三章 嗤う鬼
本編
恒星の語らう夜
「こんばんは、夕昂さん」
「うっお、ぉ……び、っくりした、えっと昴生くん、こんばんは」
いつもの帰り道、会社から自宅までの距離は二十分もかからない。運動不足にならないようにかれこれ数年歩いて帰っているが、夜深い住宅街の道は人と擦れ違う事はとても少なく、声を掛けられる事も珍しい。背後から呼び止められたのは初めての経験だった。
だから成人男性が高校生男子に驚かされて恥を感じる必要はないと、織部夕昂は自分に言い聞かせる。
妹の友人、継片昴生と会うのはこれで三度目だ。
夏に一度、去年の暮れに一度、自宅で勉強会をしている時に挨拶を交わした。それきりの間柄で、わざわざ後ろから近付いてきて声を掛けてくるのは、彼の印象からしても少し意外だった。
「すごいな、よく俺だってわかったね。後ろ姿だけだと知らない人かもとか思わない?」
「いえ、背格好と姿勢、歩き方でおおよそわかります」
「うん、それすっごい特殊能力だから」
特に理由はないけれど背中をしゃんとさせた。特に理由はないけれど。
「昴生くんはこれからコンビニとか?」
「散歩です」
「え、今? 体力すげぇな……俺、これから帰って散歩しよ、とか考えられないな……」
「……遅くまで、お疲れ様です」
表情に変化は乏しいものの、声色には労りが込められていた。社会に出ると面倒な大人に囲まれることが多く、腹立たしい思いをするのが通常だ。一回り年下の子供から向けられる純粋な心配は胸に来る。いいこだ。
けれど、まだ補導を受ける時間ではないとはいえ、夜遅くに一人で出歩く事に慣れている様子の、彼の家庭環境を想像すると苦い気持ちになった。
妹の交友関係の繋がりがいまいち謎だったが、境遇が似ているところで共感し合い、居心地よく感じているのかもしれない。――魔術など知りもしない夕昂はくたびれた社会人の顔をしながら、密かに胸を痛めた。
「お疲れのところ申し訳ないのですが、夕昂さんに聞きたい事がありまして、お時間いただけますか?」
「え」
思わず自分を指差した夕昂に、昴生は頷いた。どうやら聞き間違いではないらしい。妹ではなく、友人の兄にあえて聞きたい話が想像出来ない。
そもそも、夕昂に何か聞きたいだけなら菫を仲介させた方が早い。だがそれを選ばなかった。今夜、わざわざ声をかけてきた理由が、聞きたい話があるという目的があったためなら納得だが、尚更そうしてまで聞きたい話がわからない。ただ菫を仲介しないなら、菫に聞かれたくない話題と言う事だろうか。
異性の菫に聞かれたくない、同性の夕昂に聞きたい話。えっ、やだもしかしてそれって猥だ――
「亡くなったご両親の話を聞かせてください」
「ごめん」
「……話しづらい事だと重々承知しています。急なお願いですし、後日でも」
「いやちがうそうじゃない、全然話す。でもごめん、ちょっと気持ちを整えさせて」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
深々と一礼する少年を申し訳なくて直視出来なかった。深呼吸を繰り返し、真面目な話をする気構えに切り替えて、顔を覆っていた手を下ろす。
「ええと、両親って、うちの両親だよな?」
「はい。事故で亡くなったと伺っています」
「そっか」
何度か家に訪問していれば、兄妹だけで暮らしているとすぐに気付くだろう。菫の口から事故を話していると知れて、夕昂は少しだけ安堵する。
あの事故が妹の中で消化出来るほど過去の話になったのかもしれない、話してもいいと思える友人が出来たからかもしれない。どちらにしても妹にとって良い成長を経ていると感じ取れた。
「……どうかしましたか?」
「いや、事故は六年前なんだけど、その時菫はまだ小学生だったから、大きな怪我はなかったけど、目の前で親が死んだショックはでかかったみたいで、その頃はまともに話も出来なかったんだよ」
「――……」
「だから、少しは話せるようになったんだな、と感慨深くなったんだ」
「……、そうですか」
昴生が小さく息を呑む音は、夕昂の耳には届かなかった。
「で、うちの両親の話だっけ。恥ずかしながら、俺から話せる事はあんまないんだ」
「何故ですか?」
「すんごいストレートに聞くね。あー、んん〜……聞いてて楽しい話じゃないよ?」
薄く口を開いて数瞬の間を置き、「――、はい」と続きを促してくる昴生の反応が、他に何か言いたい事があったように見えた。けれど話の腰を折るつもりはないらしい。夕昂は少し重い口をこじ開ける。
「俺の母親、生みの親は死んでるんだ。十六年前に。それで、葬式やらなんやらバタバタして、四十九日も終わってない時に、父親がお腹が重そうな妊婦連れて、『今日からこいつが新しいお母さんだ』とか言ってきたんだよ」
「それは……、心中お察しします」
「普通にコメントしづらいよな。俺も子供だったとはいえ、まぁ……色々察したし、父親にも継母にも猛反発。そのまま長ーい反抗期になって就職して家を出て、少しも仲良くなろうとか考えなかった」
生みの母は気弱な人間だったと、大人になった夕昂は回想する。
口が悪く短気な父に母はいつも怯えていた。家庭内暴力、モラルハラスメント、当時はなかった言葉が合う、そんな家族だった。
冷たい冬の日、母は自殺に成功した。夕昂が知る限り五度目の正直だった。寂しさと悲しみと、これでもう震えながら救急車を待つ必要がない仄暗い安心感は、今も褪せることなく思い出してしまう。
そんな嫌な記憶が比較的マシに感じるほどに、遺された父とやってきた継母の存在は当時の夕昂にとって害悪そのものでしかなかった。母が自殺を試みるきっかけになったのは父の浮気だ。どんな神経をしているのか、大人になった今でも理解出来ない。事故死した今も、素直に悼む気持ちになれない。
「そんなわけで、愚痴なら山ほど言えるけど、親のこと話せるほど知らないんだ。ただ、子供の気持ちとか考えない、そういう嫌な大人だったよ、ずっと」
「……その時の子供が、」
「菫だよ」
妹だ、と見せられた小さな命は、汚らわしい存在に見えた。産まれたばかりの命を、父と継母と同等だと拒絶していた。
だけどそれは、ほんの僅かの時間。
子育ては大変だ。命懸けや戦場などと表現されるほどに壮絶。菫の両親はそんな苦労を嫌い、育児を押し付け合った。どちらも折れなければ放置され、転落防止の柵で囲われた赤ん坊があまりにも哀れだった。
見て見ぬふりをすれば死んでしまう、泣き声すら弱弱しい小さな命を放っておけなかった。業腹ながら父の言う通り、夕昂は腹違いの妹を守らなければならない兄になっていた。
「彼女は、知っているんですか? 母が違う事を」
「え? 知ってるはずだけど……」
継母は機嫌が悪くなれば、すぐ夕昂を自分の子供ではないと罵倒していた。こちらとしても母親になってほしいと一度も思えなかったので、幸いにも傷付いたりしなかったけれど。
そんなやり取りを間近で見ていた菫に、生みの母が違う理由をオブラートに包んで教えたことはある。子供が出来る方法も人が死ぬ事もよくわからない幼い妹は混乱した様子で『兄ちゃんは兄ちゃんじゃないの?』と泣き出して、違う違うと慰めて困りながらも、可愛くて仕方なかったのを思い出した。
胸が温まる記憶を掘り起こして顔が緩んだ夕昂とは違い、昴生は片手で口元を覆い視線を落としていた。表情に変化は無いが何か思い悩んでいるように見える。
「……ええと、大丈夫?」
「はい。聞かせていただき、ありがとうございます」
「知りたい事は知れた感じ?」
「いいえ。ですが、夕昂さんのおかげで見落としに気付く事が出来ました」
どうやらここまでの話で何か発見があったらしいが、夕昂には全くわからなかった。話したことと言えば、事故死した両親が人間のクズだった事と、腹違いの兄妹である事くらいだ。
それでも、妹に関する話である事は察せた。
「菫、なんか悩んでたりしてた?」
「……いえ」
「でも昴生くんが俺に話を聞きに来たのって、菫の事で何か気になったからだよね?」
「やや正確さに欠けますが、そうです」
より正確に言うとどうなるんだろう。少し好奇心を擽られたが、若者の言葉を冷やかす年寄りは嫌われるとよく知っているため、「そっか」とにやけそうになるのを堪えて一言だけに留める。
夕昂の個人的な興味は抑え込むが、――妹の兄として、願いを預けるくらいはしたい。
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