ともいろの花火

 変種のライオンのような動物が、檻もない、こんな住宅地の公園の、祭り会場にいるはずがない。火に巻かれているはずがない。


 常識外の出来事に困惑する菫は余計な思考が頭の中を掻き乱し真っ白になる。本能が死を予感させる恐怖に支配される。

 獣が一歩、前足を動かす。それと同時に動いたのはアルカだった。

 菫の食べかけのお好み焼きが落ちるのも構わず、硬直している体を横抱きにして祭り会場に突っ込む。どう考えてもアルカ個人で対処出来ないと悟り、自分より立派な体格の大人が、知恵の働く人が多い場所に逃げ込んだ。


「おわっ、あれ? 今なんかぶつかった気がしたんだけど」


「わ、強めの風。花火大丈夫かなー」


「竜巻でも来ない限り大丈夫だってー」


 しかし、誰も気づかない。

 逃げ込んだアルカを追ってきた獣が祭り会場のど真ん中に降り立っているのに、何も見えていないように、祭りは続いている。

 そして獣は、獣の存在に気付いていない周囲には何の興味も示さない。虹彩の見えない黒い眼球はアルカ達だけを映している。

 幻覚ではない。人がぶつかり、地面に下りれば砂も舞う。見た目通りの実体があるはずが、何故か周囲から認識されていない。応援は期待出来ない。体高は大型犬よりも大きい、アルカが少し見下ろせる程度だが、四つ足のままならともかく前足を振り上げて襲い掛かられれば充分押し負けそうな体格差だ。さらにアルカは丸腰だ。


 逃げる。もうそれしか選択肢はなかった。

 人にぶつかりながらアルカは祭り会場を飛び出す。その両腕に顔色を悪くした菫を抱いたままだったから、急病で動転したのだろうかと気遣わし気に視線を向けてくるだけだった。


「アルッ、アルカ! な、なに、ライオン!? あれ!」


「わかんない! わかんないけど追ってくる! どうしようっ」


「隠れよう! このまままっすぐ走れる!?」


「わっかんない!! でも走る! あいつ足はそんな速くないけど、急ぐから掴まってて!」


 菫も祭り会場で誰一人騒がない異常さに気付いてようやく正気に戻るが、アルカと変わらないくらい動じたままだった。明らかに普通の動物とは思えない謎の獣が追いかけてきて、自分達以外誰も気付かない、気付かれなかったら当然助けを求められない。八方塞がりだ。

 唯一の対抗手段は、逃げ隠れる事だけ。

 スポーツエリア方向に向かって菫が誘導しながらアルカはそれに従って走っていく。

 木と東屋で死角になるベンチの前でアルカは身を潜めながら菫を下ろす。獣は少しずつ近付いているが、こちらを見ている様子はない。


「……菫って五十メートル走何秒だっけ?」


「ごめん、九秒台。アルカのほうが速かったよね」


「うん、七秒台。逃げるなら私が菫を持って走ったほうがよさそうかな」


「さすがに頼めないよそんなの……」


「置いて逃げろとか言ったら許さん」


「いや、わかるよ? 気持ちはわかるけど、でも……」


 もし逆に菫のほうが足が速かったとしたら、菫はアルカを置いて逃げられない。抱き上げるまではしなくとも、手を引っ張って逃げるのを諦めないだろう。

 アルカの怒りを理解出来る。だが現実の菫はどう考えても足手まといになっている。

 死ぬかもしれない恐怖は拭えないが、怖いからこそアルカはこの恐怖から逃れてほしいのも本心だった。


「そもそも、あれは何? 幽霊? 私達、急に見えないものが見えるようになっちゃった?」


「確かにそういう時期といったらそうだけど、普通は人の幽霊だと思う」


「幽霊に、効くものとかってあったっけ?」


「えっ、えー……お札とか、お経とか……塩とか?」


「あんな話通じなそうな見た目だからお札もお経も通じなそう……となると塩? 塩使ってる屋台とかあったっけ? 醤油とソースとかでいけない?」


「そんな料理の代用みたいな話じゃないんだけど……」


 仮に効くなら祭り会場に戻って醤油もソースも借りて撃退したい。塩味が有効打ならケチャップも借りたいところだ。

 ざり、と足音が迫り、若干緩んでいた緊張が再び二人の体を縛る。アルカはすかさず菫の体を抱き上げて足音とは逆の方向に向かって走り出す。獣は二人の姿を確認したのか、探り探りでさまよっていた方向を標的へと定める。


「小声でも話してても気付かれる、っぽい?」

「黙って様子見しよう」


「駄目だ、ばれた」

「多分呼吸まで聞こえるくらい耳がいいとか、匂いとかで追われてる」


「……最悪。隠れても、家に帰っても追いかけてくるじゃん」


「トイレとか行き止まりは入らないで。見つかったら逃げられない」


「川に飛び込んでみる?匂い誤魔化せないかな」

「夏でもさすがに体が冷えるし、水で足跡が残るから……最終手段かな」


 逃げて、隠れ場所を変えて、獣に対抗する術がないか観察しながら二人は言葉を交わす。そうしなければ神経が擦り切れてしまいそうなほど、恐怖の臨界点が近かった。

 獣は逃げられたから追っているだけで悪意や害意を持っていないのでは、と木の陰から姿を覗かせ様子を伺った結果、獣の前足の一撃によって成長途中の細い木がへし折れた。

 周囲に人はおらず、倒木の音は祭り会場まで届いたとしても囃子によって掻き消されたのだろう。間近で見て聞いた二人は、僅かな希望すらなくなって再び逃げ回ることになった。


 菫は全く走っていないのに先程から心拍数が下がらず、意識しないと息を吐くことすら難しくなっていた。アルカは肉体的にも精神的にも負荷が大きく、疲労感から肩で息をしている。

 じっとりと汗ばんだ肌に浴衣が張り付いて気持ちが悪く、全身運動した体は火照っているはずなのに寒気が止まらない。

 獣は変わらず、迫ってきている。


「……アルカ、アルカだけでも、逃げて」


「はぁ、っうるさい。言うな、はぁ、はぁ……許さんって言った」


「ほら、獲物が片方でも捕まったら、満足してくれるかも……」


「だから嫌だって!」


 菫だってそりゃ嫌だった。アルカの怒りも痛いほどわかる。

 祭りを楽しんで花火の余韻に浸りながら菫の家に帰る、そんな夏の夜を過ごす予定が、不可視の獣に追われて誰にも助けを求められず死を覚悟する恐怖の夜に変わるとは思いもよらなかった。

 花火といえば、半刻後に開始のはずだが未だ上がっていない。逃げ出してから三十分も経っていないのだ。

 こちらは疲労困憊で、獣のほうのペースは同じまま。突破口がなければ状況は悪化していく一方で、その果てに待つのは共倒れだ。


「でもさ、」


「いい、ふー……もういい。菫がそう言う、なら、知らん。もうむかついた。まだ試してない事、試す」


「え……?」


 綺麗にまとめ上げた髪からほつれ出た毛が汗ばんだ頬に貼りついていて、それを鬱陶しそうに払いのける。アルカの言葉遣いも仕草も今まで聞いたことないほど乱暴なもので、取り繕う余裕もないのが伺えた。

 ぼんやりとしている菫を木の陰になる場所に残し、アルカはコンクリートで固められた遊歩道のど真ん中でやってきた獣と相対する。


 一つだけアルカは対抗手段を菫に隠していた。

 うまくいかなかった場合リスクがある上に、話したところで確実に却下されるとわかっていた。

 言えば悲しませるとアルカは口を噤んだのに、菫のほうは容赦なく口にしたのだ。

 だから、知らん、むかつく、許さん。


「こっち来い! 毛むくじゃら!!」


 アルカは大声で猛りながらスーパーボールを獣の顔面に向かって投げつけた。

 軽いゴム玉は獣の眉間に当たり、落ちた地面に弾み上がる。殺傷能力などない攻撃だが、痛みや不快感を与えるには充分で獣は剥きだした牙の隙間から忌々しげに息を吐き出す。

 挑発に成功したと見るや否やアルカは菫を置いて走り出す。

 後ろを確認すれば、獣はアルカのほうへ駆け出し、置き去りにされた菫が信じられないと言いたそうな形相で立ち上がった。アルカが走れば走るだけ、獣と菫の距離はまた離されていく。


 獣がどちらを標的にするか博打だった。そして勝った。

 アルカは囮作戦が成功したことにひっそりと口角を上げる。


「……ッやめて!! こっち、こっちに来て!! こっちだって!!」


 置いて行かれたのではない。アルカは菫だけを逃がそうとしているとすぐさま理解して足元にあった適当な石を獣に向かって投げつける。反射的に投げた石は獣まで届かず地面に落ちた。

 菫は急いで二投目、三投目の石を選んで投げながら獣の意識を自分に向けさせようと声を荒げる。本当に方向転換して向かってきたらどう逃げるとか何も考えていない、必死の衝動だった。

 だが獣は反応しない。

 四投目の石が確実に獣の体に当たったというのに、まるで眼中にないように獣はまっすぐアルカを狙って走っていく。離れていく。


「あ、あああ……っどうして、どうして!! 待って! やだ、待って!!」


「菫ーっ」


 もうかなり遠くまで走っていったアルカが、得意満面に笑う。


「先に帰っててー!」


 そんな無茶を言いながら、彼女は木と葉の間に突っ込んでその姿を隠してしまう。

 獣がそれを追いかけ続くように姿が見えなくなると途端に静寂が訪れる。


 友人一人に危機を押し付けてしまった罪悪感と、極度の緊張状態からの解放に菫はその場で座り込んだ。

 アルカを追いかけなければ。

 けれど追いついたところで何が出来る。あの獣は菫を歯牙にもかけなかった。理由はわからないが獣の目的はアルカだけのようだ。帰っても問題はない――自分だけ帰るわけにはいかない。


 頭がパンクしそうになる、だが決めなくてはならない。

 どうしたらいいのかわからないまま、何もしない事になるのは、嫌だ。


 パン、と破裂音が響く。


「――あ……」


 遠くから微かに歓声も聞こえてきて、空を見上げれば青と黄色の火花が夜を照らしていた。

 アルカの髪と瞳の色の、光。

 光が消えていき次の花火が上がったのを見届けて菫は立ち上がる。

 後を追いかけようと駆け出すも着慣れない浴衣の走りにくさに眉を顰め、しかし走っているうちに着崩れたのかすぐに気にならなくなった。


「アルカ! アルカーっ!!」


 何も出来ないかもしれない。

 菫には疲れ果てたアルカを抱いて逃げれるような恵まれた筋力も無い。獣の牙や爪から庇って盾になろうとする度胸すらきっと無い。戦う術なんて考えるまでもなく無い。どれも成し遂げようとするアルカの格好いい姿を間近で見せられた後だから、尚更情けない。


 ならばせめて、約束を守ろう。一緒に花火を見よう。

 次々と打ち上がる花火の音をそっちのけに、それだけが出来る菫は走っていく。

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