筋書き無しの予行演習

「今日の放課後、カレー食べに行こう」


 織部家で初めてのスパイスカレーを作った事でわかった問題点を調理班と話し合い、実際作ってみたものを試食してもらってから四日後。アルバイトがない日に菫はアルカと昴生を誘っていた。クラスメイト達は三人が一緒にいる状態に何の違和感も抱かなくなっていた。


「作った時に思ったんだけど、レシピ通りに作ったのにこれで正解なのかわかんなかったから、正解の味を知りたい。お金なければわたしが立て替えるから一緒に行こう」


「何故わざわざ同時に行く必要があるんだ」


「うーん、食べながら話し合えるし、別々のを頼んだら味のシェア出来るし、あと初めて入るお店で勇気がいるからかな」


「……店に入って、食事をするだけだろう?」


「勇気がいるので!」


「織部のハードルは随分と不便だな」


 名前を呼ぶだけ、店に入るだけ。昴生は理解しがたいと溜息を吐くだけで拒否はしなかったため、付き合ってくれそうだ。菫の後ろでアルカは不満そうにはしていたが。


「継片なんかいなくても私がいるじゃん。私がいるからいいじゃん」


「でもアルカ、わたしと一緒に初めてファミレス入った時すごく緊張してたでしょ? その時はわたしが入ったから平気だったけど、わたし達二人でお店の前で固まって、結局は入れなかったこともあるし。今日は頼りになる昴生くんがバッとお店のドア開いてくれるよ」


「うぐぐ……」


 君もか。昴生の呆れたような視線が菫からアルカにも移された。

 そんな三人が放課後に寄り道するという情報は裏で生徒達に回り、尾行しようと画策する者、混ざりこもうとする蛮勇が現れるが、それを上回る人数により制圧された。本日も平和である。


 愉快な騒動を知らない三人はさっさと下校していき、目的のカレー店へ。高校最寄り駅の裏にあるというこじんまりとした店舗は、上部にある壁面看板も出入り口横のスタンド看板にも読みやすくわかりやすいカレーの大きくて目立つ文字、窓ガラス前面に至ってもカレーの写真で埋め尽くされ、店内の様子は外からは伺えない。菫もアルカも怖気づいていた。


「……うん、お店は知ってたけど、やっぱり勇気がいるね」


「たまに店員が外にいるけど、今日はいないからお客さんがいるのかな」


「席が空いてるのかすら見えないね……大丈夫かな、入れるかな、店員さんすごい外国の人って感じだから言葉通じるかもちょっと不安だし……あっ、でも言葉の壁はアルカと昴生くんなら大丈夫だった!」


「えっ待って急に実践任せないで心の準備ってもんが」


「……それで、入るのか? 入らないのか?」


 手動スライド扉を見つめていた昴生は自身の後ろでうじうじと不安を零す少女二人に振り返る。菫が「入る入る」と頷く一方でアルカは心の準備が整っていなかった。だが昴生はそんなことを配慮するつもりが一切なく、引手に指を添える。


「織部」


「ん?」


 扉を開く直前、昴生は菫のほうに視線を向ける。


「どうやら今回は、君に対する実践になりそうだ」


「はぇ?」


 一体どういう意味なのか、菫が尋ねるより早く昴生は店の扉を開ける。


 一歩踏み込めば店内からふわりとスパイスの香りが広がった。店構えと同様、店内もまたこじんまりとしていて、四人が座れるテーブル席が二つ、あとは調理場と向かい合うカウンター席の椅子が横に並べられている。店内の壁には店外と同様メニューのように商品名と金額が書かれたカレーの写真がいくつも掲示されていて、どれも美味しそうである。海外のアーティストらしきポスターや本、CDなどもインテリアとして並べられ、天井は外国語の書かれた布のペナントや色鮮やかなガーランドが飾られていて、可愛らしい内装に心が擽られた。

 店内にいたのは、調理場から片言で「イラッシャーイ」と言う店員二人と、カウンター席に座っていた男性一人。その客らしき男性が、派手な店内に霞むほどに、派手であった。

 まず体格が大きい。アスリートのような肩幅をしている。綺麗な首筋が見えるようにツーブロックに刈り上げられ、短くとも柔らかな曲線を描く髪は頭頂部の青から毛先にかけてエメラルドに染められていて海のような色、後姿だけでもとんでもなく目立った。思わず見つめすぎたせいなのか、待ち合わせでもしているのか来店した人物を確認するように男が振り返る。

 外国人らしい彫りの深い顔立ちの男はヘーゼルの瞳を瞬かせた。


「あら、昴生ちゃんじゃない」


 彼の口から流暢な母国語が発せられた事と同様に、今まさに目の前に立つ昴生の名を読んだことにも菫とアルカは驚いた。

 二人の驚きなど気にせず、昴生はカウンター席に座る男の元にゆっくりと歩み寄っていく。


「何故こちらに? 先日の件については報告した通り、回収した物はお送りしたはずですが、何か不備でも?」


「いいえ、全然。急にお願いしたことだったのに、完璧で驚いたわぁ。本当にありがとうね。今日は……というか、先週からこっちに来てたのよ。昴生ちゃんの顔も見たかったし、お礼もしたかったからね」


「そうですか。おかげさまで全く気付きませんでしたよ」


「やだわぁ。もうしばらく気付かれないようにするつもりだったのに、どうしてこのお店に来たの。本当驚いたわぁ」


 座ったままの男の前に昴生が立ち、見下ろしている。昴生の背中しか見えないため何を考えているのかわからないが、言葉が少しだけ刺々しい。対する男はアイラインを引いた目尻を下げながら友好的な笑みを浮かべているように見える。

 二人の会話は自然に見えて、少しだけ違和感があった。菫が二人の関係性を知らないためなのか、はっきりとした単語が何一つ出てこないせいなのか。


 あれ? とここで菫は引っ掛かりを覚えた。

 外国人、濁された言葉。どちらも昴生から直接注意をされた気がする。それは――どちらも魔術に関することで。そこまで考えが至ったところで、すっと頭が冷えた。魔術師は、魔術師の存在を知覚出来る。けれど昴生は言った、全く気付かなかったとわざわざ言った。


「それで、僕に気付かれないように調べた事ははっきりしましたか?」


「ええ、とっても驚いたわ。面白い事も、たくさん」


 男は昴生に向けていた視線を、菫達へ流す。反射的に体が強張って、昴生の忠告してくれた言葉が思い出せないほどに頭が真っ白になった。思わずアルカの腕にすがりつくと、まだ何も気付いていないアルカは不思議そうに菫の手に自分の手を重ねた。


「何、菫どうしたの……」


「あの昴生ちゃんが、どう見てもヤバイ女の子と無関係そうな女の子とどうしてか一緒にいるんだもの。一体何があったのかしらって、心配になっちゃったのよ、アタシは」


 柔らかな微笑みを浮かべたまま、男が手にしていたスプーンが光を纏い、形がぐにゃりと歪み、水が伸びるように大きくなっていく。あれは魔術だ。あの男は、魔術師だ。状況を瞬時に理解したアルカは小さく息を飲み、瞬時に行動に移す。菫もほぼ同時に動いていた。


「――……?」


 菫は、魔術師の男の目の前にいる昴生を引き離そうと駆け寄って彼の左腕を掴んだ。

 アルカは手元に何もなかったため、自身の髪を引き抜いてそれに魔力を込めた。男が何の魔術を繰り出してくるのかわからなかったため、咄嗟に矛を作り出し、その切っ先を男の喉元に向けた。

 少女二人の行動に、昴生も男もぽかんと面食らっていた。


「こ、昴生くん逃げよう危ないよ! 逃げよう!」


「は……?」


「よくわかんないけど、何!? 何こいつ! やられる前にやっちゃっていいのこいつ! なんでこうなった場合の事教えてくれなかったんだよ継片あぁ!! あっ店の中だとまずい!? 外!?」


「おおち、おち、落ち着いてアルカ、犯罪はよくない! まず昴生くんと相談してから、いや逃げるのが先かな!?」


「お客サン、店内デハ、オ静かに」


「すみませんすみません! あああ、あわわわ、説明出来ないんですがこれは緊急事態でして!!」


「っていうかこれ出したら駄目だったんだっけ!?」


「……いや、君達、駄目だろう。……何もかも駄目だ」


 昴生は冷静だった。いつも通り冷ややかに、二人に対して心底呆れているような、いつもと変わらない態度だった。そのおかげで菫とアルカもやや落ち着きを取り戻し、お互いを見つめあった。様子がおかしい、今は緊急事態ではないのか。


「あらまぁ……」


 沈黙を破ったのは男のたおやかな溜息。矛を向けられているにも関わらず危機感など欠片もなく白磁の頬をほんのりと染めながら、潤んだヘーゼルの瞳は三人に釘付けになっていた。元スプーンだった光が釣りたての魚のようにビチビチと跳ねている。


「やだわアタシったら、昴生ちゃんを利用する悪い虫がついたのかと勘違いしちゃった。ごめんなさい、本当に仲良しのお友達だったのね」


「違います」


「どこをどう見たら仲良しに見えんの」


「ええと……クラスメイトです」


「あらあら、そうなの」


 微笑ましそうに笑う男――八重樫の三人の主張を適当に流すような様子に、昴生は溜息を吐く。

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