〈方舟遺物〉
弓の魔術師は、アルベアトの証言が妄想の産物だということを残念に思っていた。もしも現実であれば、魔術の剣を授けた美しい男はこれまで出会ったどの魔術師より優れた魔術師であろう。そんな淡い憧れを抱いていた。
だからこそ彼の証言の中で現れた美しい男と方舟の上で邂逅した時、頭の処理が追い付かずに失神したらしい。失神したことにも驚いたらしい。自分は幽体や意識だけの存在ではなく、確かに自分の肉体で美しい男と対面しているということなのだから。
そして甲斐甲斐しく介抱していた男から名前を聞かれたらしい。弓の魔術師が名乗れば、男も嬉しそうに自分の名を名乗った。自分はアーノルド・モルゲンシュテルンだと。
あなたがアルベアトに剣を与えたのかと聞けば、そうだよと答えた。
これだけでは弓の魔術師は彼が現実の存在なのか幻覚なのか判断が出来なかった。いかんせん場所が場所だけに現実味が薄すぎた。
ここはどこなのかと聞けば、「ここは方舟の上」だと答えた。
舟とは水の上に浮かぶもので、陸の上に留まるものだ。気球のように浮かびながら海を見下ろすものではない。方舟とは何だと聞けば、アーノルドは少しだけ不思議そうに眼を瞬かせたという。むしろ方舟を知らない人が存在していることに驚いたような反応だった。
「大地がすべて水の底に沈んだ事を、未来では忘れられてしまったんだ」
魔術師は言われた言葉が理解出来なかった。それではまるで、現実みたいではないか。
地平線の果てまで、荒れた海と空しか見えない。それが世界の全て。
菫は覚えた違和感に思わずぱちぱちと瞬きを繰り返す。
日常的には聞き慣れない『方舟』。実物を見たこともないので明確な形も思い浮かばないのだが、それが舟であることはわかる。
「……はこぶね、って、あれだよね。大きな舟を作ってそれに人間も動物も乗って、大洪水から生き残ったって話」
「そう、水に流されて山に漂着した事から水面に浮かぶ舟のはずだ。だがアーノルドの言う方舟は水の上ではなく、宙に浮かぶものだった」
「それってやっぱ過去じゃなくて、未来の話だったりしない? アーノルドさんは未来人で、いずれ世界は大洪水に襲われるぞーって教えてるとか」
「それに関しては、アーノルド本人が否定している。自分が見た世界を変えるために、遠い過去までやってきたのだと」
「……ん? それだと……」
話がややこしくなってきて菫は頭がこんがらがりそうになるが、アーノルドの残している言葉に新たに違和感を抱く。
その引っ掛かりは正解だったらしく、頷いた昴生はさらに畳みかけてくる。
「アーノルドは未来の魔術師、らしい。恐らく魔術を用いて過去にタイムトラベルし、過去に起きた大洪水から人類を含めた生物を救済した、それが魔術師達が出した結論だった」
「……今の魔術師は、時間に干渉出来ないんだよね?」
「そうだ。時間遡行など更に未知の技術。アーノルドは今の僕達よりも遥か未来に存在するはずの魔術師だと考えられている」
「あ……頭が追いつかない」
アルカが頭を抱えだして、菫も便乗した。わかる、頭から煙が出てるみたいだ。
情報をまとめると、アーノルドは未来人であり、過去へ遡り、地上全てを押し流すような大洪水の被害を回避した。
現時点の昴生を含めた魔術師達がアーノルドの技術に関して理解出来ないのは、彼が未来人のせい。時間遡行も、過去から未来に向けてメッセージを送る事も、空飛ぶ方舟も、授けられた武器も、全て未来の技術、魔術においてのオーバーテクノロジーという事だ。
タイムスリップが不可能な面では同じだが、空を飛ぶ機械や武器の量産技術を確立している面では、人間の技術のほうが上なのかと思うと少し不思議な気持ちになる。どうして魔術で武器を作れないのだろう。そもそも未来人が魔術師の始祖でいいのか、頓珍漢な話になっていないか。
菫の思考が途中から横道に逸れ始めたところで、テーブルに突っ伏したアルカが「結局それがなんなの?」と疲れたように吐き出しながら顔を上げる。
「そりゃー住む場所が海に沈んだとかゾッとする話だけど、大昔の話じゃん。恐竜は氷河期に滅びましたとかそういうレベルの話が、なんか今役に立ったりするの?」
「役に立つ立たないは関係ない。魔術師達にとって重要だったのは、魔術師以外の人間から視認されない空中都市を魔術によって生み出す事が出来る、この一点だ」
「……空中、都市」
ここまで物語を読み聞かせられているような現実味の無い話が続いたせいで、またかと聞き流しかけたが、聞いた単語を繰り返しながら咀嚼する。
一般人からしたら近未来都市のようなファンタジーに近い夢のある話だが、魔術師達にとっては過去に存在し、未来に確立される技術だ。机上の空論ではあるが、不可能ではない。
「魔術師は、空に住みたかったの?」
「正確な目的は支配だ。これより我々に従わない国には制裁を加える、などと予告後に地上千メートル地点からバケツ一杯の小石を都市部に振りかけるだけで一部は大惨事になる。そんなことが容易になる」
夢のある話から、一気に背筋が凍るような恐ろしい話になった。
魔術は、魔術師以外から視認できない。魔術師による空中都市が作り出された場合、そうでない地上の人は対抗する術がない。それとも科学技術で対抗できたりするのだろうか。どちらの知識も乏しい菫にはわからず、ただただ恐怖に顔が引き攣る。
隣にいるアルカも嫌悪感を表情に剥き出しにしながら飛び起きた。
「なに、それ……脅迫じゃん」
「そうだ。空を得る事で地上に住む人間に対し、平等に圧力をかけられる。魔術師は君臨者となる足がかりにアーノルドの方舟を求めた」
君臨者。大掛かりな話になってきて、菫の思考はキャパオーバー寸前だった。何せ今まで全く知らなかった未知の力が、自分の生活をある日突如激変させる脅威として、ずっと潜伏していた事実を知ってしまった。もう全部昴生の頭の中で生み出された創作であって、魔術もタネのある手品であってほしいと思ってしまう。
よほどひどい顔をしていたのか、一瞬目が合った昴生が微かに目を細めた。
「だが、方舟に繋がるものは依然として見つかっていない。最低でも島程度には巨大な物だと推定されている。陸上で見つかっていないなら、海底に沈んでいる可能性の方が高い。その場合どれほど原型が残っているか、そもそも残されているかすらわかったものではない。――……それと、もし仮に明日急に見つかったとしてもすぐ動かせるとは考えられない。解析するだけで年単位の時間は必要だ。都市として安定させるなら、さらに時間がかかる」
脅威がなくなるわけではないが、それがすぐにやってくるわけでもない。昴生の言葉からそれを読み取った菫は少しだけ強張った体から力が抜ける。
時間があるならば対策は取れるだろうか。恐怖も不安もなくならないが、思考の雑音は少しだけ止んで、短く深めの一息をついた時、目の前の昴生が真っ直ぐ自分を見ていた事に気付いた。
そして菫の一呼吸を終えたところで確認が終えたとばかりに目線が少しずらされる。
「魔術師達は研究の方向を変えることにした。方舟を生み出したアーノルドから授かった物、そこから方舟の叡智へ至る事にした」
「……それ、って、まさか」
アルカが引きつった声を出した。続く言葉は彼の盾だったのか彼女の矛だったのかわからないが、どちらにしても正解だと昴生は頷いていた。
安心出来たのはほんのひと時だったのを理解した。そりゃそうだ、この同級生、いかんせん容赦がないのだ。
しかし彼が悪いわけではない。
彼が語る現状があまりにも、アルカに対して容赦がないのだ。
「そしてこれらは名称を与えられる。魔術の叡智、失われた方舟の欠片、始祖の遺物……総称、〈
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