少女達の始まり

「おまたせ、帰ろ」


「うん」


 下校時刻。

 菫がアルカに声をかけて共に教室を出ると、それだけで周囲が俄かに騒めいた。


 特定の個人と積極的に関わろうとしない孤高の美少女がクラスメイトと並んで帰る、たったそれだけで周囲の視線と話題を掻っ攫った。……明日、質問攻めされそうだな、と菫はひっそり覚悟する。

 そんな周囲の様子に気付いているのかいないのか、アルカは「ねぇ」と控えめに声を上げる。


「ひょっとして、放課後忙しい感じだった?」


「ううん、たまたまだよ。明日はバイトが入ってて、今日買い物しておかないと明日の夕飯と明後日の朝ごはんに困っちゃうんだ」


 一般的な高校生であれば、放課後は大抵暇だろうが、菫は少し事情が違う。

 普通の会話であればここで「どうして?」と問われるところだ。慣れたものだと次の言葉を用意するけれど、アルカは特に追求せず、菫の多忙を素直に納得した。


「ふーん、そっか。もし重い物買うなら荷物持ちするけど」


「え? いやー片岡さんに重いものは持たせられないかなぁ」


「大丈夫だよ。ほら、おるべさんくらい平気で持ち上げられるし。ね、いけるいける。何買うの? 米?」


「ふぇッ!?」


 アルカは平然と片腕で菫を抱き上げた。

 ほぼ同じような体格、それどころか身長は菫よりアルカのほうがやや低いにも関わらず、幼子のように軽々と持ち上げられて、菫は咄嗟にアルカの頭にしがみついた。


「あ、これならおるべさん疲れないしちょうどいっか。このままスーパーまで軽く走っちゃうよ。そんで話があってさ」


「まま、ま!? まって! 色々待ってぇ!?」


 気になる点を上げるより早く、とんとんと彼女の会話も移動速度も上がっていく。速い、速すぎる。

 菫が戸惑いながら止めるまでにアルカは校門を通り抜けたし、まともに会話が成立しない状況でアルカは放課後を誘った本題を話し始めようとするし、菫の名字はおるべさんではなく織部さんである。


 校門から数歩駆け抜けたところでアルカは足を止めた。

 きょとんと可憐な少女の体裁を保っている一方で、担がれていただけの菫は軽く息が上がっていた。


「どうかした?」


「……お喋りするなら、隣で歩きながらが、いいな」


「そう? 爺さんは楽でいいって言ってたんだけど」


「うん……初回の驚きがなくなれば、楽と言えば楽なのかも……?」


 そうして菫の足が水たまりの残る地面につく。

 深々と息を吐いてアルカの隣に並ぶと二人はゆっくりと歩き出した。


「今日だけで片岡さんのイメージが変わったから、すごく驚いちゃった」


「私のイメージ?」


「もっとおっとり? おとなしいというか……人をだっこしたり、水をがぶ飲みしたりしない人だと思ってた」


 品の良いティーカップに香り高い紅茶。シュガーポットから出した可愛い形のデザインシュガーを静かに溶かし、ほんのり甘くなった鮮やかな飴色に口をつける。

 そんなイメージが似合う片岡アルカは、愛らしい顔立ちを渋くする。


「あー……うん、うん。なるほど……その水のがぶ飲みのことなんだけど」


「うん、……あっ、誰かに話したりしないから、大丈夫だよ」


「え? 大丈夫なことなのに、おるべさんあんな顔してたの?」


「んん? そっちの大丈夫というか……あんな顔、ってどんな?」


「小皿に残った刺身醤油をこうぐいっと飲み干した時の爺さんと同じような顔してたから、まずいことしちゃったのかと思ったんだけど……そうでもなかった? トイレの水つっても似たような蛇口から出てるし、まずくはないよね?」


「その言い方はだいぶまずく聞こえる」


 飲める水が出てくる水道が全国に通じていて、手を洗う蛇口も水洗トイレの水も同じ水であるのはわかっている。だがトイレの水を飲むというワードは生理的にまずい。

 アルカはその違いがわからずに眉を歪ませていた。


「ええぇぇ~……何がまずいの?」


「えっと、トイレの水って言葉だけを聞くと便座のほうを想像しちゃうからかな? もっとこう、洗面台の水とかならまだ……」


「あー場所かぁ。確かに場所は大事だよね。お風呂で体のついでに食器洗ってたら怒られたなぁ」


「あと、わたしが刺身醤油顔になってたのは場所がトイレだったのが半分で、もう半分は水を直飲みしてたからかな。飲みにくくなかったの?」


「すっごく飲みにくい! あの勝手に水が出てくるやつ便利だけど、蛇口の向き変えられないからさー」


「そういう時はこう、丸くした手のひらで少しずつ水を貯めて、顔を寄せて飲むとか。気を付けないと長袖とか濡れちゃうけど、髪は濡れないし」


 本来、手水の作法の口をすすぐためのものだが、真剣な表情で頷いているアルカは些事を気にしないだろうと菫は実際に動いて見せる。

 おおよそ高校生同士の会話とは思えず、だからと言ってアルカの学ぼうとする姿勢は至って真面目そのもので。

 精巧な人形のように微笑を浮かべていた少女はその見た目通りやや浮世離れしていて、見た目と反して中身は強烈な破天荒。相反する要素が融合したのが、片岡アルカという少女だった。


 なんだか、面白い子だな。そう思って思わず笑みが零れた菫に、アルカは「どうかした?」と問いながら首を捻る。


「あの、さ、刺身醤油顔って、改めて考えると、意味わかんなすぎておかしいなぁって、ふはっ」


「そっかなー? めちゃくちゃわかりやすいよ?」


「あはは! もう、片岡さん、ふふ、すごく面白い」


「えっ!? まって!? 刺身醤油顔って言いだしたのおるべさんだったよ!」


「っんく、ふふ、ち、ちなみにどうして刺身醤油を飲んじゃったの?」


「爺さんが出されたものは残さず食べるのが礼儀だって言ったから、そうした」


「ぶッふはは! そ、それじゃ、おじいさんも、刺身醤油顔になる……ぶふっ」


「…………」


 軽い呼吸困難になる勢いで笑い続ける菫を、不可解そうにアルカは見つめる。一人だけ一方的に笑っている状態に気付いた菫は軽く丸めていた姿勢を戻しながら呼吸を整える。


「あ……ごめんね。こんな笑われたら片岡さんは困るよね」


「……私が困る?」


「さっきまでのわたし、かなり馴れ馴れしかったから……あれ? あんまり困ってない?」


 あまり人と積極的に関わろうとしない、どこか拒絶するように笑顔を見せるアルカに対してまるで友人の距離感で雑談するのは迷惑だっただろう。一方的に笑うなんて不快に思われても仕方ない、と顔色を窺う菫を心底不思議そうに首を捻るアルカがまっすぐに見つめていた。


 アルカの反応は『困る』と肯定される予想とは逆のもので、試しに杞憂だったか聞いてみれば躊躇なく頷かれた。


「別に困ってない。というか困るならおるべさんのほうだよ。だって刺身醤油だよ?」


「ぶっ……ちょ、まじめな話してるから刺身醤油は控えて」


「私、刺身醤油を啜るようなやつだよ?」


 直前までその単語で笑っていた菫は愉快な気持ちが霧散する。


「そんなやつに急に声をかけられて、変な話聞かされて、こういうのを図々しいとか迷惑かけられるとか言うんでしょ。おるべさんが優しそうだったから、聞いたら何がおかしかったか教えてくれるかなって思った私のほうが、かなり馴れ馴れしいというか」


 淡々とした言葉の続きにも菫は言葉を失う。

 皮肉と自虐を込めて、非常識だと断じるように、それがさも当たり前の事のように、人間性を抉るように、彼女は表情を変えないまま平然と雑談の延長で自嘲した。


 それは……そんなのは、あまりにも悲しい。

 菫が足を止めるとアルカも数歩前に出たところで止まり振り返る。


「じゃあ、わたしも刺身醤油啜ったら、片岡さんにもっと馴れ馴れしくしてもいいのかな」


 人を拒絶するように笑い、自身を非常識と嫌う。お人形のような美貌を持つ素直な女の子に届くように乞う。

 これまでアルカが築いてきた経験と常識がどんなものか菫にはわからないが、アルカの『困らせている』という思い込みを否定することは出来る。


 彼女との下校はまだ始まって数分だというのに驚きの連続で、理解出来ない事も、きっと非常識なところもあった。菫はそれが、楽しくて仕方なかった。また今日のように、一緒に下校したいと、親しくなりたいと心からの言葉だった。


「おるべさん」


 アルカは驚いたように空色の瞳を見開く。

 吸い込まれそうなそれは、菫の思いをまっすぐに受け止めた感激からではなく――。


「醤油そのままは本当しょっぱいからやめたほうがいいと思う」


 言葉をそのまま受け止めたことへの驚愕によるものだった。


 経験者のありがたい返答に菫は面食らい、爆発するように再び笑い出した。確かに調味料をそのまま口にするのはあまりよいものではないだろう、とわかりつつも菫は半ば確信していた。

 きっと、アルカの横で本当に飲んでみたら楽しくて仕方なくなる。

 笑いすぎて溢れてくる涙を拭いながら再び歩き出した菫の後を、アルカがぎこちなくついていく。


「あはは、ふっ、はぁー涙出てきた……あ、そうだ。わたし、おるべさんじゃないよ」


「エッ! えええ!? うっそ間違えてた!?」


「やっぱり? 織部菫です。まぁおるべさんってあだ名でも全然、」


 呼んでくれて、仲良くしてくれたら嬉しい。ようやく涙が落ち着いてクリアになった視界で菫はアルカのほうを振り返り、続けようとした言葉が止まる。

 控えめに伸ばされたアルカの手が菫の制服の裾をつまんだ。引き留めるような行動にまた二人は足を止め、横を車が通り過ぎていく。


 短い沈黙の末、アルカは強い緊張感の末に勇気を振り絞り、告げた。


「菫って、呼びたい」



 自分自身に常識が足らない事も、自身の美貌が人を惹き寄せる事もアルカは自覚している。そうして何度か、外見と中身の齟齬に勝手に失望されてきた。

 そんな人間ばかりでないとわかっていても、少しずつ嫌悪していき、失望していき、処世術として身に着けたいつも微笑んでいる物静かな少女の猫被りがいつの間にか自分を守るための仮面になっていた。どうぞ猫でも仮面でも、存分に愛でていってください。満足したならもう充分でしょう。そうやって誰も踏み込ませないようにしていた。


 だけど、菫の言葉で心が揺れた。

 あの口いっぱいに醤油を含んだ間抜けな失敗の記憶の隣で、彼女が同じ体験をしてやっぱりしょっぱいねぇと苦笑いしてくれたなら、それは、なんて温かいのだろう。

 そう思ったら、気付いたら、手を伸ばしてしまっていたのだ。



 菫は少し驚いていた。

 アルカの先程の正論マジレスは恐らく気持ちが届き損ねていたからだと思っていた。

 だけど、届いていた。

 彼女は応えるために手を伸ばしてくれた。顔を真っ赤に染めながら奮起するほどに。


 もしかして恥ずかしくなって咄嗟に出てきたのが正論だったのでは。そんな考えに至った菫も、気恥ずかしさを覚えつつ口元が緩んでしまった。


「じゃあわたしも、アルカって呼びたいな」


「えっ、う、うん、どうぞ」


「……馴れ馴れしいかな?」


「……馴れ馴れしいかも?」


 見合わせた二人の顔は、ちっともそんなこと思いませんともと主張していたせいで、同時に笑い出した。

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