太陽の願い事
「菫は、結構お転婆だったんだよ。木に登るのが好きで、泥だらけで帰ってきたり、知らない道を考えなしに向かう迷子常習犯だった。俺が面倒見てたから言葉遣いも男っぽかったり、腹減ったから兄ちゃんなんか作って、とか急に言ってくるような、元気いっぱいで甘えん坊で結構がさつな子供だった」
唐突な昔語りに困惑を浮かべる少年に構わず、言葉を続ける。
「それが、事故の後、全く無くなった」
「――――……」
「おとなしくなった。静かに笑う事が増えた。女の子らしくおしとやかに成長をした、なんて思えなかった。中学に上がっても、化粧っ気もないし服だって安物で、髪も自分で切ってた。学外で友達付き合いをしない、部活にも入らない、俺の金をかけてまでやる理由がないと言う。中卒で働くと言い出した時も、高校までは通えと言ったら『お兄ちゃんがそう言うなら』だと」
親の死か、事故のショックか、妹は変わった。
物分かりが良く、良すぎるくらいの良い子になってしまった。年々生活力を身に着けていく妹の変容があまりにも痛ましかった。
慎ましく生きようとする姿勢を崩そうと、もっと甘えていいんだと訴えた。もうずっと甘えていると誤魔化された。
原因を探ろうと、事故の日に何かあったのか問い質した。話せるようになるため時間が欲しいと乞われれば、無理強いする事が出来なかった。
妹は、何もかも抱え込んで拒み続けている。大人として早く自立して、夕昂の願いから逃げ切ろうと考えているのがわかる。かつて夕昂が、父親と継母から離れる事を最優先にしたように。
突然、言葉を捲し立てられた昴生は、眉を寄せて困惑を露わにする。
その表情に、まっすぐ見据えたままの瞳に、嫌悪の気配はない。憐れむ様子もない。
「……何故、そんな話を」
「君が本気で、菫のことを怒ってくれそうだったから」
「仰る意味がわかりません」
「まぁ、これからも妹と仲良くしてやってほしいって話だよ」
ずるい大人のそんな言い回しに少年は納得いかないのか、唇を真一文字に結んでいる。そんな青い反応に、そうだよなぁと、夕昂は思わず笑ってしまいそうになった。
家族から怒られるのと、友達から怒られるのは違う。
その違いがわかる大人になってしまった今、夕昂の言葉は菫にとって諭すものにしか響かない。少なくとも、知らず知らずのうちに積み重ねた言葉が、お転婆な少女が、おとなしく家庭的な、今の織部菫へと変わっていってしまったように。
もしかしたら、妹は望んでいないのかもしれない。現状で幸福を得ているのかもしれない。満足しているのかもしれない。
――馬鹿、足りない。そんなんじゃ、全然足りないんだよ。
満足するなよ、そんな些細なことで笑うなよ。まだ子供なんだから甘えろよ。幼い妹を置いて家を出た非情な兄を許せないならそれでいいから。家族に甘えられないなら、別の誰かでもいいから。
「……尚更、理解しかねます」
夕昂の思考を遮るように昴生が静かに異を唱える。
「それは、僕ではなく片岡に話す内容ではありませんか?」
「アルカちゃんに?」
精巧な人形のような美しい少女。彼女については妹の友人としてより、会社の後輩の妹分としての印象のほうが強い。やれ、突然現れた家族ではない一回り近く年の離れた女の子をどう扱えばいいのか困るだとか、中学生は気難しくて何考えてんのかわからんとか、俺のせいで家に帰らなくなったあの子に何かあったらどうしようと、弱音を聞いたりした事もあった。
いつの間にか愚痴を聞く事が減り、夕昂からあえて尋ねる理由もなく、気が付いたら妹の友達として我が家に顔を出すようになっていた。
確かに、アルカは菫に対して特別親しみを感じているように見える。二人は仲良く、これからも変わらず友人であり続けてほしいと願ってはいる。願ってはいるのだけど……。
「……アルカちゃん、俺と二人だと全然話してくれないから……」
「……ああ、」
会う機会が少なく、接点もほぼなく、顔を合わせた時は全力で挨拶される。それだけ。だからこうして真面目な話どころか、軽く雑談すら出来ない。まともに話せたのは去年の今頃、初めて会った時くらいだ。
何故か妹の友人として再会してから、真っ赤な顔で潤んだ瞳を向けられるようになった。彼女の反応と妹の探りから思い当たる理由はあるものの、理由が生まれたきっかけの心当たりが夕昂にはさっぱりなかった。
けれど、物知り顔な少年はばっさりと言い切る。
「片岡は、夕昂さんに好意を持っているので仕方のない話ですね」
「……、……あぁ〜、うーん、そっかぁ、君か……君がそれを言っちゃうのかぁ……」
「今の話に何か懸念点がありましたか?」
「懸念点っていうか、俺の気持ちの問題だから気にしないで……」
一回り歳の離れた妹の同級生、とびきりの美少女から恋慕される。友達の話であれば盛り上がれたかもしれない。物語であれば心くすぐられたかもしれない。
実際に現実で好意を向けられた夕昂の心情は酷く複雑であった。
好意は素直に嬉しい。しかし夕昂にとって、片岡アルカはどうしようもなく子供だ。子供と恋愛出来るかと自問すれば、無理寄りの難しいが正直な自答である。彼女達の曖昧な態度にのらりくらりと乗っかり、子供らしい一過性の熱病だと思い込んで、気付かないふりで問題を先送りにし続けた。たった今目の前の少年から改めて現実を突きつけられてしまったが。
夕昂は思わず頭を抱えていた両手を下ろし、溜息を零す。その間も、昴生は姿勢を崩さない。
「片岡の事はあまりよく思っていないのでしょうか?」
「えっ!? いやいや、かわ、とっ、とっても良い子だとは思ってる、よ?」
まさか深掘りされるとは。思わず声が裏返ったし、余計な本音が頭を出した気がする。
大人の狼狽を見て空気を読んだのか、それともどうでもよいと考えているのかわからない無表情で少年は僅かに目を細める。
眩しいものと向き合うように。
「では、婚姻を含めて今後とも検討してください」
「こォッ!? こっ、ここ、こ……ッ!?」
「やや気が早いかもしれませんが、女性は結婚が可能な年齢なので」
「け、エェ――ッ!?」
今度こそ夕昂は声が盛大に裏返り、ニワトリになった。大人の威厳は霧散した。
普段出さないような声を上げたせいでむせ返り、原因を作った少年はよくわからなそうな顔で気遣うような眼差しを向ける。
人間とは、理解出来ないものに対して恐怖を抱く。
つまり夕昂は怖くなった。高校生怖い、何を考えているのかわかんない。どういう気持ちでそんな話をしているの。高校生の頃どころか大人の今でもよくわからなくてとてもこわい。――けれど、人間とは対話によって相互理解を深められる。
「どうかしましたか?」
「いや……うん、そうだね? 俺の年齢を考えても、結婚を視野に入れたお付き合いをするのはおかしくないし、色々と過程をすっ飛ばした話も一旦わきに置いておこう。そのうえでちょっと、聞きたいんだけど」
「はい」
「昴生くんは……俺と、アルカちゃんが、結婚してほしいとか、考えてるの?」
「そうですね」
平坦な声のままあっさりと肯定された。深められたのは理解ではなく謎だった。
夕昂が高校生だった頃、一回り年上のクラス担任と同年代の彼氏と付き合っているという女生徒はいた。直接の交流もないため真偽は不明だが、当時の夕昂の感想は『何故おっさんと付き合うのか理解出来ない』だった。
当時おっさんだと思っていた歳の大人になった今の夕昂の感性はあまり変わらず、年齢差が離れた年上はまだいいが、年下は厳しい。主に倫理感の面で厳しい。
「普通は、やめたほうがいいとかいいって思ったり、反対するものじゃないか? 君達からしたら俺なんておっさんだし」
「夕昂さんは年齢差を重要視されているようですが、僕にとってはさして重要ではありません」
「……なら、昴生くんが重要だと思っているところって?」
その踏み込むような質問は、妹の菫がケーキの写真を送った際に『深追いしてはいけない』と直感し、受け流したものだった。そんな事を夕昂は知る由もないし、昴生の人となりを知るには時間が足らず、やや冷静さを欠いていた。
昴生は問われた質問に対し、真面目に思案する。その沈黙の時間だけが夕昂が後戻り出来る最後の一瞬だったが、気付けるわけもない。
「重要視しているのは……片岡が、貴方がた兄妹の家族として迎え入れられる事、でしょうか」
「……、…………ん? んん?」
「すみません。考えてみたのですがあまりに形容しがたく、納得のいく説明が出来る言葉が出てきませんでした。結論としては答えた通りなのですが」
「そ、そう、ナンダ。うん、何となくわかったような気がする、かも?」
思わず言葉がぎこちなく固まったし、とんでもなく嘘をついた。いや、わかる。わからないけれどわかる。彼の言っている言葉の意味は理解出来ても、何故そんな回答に至ったのかまでは全くわからなかった。しかも彼自身としては満点の回答ではないらしい。
少しだけ、妄想した。
もしも片岡アルカが、織部家に家族として迎え入れられた未来。勝手な妄想の中で義理の姉妹となった菫とアルカが笑い合う温かな光景。それを近くで眺められる自分がいて、――それ以上の妄想はまずいと理性が制止させた。とんでもなく恥ずかしい妄想をしてしまった上に、想像が出来てしまった罪悪感に夕昂は悶絶しそうになる。
たった今、夕昂の頭に浮かんだ光景が、目の前の少年の答えだとしたら、尚更理解が出来ない。どういう人生を歩んだらそんな発想の高校生が生まれるのかと。人間とは対話によって相互理解を深められるはずだったが、深められたのは謎だけであった。
けれど、別に構わない。夕昂にとって重要なのは、目の前の少年がこれからも妹の良き友人であってもらいたいだけだ。少々癖が強すぎて胃もたれしたような気もするが。
「そうですか。……すみません、長々とお引止めしてしまって。お疲れのようなので失礼致します」
「ああ、いや、こっちこそ……。菫の事、それにアルカちゃんの事にも気にかけてくれてありがとう。昴生くんちはこのへん? 夜遅いから気を付けて帰ってね」
「はい。それでは」
丁寧に一礼した昴生から視線を外し、夕昂は自宅への道を歩き始める。
「――……〈
背後から、小さな声がした。
けれど夕昂の耳に馴染みのない言葉だったため聞き取れず、知らない曲のメロディのように感じた。その声は先程まで話していた昴生のものだとわかったので、思わず振り返る。そして昴生が思ったより近くにいて驚く。
「すみません、肩にゴミがあったので。髪に引っかかりましたか?」
「あっ、取ってくれたんだ。ありがとう。全然痛くなかったから大丈夫だよ」
「いいえ。では、失礼します」
昴生が右手に持った細い小枝を見せてきたので夕昂はすぐ納得して礼をするも、何でもない事のように会釈して昴生は去っていく。実は人生三週目くらいなんじゃないかと思いながら、夕昂は帰路につく。何をされたのか、何も気付かないまま。
夕昂と別れてすぐ、昴生は右手に持っていた枝を元々落ちていたあたりに放り投げる。ポケットに忍ばせていた左手を出し、摘まんでいた数本の髪を確認すると丁寧にティッシュに包んでしまい込む。
肩にゴミがついていたと右手を見せながら、左手で夕昂の髪を引き抜く。それが先程の夕昂の死角で起きていた傷害である。
夕昂の話を静かに聞きながら、昴生の頭には一つの可能性が浮上してきた。それがもしも、事実であった場合を考えて、確かめねばならないと突発的な犯行だった。
ただの思い過ごしであればいい。
形容しがたい理由で思い浮かんだそんな思考に、昴生は苦々しく顔を歪めた。
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