」
絶叫。そして絶望する。
こんな時はいつも夕昂が助けてくれる。だが、今夜は出張で不在だ。菫が一人で何とかしなくてはならない。
まず廊下に出て扉を閉め、閉じ込める。震えながら殺虫剤を装備して気付く。中身がない。
この間、「こわい」「むり」「やだぁ」と泣きの独り言を
スマートフォンに縋り付く。誰かに話を聞いてもらいたくて衝動的に『どうしよう』『やつがでた』『いまお兄ちゃんいないのにどうしよう』とメッセージを残すが、こんな時間だ。当然既読も付かない。菫のヒーローは健康的に熟睡中らしい。良い事だ。
事態は何も動いていないが、安眠する友人の姿が思い浮かんで少しだけ冷静になれた。
続いて自宅で害虫駆除出来そうな物を調べて、食器用洗剤が効くと知る。しかし床の洗剤の後始末を考えると、積極的に使いたいと思えなかった。新しい殺虫剤を買おうにも、近所の薬局どころかどこの店だって閉まっている時間だ。
「どうしようどうしようどう……コンビニ!」
生活用品の中に殺虫剤も置かれていたはずだ!
こんな夜中だが、このまま眠れるわけがない。早速向かおうとするが菫は部屋着から着替えるか少し迷い、とりあえず下だけ替えることにした。上はコートを着てしまえば問題ない。財布と鍵だけ持って外に飛び出した。
その間おおよそ五分。テーブルの上に放置されたスマートフォンがメッセージの通知をしていた事に、冷静ではない菫は気付けなかった。
自転車で夜の街を走る。菫は三軒目のコンビニに向かっていた。
一軒目は取り扱っておらず、二軒目はまさかの品切れ。こんなに寒い季節なのに不法侵入が多発しているのか。白い息を吐きながら、やり場のない気持ちでペダルを漕ぐ。
三軒目、かじかんだ手で殺虫剤を購入出来た。
良かった。これ以上遠くの店舗に行くか、一度戻って反対側の店舗に向かうか判断に迷っていたので無事に手に入って一安心だ。殺虫剤だけ買っていくから店員に憐れみと応援の眼差しを向けられた気がした。頑張ろう。
自転車を走らせると、前かごに入れた殺虫剤の缶が転がってぶつかる音がよく聞こえる。コンビニ近くの大通りは車が走っていたけれど、細い路地に入ればその走行音も遠くに聞こえるほどに静かだ。
ペダルの音、カラカラとチェーンが回る音、塗装された道路を滑るタイヤの摩擦音。静かすぎてなんだか落ち着かなくて吐き出した少し大きめの息。衝突音。
「ん?」
静かな夜に合わない音が聞こえて、菫は自転車のスピードを緩める。そして――
「あぎゃあぁぁああ!!」
静寂を裂くような絶叫を聞いた。
心臓をわし掴まれたような驚きに菫は一度、地面に片足を下ろして完全に止まる。見知らぬ男性らしき声はそれほど離れていない。先程聞こえた何かの衝突音といい、もしかしたら何か事故が起きたのかもしれない。深夜の事故は発見までに時間がかかり、手遅れになる場合があるという。
菫は自宅方角に背を向け、声の聞こえた方向に向かって自転車を走らせた。
交通量は少ないとはいえ大きな道路はまだ車が走っているから、別の人が発見してくれるかもしれない。でも、車が擦れ違えない道だった場合、気付かれないかも。
近くで車が走る音、もしくは救急車のサイレン、人だかりが出来ていればわかりやすいかもしれない。周囲に気を配りながら自転車を走らせ、一分もかからないうちに別の音を耳が拾った。
「やったぁ」
それは、何かの声だった。『誰か』ではなく、『何か』としか表現出来ない雑音。そんなものを声として認識した事に、菫は寒気を襲われる。不要になった紙をぐしゃぐしゃに丸めたり、ビリビリに破いた時の音が「やめてよ」と聞こえたような、強い不安と不快感を覚えた。
気付かれてはいけない。咄嗟にそう感じて、菫は自転車から降りた。
スタンドは立てずに自転車をよその家の外壁に預ける。かごの中の殺虫剤も抑え、慎重に行ったため音は鳴らなかった。息を潜め、足音を気にしながら声の聞こえたほうへゆっくりと近付く。
近所とはいえ、初めて通る道は深夜も相まってひどく不気味だ。マンションより一軒家の数が多いくらいで、菫が住む周辺と変わりのない普通の住宅地だというのに。
「全て終えた。我らよ、我らの恨みは晴れたか? 憎しみは癒せたか?」
また声が聞こえた。
「わからない」「おわり?」「たったこれだけのことで?」「恨みはまだ我らの中に」「ああ! 当然の事に気付いた! まだ我らが在るという、これが答えだ。どうだろう」「ウケる」
全て同じ音なのに、最初の歓喜するような声と、問いかけてきた声とはまた別のものに聞こえる。まるで何人もの人間が楽しく談話しているようだ。
それなのに、音は、ない。足音一つでもよく響きそうな静寂に包まれているのに、聞こえてくるのは雑音の合唱。その中に、菫が聞いた悲鳴の主らしき男性の声はない。
立派な一軒家と比較的綺麗なマンションの間、マンションの駐輪場として使われているらしい細い敷地を覗き込んで、菫は息を飲む。
それは、マンションの二階部分と同じ高さ……三メートルほどの巨大な泥だった。
子供がでたらめに成形した粘土に、細いコードや木の枝、壊した人形の手足が埋め込まれた歪な楕円の塊。それが宙で浮かぶように一本の細長い棒で支えられている姿は一本のキノコに見える。その全身が、頭を上げた蛇のようにうねうねと動き、その巨大な泥が生物だと視認出来た。
「――……、…………、ぅ……」
笠の部分にあたる楕円から、泥がずり落ちる音が聞こえているうちに菫は後退する。両手で口を抑えていなくても悲鳴なんて出ないほどに、喉奥に閉塞感があり呼吸すらままならない。
逃げたい。逃げられない。足が震えて走れる気がしない。音を立ててはいけない。見つかってはいけない。
そうして菫の出来た事は、一軒家のビルドインガレージ内にある車と外壁の間、一番近くの物陰に身を潜め、息を殺すだけだった。
「そうとも、我らはまだ満ち足りていない! こんなもので終わらない!」
べちゃりべちゃりと、泥を振りまいているのか、異形が興奮気味に喋り続けている。その様子から気付かれていないと菫は自分に言い聞かせる。そうしないと、その演技じみた言葉をわざと聞かせているのではないかと、悪い予感で壊れてしまいそうだった。
「今度こそ、正しき生を! 納得ゆく死を! 我らは得るのだ!」「いいよ」「楽しくなってきたね」「もういいと思うけど勝手にしたらいい」「何する?」「ああ、我らが我らになってようやく得られた」「もう一度、」
げらげら、げらげら。愉快そうに雑音が遠ざかっていく。
……、…………。
夜の静寂が戻る。もう、いなくなっただろうか。それでも菫は恐ろしくてガレージの外に目を向けられない。手の隙間からこっそりと呼吸をし、縮こまった状態で体を震わせるだけ。
どうしてこんなにも怯えているんだろう。情けない。映画の中の主人公であれば、このガレージの中からちょうどいい得物を見つけて、勇敢に挑むだろう。
例え武器なんてなかったとしても、魔術なんて知らなかったとしても、片岡アルカは挑んだのに。
織部菫は挑めない。武器もない、魔術なんて使えない。そんな言い訳を大義名分にして、自分の身と体裁はしっかり守る。
小物臭がひどくて、卑怯で、ああ、そう、役立たず。よく言われたせいで身に染みているんだろう、灰汁みたいに浮かんできた。子供の事なんてよく見てなさそうな人達だったけれど、やはり親なのだろう。子供の本質を見抜いていたのかもしれない。少しでもフィジカルを鍛えたくて体育の授業を真面目に取り組んでみたり、頑張ってみたけれど、そんなもの、役立たずのくせに。……風通しがいいはずなのに、ガレージの中にいるからか、オイルのような匂いがする。嫌な、嫌な、におい。車がひしゃげた時の幻聴がする。衝撃で体が揺れ、揺れ? 事故の時は揺れたというより飛んだような……。
「――……りべ、織部! 悪いが、触れるぞ」
「ぁ、う……?」
「意識は、あるな。声は聞こえているか? 気分は悪くないか」
「あ、れ……こ、うせい、く……?」
肩が解放された感覚と共に、体の揺れが収まる。そして目の前の少年のおかげで、自分が今、車中にいない事を思い出せた。喉の閉塞感が残っていて、うまく声を出せないけれど、目を合わす。
どうして彼がここにいるのだろう。
昴生が呼吸を乱している姿の珍しさも相まって、菫はまだ夢の中にいるような心地で瞬きを繰り返す。
「……何故こんな場所にいた。こんな深夜に、一体君は何から隠れていたんだ」
「…………も、う、いない? そこ、ちゅうりん、じょ」
「駐輪場……隣のマンションのか? 確認をしてくる」
「え、あ、あぶ、いっちゃ」
昴生は訝しげに立ち上がって菫が指差した方向、異形の泥がいたマンションの駐輪場に向かっていった。咄嗟に聞いてしまったが、危険を伝え損なっている事に気付いて手を伸ばすも遅かった。ざざ、と足音が遠くなっていき、どうする事も出来ず不安を覚えながらも待ち続けていると、早足で戻ってきた。
安心して見上げた昴生の表情は、酷く険しいものだった。
「織部、君は何を見た」
「え……」
「いや、違う。それは後でいい。君はあの場に、残されたものを見たのか?」
「のこ、のこされたもの? え、と……泥、っぽい、ものとか」
あの異形のインパクトが強すぎてその他の事はよく覚えていない。重く湿った音を立てながら落ちていた泥の事だろうか。暗い中、遠目で見ただけなので、ひょっとしたら泥ではなかったのかもしれない。
曖昧に答えると、昴生の剣呑さが少し和らいだように見えた。
「見てなければいい。君は、このまま一人で帰れそうか? 夕昂さんも今、在宅ではないんだろう?」
「え、ぇと……腰が、抜けてるようで、す」
よその家の壁を、外壁といえ内側からべたべた触るのは申し訳なかったけれど、体重を預けながら立つのが精いっぱいだった。情けなさを誤魔化そうと笑ってみるけれど、昴生は相変わらず冷めた反応のままだ。
「仕方ない。君の事も警察に任せる」
「け、警察?」
「人間の死体があった。僕が発見者として通報する。君は遺体を見て気分が悪くなった事にして、何も喋らなくていい」
スマートフォンを取り出しながらつらつらと明らかにされていく状況と指示に、菫は混乱した。わけがわからず、まとまりのない思考の中で、織部菫は後悔する。
ただ夜更かしをしただけなのに。
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