閑話 方舟はまだ知らない

 片岡アルカは、とある片田舎の老夫婦の元で暮らしていた。駅どころか線路すら近くになく、廃線となったバス停跡地が残っている山と畑に囲まれた村だった。

 夫婦とアルカは血縁ではない。ひょんな縁で知り合った慈愛深い夫婦が身寄りのないアルカを憐れんで、ならば我が家の子になればよいと、これまたとんとん拍子に養子となった。きっと簡単な話ではなかっただろうが、幼かったアルカにはその手続きの詳細はわからず、いつの間にか夫婦の娘、片岡アルカとなっていた。


「は!? お父さんだぁ!? やめろ馬鹿、こんなしわくちゃの爺が父親なんてみっともねぇだろ! 爺さんとでも呼べ! 晴子はるこさんのことは晴子さんに聞け!」


「私? 私は行光ゆきみつさんとお揃いがいいわ。アルカちゃん、私のことは婆さ」


「晴子さんは婆さんじゃねぇ!!」


「あのね行光さん、私達同い年なんだから貴方が爺なら私だって婆よ」


 行光は他者を常に威嚇しているような大声に見合った熊のごとし大男で、そんな男の隣で居心地よさそうにいつでも晴子は微笑んでいて、アルカの目に映る二人はとても温かい夫婦であった。

 片岡夫婦とアルカは養親養子の関係であったが、五十歳以上離れた年齢差やアルカが二人に対する爺さん婆さん呼びもあり、小学校の同級生からは祖父母の元に身を寄せていると思われていた。けれど、片岡夫婦と同じように長年その土地に暮らしている大人はある程度事情を知っているために色んな噂が巡っていたらしい。


「おまえ、親から捨てられたんだろ」


 巡り巡った噂は当然子供の耳にも入り、一人の同級生がアルカに不躾な言葉を投げつけてきたのは小学四年生の頃。

 その頃、アルカの神経は逆立っていた。思春期と呼べる年齢だったこともあるが、養母である晴子の体調が優れず入退院を繰り返していたのだ。養父の行光は「子供が病気の事なんて知らんでいい」とそれはそれは頑固に話そうとせず、晴子に聞けば申し訳なさそうに「大丈夫、すぐによくなるわ」とアルカの寂しさを汲むだけで、やはり教えてもらえなかった。

 手を握ると元気が出る、そう言われて手を握りながら何でもない話をする。それだけしか出来ずに苛立ちは積もっていった。


 そんな折、唐突に投げられた言葉とにやにやと笑う同級生の無神経な態度はアルカの神経を逆撫でした。


「……は? 捨てられてなんかないけど」


「でもおまえ、父ちゃんも母ちゃんもいねぇじゃん。おまえんとこの爺ちゃんも婆ちゃんも本当の祖父ちゃん祖母ちゃんじゃねーんだろ? かっわいそー」


「本当のって、何? 爺さんと婆さんに本当も嘘もない。意味わかんない事言わないで」


「血が繋がってないんだから、おまえんとこは嘘んこなんだよ」


 話にならない。血縁の重要性を理解出来ないアルカは対話を諦め、その日を境に同級生を無視し始めた。

 過疎化が進み子供も少ないその地では、アルカの同級生はその男子を含めて両手の指程度。数少ない子供達は、その二人の対立をひどく面白がった。

 同級生に同調して親がいないとからかい、無視し続けることに苛立ち髪を引っ張る暴力を振るう子もいた。アルカに気を使い、からかってくる同級生達を諫める子もいた。ただ、中立の立場で迷惑な同級生を宥めるだけの自分に酔っぱらっているだけという本心が透けて見えていた。どうも最初にからかってきた同級生はアルカに好意があったらしく、子供達の諍いを見た大人は、同級生の好意に免じてアルカに寛大な対応を求めてきた。


 そうなると、誰もかれもがアルカには自分の敵に見えた。学校での居場所は元々あってないようなものだったが、あまりにも居心地が悪かった。だからといってアルカの徒歩圏内は全て顔見知りで、家に引き籠るしかなかった。けれど、日中家にいると暇を持て余した同級生が放課後襲撃してくるようになり、アルカは途方に暮れることになる。

 誰もいない、静かな場所を求めて山のふもとに身を潜めていた。がさがさと草を揺らしながら近づいてきたのは、小さな狸。


『この生き物、こないだ食べ物くれたなぁ』


「前に会ったことあったっけ? こんにちは」


『コンニチハ』


「ここ、たまに車通るから気を付けるんだぞ」


『あぶない。覚えたよ』


「……ん? どうかした?」


『あぶない。あぶない』


「危なくないとこ連れてってくれるの?」


『あぶなくない、行く』


 服の裾を咥えて引っ張られたアルカは仕方ないと腰を上げる。行き場所に困っていたアルカにとって、動物達の安全地帯はなかなか居心地が良かったのでお誘いを受けられれば喜んで獣道を通っていった。

 特にこの小さな狸はアルカをよく招待してくれた。お礼にと色々食べ物を渡してそのうちの煎餅を気に入ったのか、食べ物と一括りの中でなぜか煎餅だけは覚えたらしい。


 アルカは自然の中で命を学んだ。命は巡るもの、命は終わるもの。

 だからこそ、数カ月後養母が病院で息を引き取る事になった時、幼いながらも冷静に受け止めることが出来た。晴子の眠っているような穏やかな顔を見て、最期まで手を握って見送れてよかったのだと思えた。


 納得出来る形で命を看取ったアルカは、だから、だからこそ許せなかった。


『おまえ本当気持ちわりぃなー。こないだ狸と喋って、煎餅なんてあげてたんだぜこいつ』


 畑を荒らす害獣用に設置された檻の中に、煎餅があったらしい。その煎餅につられて一匹狸が捕まって、それが作物を食い荒らしていた一匹だと処分されたらしい。

 養父から、狸も煎餅のうまさがわかるんだなと、夕食後の些細な雑談からそんな話を聞いた時、同級生の言葉が頭に蘇って目の前が真っ赤に染まった。


 絶対にあいつがやったんだ、わざと、わざわざ狙ってやったんだ。

 アルカは何の根拠もなく狸との交流すら突き止めて揶揄した同級生を疑った。

 それまでずっと無視し続けた同級生に翌日学校でそれを確かめれば、アルカから話しかけてきたことに気を良くした同級生はそれはそれは得意げに肯定した。


「あんな狸とオトモダチになるくらい寂しかったなら、親なしだけど仲良くしてくださーいって言えばよかったんだよ」


 ガタガタの歯並びを剥き出しにして満足そうに笑う顔が、あまりにも気持ち悪かった。


 嫌悪感が心を支配したその時、校舎の窓が割れるほどの突風が噴いた。ガラスの破片を浴びて驚いた同級生はまた破片の散らばった地面に転がってひどい大怪我をした。すぐそばにいたアルカは無傷のままそこに立ったままだった。


 その時アルカは魔術という存在を何も知らなかった。

 人間と話せるのだから狸と話せることに違和感も持たなかった。

 病魔に蝕まれ苦しんでいた養母の痛みを、握った手から和らげたことも気付けなかった。

 己の感情に応えるように、吹き荒れた風がガラスの破片を纏って怒りの矛先を襲ったことも、ざまあみろとしか思わなかった。

 どうして巻き込まれた自分が無傷で済んだのかもわからなかった。

 そんな異常を当たり前として受け入れていたアルカを目の当たりにした他者に、ひどい恐怖を与える事がわからなかった。


「うぎゃあああ! ぁああ!! ……っい、いだい、痛い痛い痛い痛い!! う、ううっ……おまえ、なにしやがった!? どうやって窓なんて…!」


「私は何もしてないでしょ」


 怪我に苦しんでいる様子を見て、少しだけ胸がすく。無意識にアルカは同級生に向けて微笑んでいた。初めてだったかもしれない。


「ひ……ッば、ばけ、もの……!! おま、おまえ人間じゃなかったのか……!?」


「はは、化け物とか。お前は最初から最後までずっと意味わかんない事ばっか。もう話しかけんな、ゴミ」


 地面に這いつくばって動けなくなった血まみれの子供には、嘲るように笑い見下ろす綺麗なままの美少女がおぞましいものに映った。それをアルカは気付かない。たとえ気付いたところで、悍ましい存在から向けられる感情の変化など、アルカにとって降ってくるガラス片のようなもの、鬱陶しくてどうでもいいことだった。


 もっと苦しめばいいのに。

 そう憎まなければ、心の拠り所を奪われたアルカは本当に怪物にでもなってしまいそうだった。


 同級生はアルカによる被害を訴えたが、当たり前のように事故として片付けられた。同級生は怪我が治っても登校してこなくなり、残った生徒はアルカを腫れ物を扱うように関わってくることはなくなった。ただ、いつも何かを言いたげな視線に刺されながら囲まれていた。

 問題はなくなったというのに、学校が居心地の悪い場所であることは何も変わらなかった。不登校だった同級生が、重い病を患ったという噂が流れ出したところで、アルカは限界に達した。


「学校行きたくない」


「あ? 学校に行かないなら将来どうするつもりだ」


「わかんない。爺さんと一緒にいたい」


「アホ言え。俺みたいなクソ爺は長生きするもんだが、それだってお前が死ぬまで生きるつもりはねぇぞ」


「だってもうやだ。あいつら皆気持ち悪い目で見る」


「ああ、お前は黙ってりゃとんでもなく綺麗な顔してるからな。そりゃあ見る」


「爺さんも婆さんもそんな目で見なかった。もう爺さんと婆さんとしかいたくない」


「ったく、晴子さんがいなくなったからって赤子返りしやがって」


 どうするか考えとけよ、と養父は素っ気なく言う。

 けれど、「学校に行け」と頭ごなしに否定することも、「どうして行かないんだ」と聞かずにいてくれた。


「行きたくなけりゃ行きたくなるまで好きにしてろ」


「うん……」


「だが何もしないのは許さん。掃除でも洗濯でも料理でも、勉強でも散歩でも山遊びでも、一日一回何かしらはやれ。空っぽの葦になるな」


「……空っぽの葦って、どういう意味?」


「気になったなら明日でも明後日でも自分で調べな」


 アルカが何も考えていない事も養父にはわかっているのだ。これからどうしたらいいのかわからなくなっているアルカに、明日やれることを与えてくれる。


「……学校に行きたくなる時なんて、くるのかな」


「知らん。だが生きてりゃ必ず、ここじゃないどこかに行かないといけなくなる時はくる」


「そん時は爺さんもついてきてね」


「俺には俺の人生がある、それは約束出来ん」


「……やだよ、一緒がいいよ……」


「そんなこと言ってられるのもガキのうちだけだ。大人になりゃこんなクソ爺より一緒にいたい奴がわんさか出来る。お前は人を集める顔だけは立派なんだ、そん中から見つけろ」


 子供心ながら、養父の言葉はひどいもんだとむくれた。こういう時は養母のようにずっと一緒にいたいねと気持ちに寄り添ってもらいたいのにと口を尖らせる。

 けれど、養父は嘘をつかない。

 だからいつか、養父以上に心を許せる誰かと会える日が、本当に来るのかもしれない。


 そんないつかの夏の日を、幼いアルカはまだ知らない。

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