閑話 方舟は浮かばれる
「ここは元々俺の部屋だ。返せ」
恋人との同棲に失敗した息子が岡田家に戻ろうとしていた。
その時アルカは中学三年生、岡田夫婦は未成年者でもあったアルカを庇った。居候によって家族から除け者にされたと怒りに燃える息子の表情を、反射的に弱者の肩を持ってしまったが自身の息子を案じて板挟みになり苦悩する夫婦を、アルカは見てしまった。自分がこの家族に亀裂を入れたのだと、気付いた。
まるで疫病神だ。片岡夫婦が亡くなって、岡田家もこの通り。
――生きてりゃ必ず、ここじゃないどこかに行かないといけなくなる時はくる。
養父の言葉を思い返しながら、山を下りて片岡家に招かれ、片岡家から岡田家へ越したように、岡田家からどこかへ向かう時は、今なのではないかとアルカは考える。だけど、どこに。あの山に戻るべきなのだろうか。でも、あの山はどこだっただろう、名前はあったのか、どこから登れば元の場所に帰れるのか。養父に聞いていけばよかったと後悔しながら、アルカは放浪する。
出かける先と帰る時間をメモに残して外に逃げる。昼でも夜でも目立つ金髪を服の下に隠して、大きなフードで頭と顔を隠して、メモに書いた場所でひたすら時間が過ぎるのを待ち、軒下を借りるように岡田家の玄関で体を丸めながら眠り、夜明けと共にまたメモだけを残す。
「アルカちゃん、気にしなくていいから帰っておいで」
「妻も息子も、もちろん僕だってアルカちゃんを追い出したりしないよ。でも、ごめんな。家に居づらいなら出かけてもいいから、せめて暗くなったらおじさん達の家に戻ろう?」
息子が使っていた部屋が居心地悪い。気にかけてくれる夫婦と一緒にいるのは居心地悪い。それでも家出をすればあの夫婦にも、あの息子にも、心配をかける。
彼は部屋を返せと言い、家から出て行けとは言わなかった。良くも悪くも直情的のお調子者なだけで、一回り近く年下の子供を排除するつもりはないのだ。あれから再び詰め寄ってくる事もない。一人暮らしを始めたが、それでも本心は実家に戻りたいのだろう。気まずそうに視線を配りつつも謝ってはこなかった。
「父さんと母さんに迷惑かけんな、この不良娘」
ただ一度だけ、近所を放浪するアルカの前に出て声をかけてきた息子の様子に、かける言葉は違えどやることは全く似ていて親子なのだなと、アルカは思った。
気まぐれに学校に行く事もあれば、外で次に行くべき場所を探す。
同じ場所に居続けるだけで声を掛けられる。面白がるように、品定めするように、
放浪し始めて二ヶ月ほど続いた頃、養父妹から携帯電話を渡された。
「アルカちゃん、出かける時は携帯を持って行って。この一のボタンを押したらあたし、二を押したら夫、三を押したら警察に繋がるようにしといたから」
これまで養父妹からスマートフォンを持たないかと何度か促され、扱い方がよくわからず引きこもりがちだったためそのたびに不要だと断っていた。さすがに不在時間のほうが多くなれば、仕方ない。パカパカと精密そうな機械を大事に抱えながら、子供である自分が嫌になった。
大人だったなら、こんなにも苦しむ前に、どこかに逃げられたのに。
ああ、こんな世界、救う必要があるのでしょうか。
「こんばんは」
「…………」
「君は、岡田の家に住んでるアルカちゃん?」
知らない男性の声には笑顔で無視。そうしていれば勝手にどこかに行く。無理やり連れ出そうとしたところで力比べで負ける気もしない。いつも通りにあしらうつもりが、自分だけでなく岡田の名前まで出てきた事に驚いて、目の前の男性の顔を見る。
面白がる様子も品定めする湿度を持った目も憂慮する声色もなく、穏やかにアルカと目を合わせていた。
「俺は岡田の、君のところのお兄さんの職場の先輩で、織部って言います」
「……お、るべさん?」
「ん? ふふ、初めまして」
「はじめまし、て……」
「ごめんね、急に話しかけて。ここ、うちまでの帰り道で、前に岡田が話してた妹分の子に似てるなって思って、つい。今、忙しかった?」
「……いいえ、全然」
どこからどう見ても暇の塊だろう。アルカの答えを聞いた織部と名乗った息子の先輩は安心したように笑い、花壇のブロックに腰かけていたアルカと視線を合わせるために屈んでいた体を起こした。
「俺さ、いつも帰る時にあそこの自販機で遊んでから帰るんだ」
「自販機で、あそぶ?」
「見た事なかった? じゃあ実際に見てみたらわかるよ」
息子の先輩に誘導されて数メートル離れた先の自販機の前に移動する。冷えた飲み物、温かい飲み物が並んだ自動販売機、特別変わったもの見えなかったけれど、並べられたラベルの中で一つだけ、商品名ではないものが書かれている。
缶の形をしたラベルには『何が出るかはおたのしみ!』とプリントされている。あたたかいものとつめたいものがそれぞれ販売中になっていた。
「今のところまだ被ったことなくって、全種コンプリート目指してるんだ」
「そう、なんですか」
「アルカちゃんも喉が渇いてれば一種類分、俺の代わりに飲んでくれない? 連続で出したらどうなるのか気になってたけど、さすがに飲むのきつくてやった事はないんだ」
「お金、持ってないです」
「いや受け取れないわ。俺のお手伝いの手間賃って事で、もらって。美味しく飲める物かは運次第だけどさ。俺、夏にさっぱりした冷たいもの飲みたいなって買った時に甘酒サイダーって物が出てきて、重たいくらい甘くて炭酸もそんな強くなくて、美味しいけど今じゃねぇ~とか」
それはまぁ、運が悪い。失敗談を語りながら口の中に残ったくどい甘さの記憶を思い出しているのに苦い顔をして小銭を入れる彼を見上げて少しだけ、自然と口元が緩んだ。
温かいほうのボタンを押し、ゴトンと缶が落ちてきた。取り出したのは真っ黒なパッケージの缶。
「おお、なかなかしぶいのが出たね。ブラックコーヒー飲める?」
「飲んだことないです」
「あー、結構苦いよ」
苦い、とは山菜より苦いのだろうか。口の中の感覚を思い出して渋い顔になってしまう。
ゴトン、とまた缶が落ちてきた。隣に並んだ息子の先輩が、取り出したのは柔らかそうな茶色のパッケージのココアだ。
「お、ココアだ。アルカちゃん、ココアは飲んだことある? 好き?」
「え、はい」
「じゃあ交換する? 俺、冷たいほうで飲んだ事あるけど、甘くておいしいよ」
「……でも、いいです。私にはこれだったので」
飲めるかどうかわからなくても、選んだもの、与えられたものを飲み込むしかないのだ。片岡アルカは子供なのだから。
「そんな顔を、しないで」
「え……」
「我儘くらい言っていいんだよ」
アルカは自分がどんな表情を浮かべていたのかわからなかったが、フードの中を覗き込んだ息子の先輩は寂しそうに笑っていた。
その笑顔を見て、胸が締め付けられるような気持ちが込み上がる。もどかしそうに向けるその眼差しは、岡田家の人達にも、片岡夫婦の姿にも重なった。ああ、この人はきっと、優しい。
「ただの飲み物なんだ、飲みたいほうにしなよ」
「でも、」
「んん……俺さ、まだ中学生の妹がいるんだよ。妹くらいの女の子に遠慮させちゃうの、つらいなぁ」
「……あなたが、つらいの?」
「もうすーっごくつらい。子供が苦しそうに我慢してるのを見てると、そんな遠慮しなくていいのにとか、悲しいしすっごく凹むもんなんだよ、大人は」
「……私、あなたと今日が初めましての子供なのに?」
「そうだけど、そういうものなんだよ」
「そういう、もの……」
そんなことはない。彼の語る『そういうもの』が大人の当たり前ではないと知っている。遺産を抱えた子供に向ける視線を、顔に価値を見出した視線を、弱者と侮る視線を、アルカは向けられてきた。
嘘吐き。そう詰ることも出来た。それでも、やらなかった。
養父が亡くなった深夜、駆けつけてくれた。葬儀が終わり、行く先に迷ったアルカを迷いなく抱き締めてくれた。一緒に暮らそうと言ってくれた養父妹。いつも怒っているような快活さと、気持ちがいい笑顔の大人。もうずっと、悲しそうな顔をさせ続けている。
彼を否定したら、養父妹も否定してしまうようで、そういうものとして、飲み込んでみた。
「……ココア、が飲みたいです」
「ん、どうぞ」
飲み物の交換。ただそれだけの事に、隣の大人は嬉しそうに応える。アルカは言われた通り、自覚している通り子供だから、大人がそうして微笑む理由をよくわからないままだ。
それでも、あたたかい。
その笑顔を見るだけで、包まれたように安心して、泣きそうなくらい、あたたかい。
ほんの数秒、遅れて出てきただけのココアの缶。先程まで持っていたコーヒーの缶と同じ熱さのはずなのに、アルカの両手をじんわりと温める。無性に、岡田夫婦の顔を見たくなった。
「じゃあ、俺は帰るね。このあたり暗いからアルカちゃんもあんまり、」
「帰ります、私も」
「―――、そっか。……よかった、気を付けて帰ってね」
彼から『帰る』という言葉を聞いて、自然と自分の口から同じ言葉が零れていた。少しだけ驚いたけれど、彼も同じくらい驚いた後でとても嬉しそうに頷いていた。だからきっと、これは良い事なんだと思った。
そうして久しぶりに、夕飯時に帰宅した。食事の準備をしていた養父妹は嬉しそうに迎えてくれて、仕事から帰宅した彼女の夫を玄関まで出迎えに行ったら泣かれてしまった。
三人で食卓を囲み、ずっと考えて、けれど言えずにいた事をアルカは打ち明けた。
「私、一人暮らししたいです」
自分のために誰かが追い出されなくて、自分がいる事で誰かが居場所を無くしたような気持ちにならない、そのためにどうしたらいいか考えて、考えて。岡田の家から出るのが一番だと思った。
岡田の家族は皆いい人だ。だから、居なくなるべきだと思った。夫婦二人から否定されたとしても、出て行った後も心配かけ続けるとわかっていても、今の生活が続くよりずっといい。元々いなかったアルカがいなくなれば、家族の不和は少しずつ融解し元通りになるだろう。それがアルカにとっては喜ばしく、岡田家にとっても最良なはずだ。
反対していた夫婦を説得したのは息子だった。「あと数年すれば成人して出ていくのが普通だし少し早くなるだけ」と、やはり言葉選びが悪過ぎて喧嘩になり、カーテンは破れ椅子はひっくり返り、てんやわんや。それでも、アルカにとってはとてもありがたい後押しとなった。
一カ月にも及ぶ話し合いの末、岡田家のカーテンは交換され、椅子とテーブルは凹み、床と壁も凹み、夫婦は連日に及ぶ騒音トラブルを近所に詫びて、アルカは高校入学と通学を約束の上、高校近くでの一人暮らしが決定した。
アルカにとってあまり気乗りしない進学だったが、そこで友人が出来た。
さらにその友人の兄であった彼とも、再会する。
そうして、こっそりと肌寒くなり始めた秋の頃の自販機の思い出を友人に打ち明けた時、少しだけ自慢げに、そして悪戯っぽく笑った。
「へえー……そんなことが。お兄ちゃんったらかっこつけて」
「え?」
「だってお兄ちゃん、コーヒーはカフェオレじゃないと飲めないんだよ」
きっと離れたとこで、にがーっとか言いながら飲んだんだよ。と想像して笑う彼の妹の話を聞いて、アルカはココアの熱を思い出していた。
手のひらをじんわりと温めてくれていたはずの熱が、全身を蝕むように広がる。汗が吹き出すほど熱い、特に顔が、頬が燃えるように熱い。胸が締め付けられるように苦しい。目が潤み、瞬くたびに瞼の裏で陽だまりのような笑顔が再生される。叫び出しそうな衝動を抑え込んで、これだけは言わければならないと、使命感を持って「ちがうよ」と零す。
「かっこつけなんかじゃない。夕昂さんは、かっこいい、よ……」
自分でも情けないほど弱った声を出して、彼の妹、菫に向かい合う。
その時のアルカの顔を、心に芽生えたものを知るのは、喜びと感激に目を輝かせ息を呑んだ口元を抑えた菫だけである。
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