〈 方舟遺物 〉-平凡少女と魔術師と五〇〇日後の『大災害』-

ある鯨井

序章 花と方舟

終わりの冬、始まりの夏

 …………。


 ……………………。

 ――――……、…………?


 一体……何が、起こったのだろう……。



 どうして地面に伏せているのか。

 どうして、気を失っていたのか。

 ぽつぽつと頭に疑問が浮かび、何故だろうと考え始めるとぼんやりとした意識が少しずつ冴えていく。


「ぁ、あ……!」


 思い出した瞬間、自身に降りかかった恐怖が蘇る。

 このまま地面に寝転がったままではいけない。起き上がるために腕に力を込めた。


「……ア、ルカ! 昴生こうせいくん、は……!」


 意識を失う直前まで一緒にいた友人の安否が気がかりだった。二人の姿を安全を確認したかった。

 けれど、体を起こして見えた風景に、硬直する。


 ――何もない。

 否、正確には家屋の面影がある瓦礫と、その間のところどころから上がる炎と煙が見える。

 暮らし慣れた街は、形を失っていた。


 瓦礫の山の中で、織部菫おりべすみれはあまりの衝撃に呼吸を忘れる。

 震えながら見開いた目を瞬かせる以外に動けなくなる。耳鳴りが、うるさいくらいの自分の心音が、息苦しさによって自覚して、固まっていた思考が緩やかに動き出す。


 どうして、一体何が起こったのだろう。でもそうだ、意識を失う前に確かに。

 過呼吸じみた息を吐きながら、微かに冷静な部分が一つずつ状況を整理していく。しかし、無情にも落ち着きを取り戻すための思考も止まる。


「え?」


 自分の体の上に乗っていた何かが、ずるりと滑り落ちた。

 無意識にそちらに視線を向けると、腕が見えた。いつだったか、手も綺麗だねと感想をこぼしたことがある、見覚えのある手だった。その手の主は菫の感想に対して未知のものを触れたように眉を顰めて理解できないと溜息を、……そんな些細な事を思い出しながら、腕を目で追っていき、そうして菫は友人の片方を見つける。


「こうせい、くん……昴生くん、昴生くん!」


 地面に俯せで倒れている彼の名を呼ぶが、反応はない。

 もう一度、二度三度と繰り返し呼びかけても、彼は動かない。


「あ、あ、だめ、だめだ……どうして、どうしよう……!」


 揺さぶろうと手を伸ばしかけて、止まる。

 彼の白い髪が、べったりと血に染まっている。頭を怪我しているのかもしれない、医療の知識なんて欠片もないが、彼を不用意に動かしてはならない事と、同時に早急に手当てが必要であるのはわかった。


 意識のない彼を自分一人で動かせるのか?

 今いる場所から治療してもらえる病院までの距離は?

 そもそもこの惨状で病院は機能しているのか?

 自身の無知が原因で症状を悪化させてしまったら?


 不安が無限に膨らんでいく。菫は己の無力さに圧し潰されそうになっていた。

 医学知識があれば、もしくは何か応用できそうな知恵があれば、閃くような発想力があれば、治療できる準備の良さが備わっていたなら、――魔術が、使えたなら。アルカ、だったなら。


「あ、ある、か、アルカなら……」


 菫は縋るように視線を上げる。

 彼がこの位置で倒れているなら、彼女はあのあたりにいたはず。記憶を頼りにその方角を向けば、そこは菫と昴生が倒れていた場所とは違っていた。


「あ……」


 そこには友人、片岡かたおかアルカの姿はなく、倒壊した家屋の山だけがあった。


「アルカ、アルカ……アル、カ……おねがい、お願い、こたえて……」


 どうして、こんな事になってしまったの。

 菫は何度も頭の中で繰り返しながら友人の名を何度も呼ぶ。太陽のような笑顔で「いいよ!」といつものように応えてほしくて、何度も。何度も。




***




 片岡アルカとの出会いは、高校の入学初日。


 菫は出席番号順に割り振られた席に座り、式の時間まで教室で待機していた。

 順々にやってくるクラスメイト達、席が近い人同士で軽く挨拶を交わす小声が聞こえる和やかな教室に、一人の少女が入室する。その瞬間、空気が変わった。


 歩くだけでさらさらと音でも奏でるように流れる長いブロンドヘア、透明感のある肌は教室内で浮くほど白く、夏の空を切り取ったような青い瞳は吸い込まれてしまうほど美しい。

 同じ制服を着ているはずなのに、彼女だけはテレビの中から飛び出してきたような圧倒的な存在感で、平凡な教室に降臨した。


 美人だなぁ、と心の中で呟いたのは菫だけではなかっただろう。

 男女ともその美しいクラスメイトに、感嘆の息を飲んだり吐いたりしていた。その中で注目の美少女が自分の後ろの席に座ったものだから、菫は尚更驚いた。

 少しだけ勇気を出して後ろを振り返ると、不思議そうに瞬く青と視線が合う。


「わたし、織部菫。名前を聞いてもいいかな」


「……片岡アルカです」


 片岡。なるほど、五十音順では前後だ。ちょっと変わった名前だが、外国の血が混じっていても納得の外見をしているし、彼女にとても似合っている。もしかしてハーフとか?


 ……と、普通の会話に繋げられない緊張感がそこにはあった。

 同い年、同じクラス、近い席の女子同士。軽い気持ちで声をかけた菫に対し、アルカは張り付けたような笑顔で敬語対応。

 距離があるどころか、高い壁でも立てられたような拒絶の気配に、少し怖気付く。……名乗って名前を聞いただけ。何も悪い事はしてないはずと思いつつ、笑顔で話を切り上げる。


「よかったら、名前覚えてね」


 菫は後ろのめりになっていた姿勢を戻し、前を向く。


 廊下側一列目の後ろから二番目が菫の席で、その後ろがアルカの席だ。

 隅に近いその場所から正面を向けば、教室全体を眺める事が出来る。結果、八割ほど着席していたクラスメイトの視線が、アルカに集中しているのを気付けた。

 菫のようにしっかり体の向きを変えた人は僅かだが、首を回して盗み見ている人数はかなりいる。


 ……これは、なかなか緊張するなぁ。

 美人の注目度を間接的に浴びた菫は、アルカの苦労を偲んだ。




 菫とアルカは席の近さとは裏腹に、交友は深まらなかった。


 朝は「おはよう」と声をかけるが、下校の際「また明日ね」とは言わない。ただのクラスメイトの一人、薄い関係性。

 アルカと話してみたい気持ちが菫にはあったが、初めて言葉を交わした時から彼女が望んでいないように思えて、必要以上に声をかけづらかった。


 アルカの周囲にはいつも人がいた。

 クラスメイトの時もあれば、別クラスの同級生、上級生がわざわざ一年のクラスにまでやってきて話しかけている光景は然程珍しいものでもなかった。

 漫画でよくある学園のマドンナなんて伝説みたいな存在はこういうものなんだろう、と見かけるたびに思っていた。


 けれど梅雨の時期に差し掛かった頃、彼女は一人でいる時間が多くなった。それを寂しがるどころか、肩の力が抜けてほっとしているように見えて、菫は尚更話しかけるのがはばかれた。



 そんな日々が続いた、ある雨の日。

 予鈴より少し前に登校してきたアルカにおはようと挨拶をして、この日もそれだけで終わるところだった。


「……あ」


 後ろから何かに気付いたような声が漏れた。教室内でその声を拾ったのは菫だけだったようで、少し勇気を出してもう一度後ろを向く。


「片岡さん、どうかした?」


「あ、……ごめんなさい、何でもないので」


 ……それは、何でもなくない人の定番セリフではないだろうか。

 仲のいい相手であれば何の躊躇いもなくそう切り返せていたが、相手は挨拶以外で声をかけるもの少し勇気がいるような距離感のあるクラスメイト。


 菫は口の中で言葉を転がして、アルカのために飲み込むべきか伝えるべきか悩んだ。悩んで、口を開いた。


「……困ってたら、教えてね」


 こっそりと伝えた言葉は予鈴の音と被ったが、きちんと笑顔の美少女に届いたのだろう。ほんの少し、整ったその笑顔が剥がれたように見えた。



 しかし、アルカからのアクションはなかった。

 菫は勝手な勘違いで余計なお世話を焼いてしまったかと少しだけ恥じて、何も言わずに後悔するよりはマシだと自分を慰め、アルカに心の中で詫びる。


 昼休みになり、食事を終えた菫はお手洗いに向かっていた。

 午後の授業の準備の一つとして日常的な行動だった。何の警戒心もなく、入学後から何度も利用した教室と同じ階にある女子トイレの扉を開く。


 そして手洗い用の水道から水を直飲みしていたアルカと目が合った。


「…………」


「あ」


 固定された蛇口と小さい洗面台の間に口を割り込ませている後ろの席の美少女が、目を瞬かせていた。菫も驚きのあまり言葉を失い、流しっぱなしの水の音だけが響く。

 先にアルカが動いた。

 姿勢を戻し、自動水栓が止まる。そのまま手前の個室に入っていった。


「幻です」


「だいぶ無理ないかな」


 自称幻さんが転々と残した水溜まりの痕跡が、あまりにも現実を突きつけている。

 思わず本音で返してしまったけれど、冷静に考えれば幻扱いしたほうがいいかもしれない。少なくとも菫がアルカの立場なら見なかったふりをしてもらいたい、かもしれない。

 だけど、大丈夫だろうか。顔だけではなく髪や服も、水滴を落とすくらい濡れていたように見えたのだが。


 沈黙を破るように、ぐぅうと音が聞こえた。

 菫の腹からではなく、個室の中から。そんな音まで聞いて、放っておけるわけがなかった。


「あの、片岡さん。大丈夫? 髪が濡れてて制服にも染みてたように見えたんだけど、ハンカチで何とかなりそう?」


「へ? あ、あー……ほんとだ。うわ、わ、あぁー……」


 ああ、なんだか駄目そうな声がする。


「わたし、タオル持ってきてるから貸すよ。待ってて」


 梅雨の時期は教科書類が濡れないように軽くタオルで覆いながら登下校している。菫は自身のリュックからそれを取りに戻った。

 タオルと一緒に二枚入りで個包装されているクッキーの袋を二つ持ち、トイレに戻る。


「おまたせ。着替え必要そうなら体操着も持ってくるよ」


「あ、ありがとう……そこまでではないから」


「そっか、良かった。あと少ないんだけど、よかったらもらって」


「え? ん……?」


 菫がノックするとアルカは控えめに戸を開く。

 その隙間からタオルの間にクッキーの袋を挟んだ状態で手渡した。カサ、と戸の向こうでクッキーの個包装が擦れる小さな音が聞こえた。


「おなか空いてるのかなって思って」


「……いただきます」


 空腹の虫の鳴き声と水をがぶ飲みしている様子から、いくらか推測は出来た。

 朝、登校してきた時に思わず漏れた声は昼食か財布か、もしくは両方を忘れてきたことに気付いたからだろう。


 直接頼まれたわけではない、余計なお世話だったかも。

 不安が顔を覗かせるが個包装の袋の封を開けた音が聞こえた直後、スピード感があるクッキーを咀嚼する音が連続した。どうやら気に入ってもらえたらしい、ひまわりの種を口いっぱいに頬張るハムスターのイメージが浮かび、菫の口は緩んだ。


 個室から出てきたアルカはその長い金髪を菫が貸したタオルで結んでいた。不格好な髪形に疑問を覚えた菫の目の前ですぐに答えは証明された。

 水の直飲み、おかわりである。……クッキーは美味しい反面口の中の水分持っていく、わかる。

 先程の失敗を反省して濡れないように髪をまとめた理由もわかる。しかし、何故流水に噛みつくように水分補給をするのだろう。菫がそう考えていると予鈴が鳴った。


「あのさ、放課後時間ある?」


「……へぁ?」


 美少女からの突然のお誘いに菫の口から変な声がまろび出た。


 どこか現実味のない急展開。

 まるで漫画のようだと夢見がちな部分でときめきを覚えつつも、現実的な放課後の予定の調整を頭の中で試みる。


「帰り道が反対方向だったら悪いんだけど、スーパーで買い物しながらでいいなら……」

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