二章 目指すゴール

本編

おはようから儲かる桶屋

 長いようで、振り返ってみれば短い夏休みが終わった。


 休暇を存分に謳歌し教室で会う級友と休みの間の話に花を咲かせたり、授業に縛られる生活が再開される憂鬱さを嘆いたり、休暇前と変わり映えの無い賑やかさがあった。

 織部菫と片岡アルカも例外なく、教室の端の互いの席でホームルームが始まるまでの時間を過ごす変わらない日常がそこに、否。少しだけ変化した。クラスメイトが気付かないとてもささやかな変化。


「……無視されるって地味にしんどいね」


 菫は朝の出来事を思い出し、アルカに愚痴っていた。


 朝、昇降口で継片昴生が上履きを履き終えたところに遭遇した。菫がいつものように「おはよう」と声をかける前に、昴生はまるで聞こえてなかったように背を向けて去った。

 友人になるつもりはない、友好関係を築こうと考えていない。そう明言した昴生らしい反応だ。そう思えても、心に受けたダメージは予想よりも大きくて、落ち込んだ。


 それから遅れて登校してきたアルカが、萎れてる菫に対して声をかけ、現在に至る。

 話を聞き終えた美少女はみるみる不機嫌な顔になっていく。


「うっわ性格悪……挨拶くらい返せっての」


「うん、わたしもちょっとくらいとか思ったんだけど……よく思い返したら、夏休み前も最中もそういう対応だったんだよね」


 だから仕方ないかなぁと声には出さずに溜息で零した。

 これまで二人は互いの話題は、自分の事、自分に関わる身内や友人のものばかりだった。夏祭りの夜を過ぎてから自然と、共通の知人として昴生に関する話題が増えた。そのうちの七割はアルカのストレスからくる愚痴である。


 連絡先を交換し、夏休み後半という約半月の期間で何度も会っていた。だが三人の関係性に変化はない。

 秘密を共有し合う、ただのクラスメイト。

 頭で理解していたが、改めて彼が望む線引きの距離感を認識して、思った以上に寂しくなった。だがそんな不満を友達でもない相手にぶつけられるわけもなく、菫は浅はかだったと溜息を吐くしか出来ない。


 そんな織部菫とは違い、片岡アルカは継片昴生が嫌いである。

 会話だけでストレスを感じる上に、偉そうな態度に苛立ちを抑えた事は既に数知れず。そうしてこの度、友人である菫の悩みの種として嫌いポイントが加点され、嫌いからむっちゃ嫌いになった。

 だが、別に憎く思っているわけではない。彼の考えは理解出来ずとも、現状アルカ達に知識を開示し、身を守る術を与えている。ぶっきらぼうに面倒を見てくれる姿勢は、アルカが慕っている養父とどこか似ていて、嫌いにはなりきれない。仲良くはしたくない気持ちに同意する程度の嫌いである。


 菫が昴生と仲良くしたい気持ちを、アルカは理解出来ない。

 だが、友達が落ち込む姿をただ見て怒るだけなのは癪だった。仲良くする、しないの問題はさておき、あんな奴のためにそこまで譲歩する意味が見出せなかった。


 ガタン、と立ち上がったアルカが、自席で本を読んでいた昴生の前に向かい、仁王立ちした。――菫を含めたクラスメイト達が目を剥いて息を呑む。


「おはよう、継片」


 可憐な声が、刺々しく教室内に響く。

 活字を追っていた目がレンズ越しに少女を見上げる。周囲の目を惹く二人が向かい合う光景は、まるで映画のワンシーンのような美しさがあった。


「……どういうつもりだ」


 ただし、お互いとんでもなく不本意そうに睨み合っていたため、そこにあったのは一触即発の張り詰めた空気だけだった。


「はぁ? 挨拶に理由も何もないでしょ。挨拶には挨拶で返す。常識でしょ」


「君が常識を説くのか?」


「少なくともぉ、おはようにおはようを返せる私の方が常識的だと思うけどお?」


 一見正論に聞こえるが、周囲の目が集まっている中で煽るような言葉尻ではアルカのほうが悪者だ。菫は責任を感じてアルカを止めようと腰を浮かせる。

 昴生は自身の頭に片手を添えながら、アルカを見据えた。正義は我にありとばかりに堂々の態度だったアルカは昴生の目を見て、動揺した。


「なっ、なに」


「……もう一度同じ事を言えるか?」


「はぁ? だーかーら、おはようにおはようを返せる私の方が常識的だと思うって言ったの!」


「そうか。――おはよう。……これで充分か?」


 何故か生徒数人が感嘆の息を溢した。

 アルカも言い争うつもりはなかったので、目的の言葉を引き出せたら「次から気をつけてよね」と言って自席な方に戻る。それとほぼ同時に担任教師がやってきたため、菫はアルカに話しかけるタイミングを失って急いで席に座り直した。

 昴生は読みかけの本を閉じ、何かを考えるように理由もなく背表紙を眺めていた。


 ホームルームを終えた担任が出ていき、一限目の授業が始まるほんの僅かな時間で菫は後ろを振り向き、神妙な顔のアルカに小声で話しかける。


「アルカ。わたしのために言ってくれたのは嬉しいけど、さすがに教室で急にあんな言い方したら昴生くんだって怒るよ」


「あいつ怒ってなかった」


 アルカの反論は至極冷静だった。不貞腐れたり、怒ったりすることなく平坦な答えに、菫も目を丸くする。


「そ、そうなの……?」


「そ。いつもの腹立つ感じが無くって、なんかこう、真面目な目してた」


 確認のため昴生のほうに視線を向けると、彼は既に次の授業の準備をしていた。彼の席は中央寄り、教室で後方角の菫達の席からは後ろ姿と動く手元が何とか見える程度でアルカの証言の正誤は確認出来ない。


「まさか継片が、おはようを知らないとは思わなかったなぁ」


「多分別の理由だと思うなぁ」


 蛇口から水直飲み姫は仲間を見つけたような喜色を浮かべていたが、彼の名誉のために否定しておいた。


 そして授業が始まり昼が過ぎ、アルカが席を離れていた隙に他クラスの同級生が、わくわくと好奇心が抑えられないような調子で話しかけてきた。


「織部さんは聞いてる? 片岡さんと継片くんが夏休みの間に付き合ってたって話」


「はい?」


 片岡アルカと継片昴生は夏休み前に関わりは持っていなかった。片岡アルカ、継片昴生両名とも生徒同士の積極的な交流を避けている。

 そんな二人が夏休み明けに、教室内で親密に会話を弾ませていたという。


 いわく、二人とも人見知りの激しさからお互い気になりつつも一歩を踏み出せずにいたが、夏の魔力の前に自分を曝け出し合ったとか。

 いわく、実は幼馴染であった二人は高校で再会。美しく成長したことで互いに声をかけづらくなっていたものの、夏休みになんらかのきっかけで昔のような関係に戻ったとか。

 いわく、この夏の間に婚約者になったとか。

 いわく、実は隠していたが二人は既に婚約者同士として知り合っていたが同じ学校、同じクラスになってしまった奥ゆかしい二人は話しかけることが出来ずにいたが、長期休暇で家族として旅行に行き距離を縮めたとか。

 エトセトラエトセトラ。とにかく色んな噂が飛び交っていて正確なのはどの馴れ初めなのかと聞きにきた、らしい。


 菫は軽く眩暈がした。挨拶を返されなかった寂しさを愚痴っただけなのに、どうしてこんな事態に。朝は持っていた責任感を放り捨てて現実逃避をしたかった。剥いた白目を隠すために瞼を閉じる。夢であれ。しかし目を開いても悲しいほどに現実だった。


「……二人は、付き合ってないから……」


 とんでもなく不本意そうに嫌そうな顔をするだろう二人の顔を想像して何とか絞り出した。アルカに関しては誰を好いているのか知っている分、きちんと否定しなければ。


「アルカも昴生くんも、そういう話を勝手にされてたら嫌がると思うから、変な噂回さないであげて。お願い」


 二人に対して悪意がなければ、こう伝えるだけで充分だろう。同級生は「確かに」と納得したように頷いたため、菫はホッとした。


「シャイっぽいもんね」

「しゃい?」


 しゃいってなんだっけ。安堵した菫はノーガードだった。同級生の変化球に対応出来なかった。


「そう! 二人が話してる時の話聞いてたら、奥ゆかしいとかじゃなくてツンデレカップルじゃん? とか思ってたから納得〜。そっかそっか、それじゃ周りがワーキャー騒いだら拗れちゃうかもね。うんうん。二人のために静かに見守ろって言ってみるね。教えてくれてありがとう〜!」


「んっ? ン、んん、うん? 待って!?」


 だが待たれない。

 同級生の俊敏力にも対応出来ずに菫は席から立った瞬間にはもう姿は見えなくなっていた。


 そういえば彼女陸上部だった。そしてここは菫の、アルカも昴生もいる自分のクラスだ。運動部所属の人は声が大きな人が多い。先程疾風の如く去っていった彼女もまた同様に、ハキハキとした快活な良く透き通る声を持っていた。教室内にいたクラスメイトはしっかり彼女の勘違いを聞いていた。何故か納得して頷き出す数人。


「うわ、ちょっと一緒に教室入るみたいになるからやめてくんない?」


「ならさっさと入れ、ドアを塞ぐな」


 静かな教室に渦中の二人の声がはっきりと聞こえてきた。菫は白目を剥いた。

 アルカは昼食後に夏休みの宿題がもう少しで出来そうだから提出を待ってほしいと教員室に向かっただけで、昴生は昼休みは図書室に行くのが日課だというのを、教室内で菫だけが知っている。二人が別々に行動していたと知らないクラスメイト達は、なるほどなぁと子猫がじゃれあっているのを眺めるような顔をしている。


 完全に、ツンデレカップルを微笑ましく見守るクラスメイトの構図である。

 菫は力が抜けて床に膝と手をついて蹲った。


「菫っ!? ど、どうしたの、大丈夫!?」


「はい、あの、いえ大丈夫ですが……全然大丈夫ではなく、大変申し訳なく……」


「本当に何があったの!?」


「……また何か些細な事で、自分の首を絞めているのか?」


「またって何!? 菫はそこまでうっかりさんじゃないってば!」


「片岡が言うほど織部はしっかりしていないだろう」


「はぁ~? 友達の私より、友達じゃない継片が知ったようなこと言わないでくれる~?」


 迷わず菫のフォローに回るアルカにも、白い目で見ている昴生にも等しく、菫は申し訳なさで打ちひしがれていた。

 まぁ、ちょっと、ちょっとだけ、わたしだけのせいじゃないとは思う、と菫はこっそりと心の内で自己弁護しながら、どうか妄想じみた噂が早く風化し、二人の耳に届きませんようにと祈った。


 そうして、一つまた噂が回る。

 織部菫が片岡アルカの攻略に続いて、継片昴生も攻略したと言う。当事者達が聞いたら「噂の発信者は気でも触れたのか」と正気を疑う内容であったが、幸運にも当事者達の耳には入らず、不幸にも当事者達の知らないところでしっかりと広まっていった。

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