ああ、嫌だなぁ。アルカは心中でぼやく。

 相変わらず追尾してくる獣の視界に入らないように身を隠しながら呼吸を整える。


 正直菫を抱いて走っていた時のほうが頑張れた。一人きりで逃げ続けるのは肉体的疲労も相まって精神的な疲弊もきつくなってくる。今日の思い出として持ち帰ろうとしたスーパーボールも、ラムネの瓶も、獣に叩きつけて無くなったのも堪えた。

 空に花火が上がってからどれくらい経っただろう。破裂音の数が手足の指より多いのは確かだ。


「ああ~~~、もう」


 花火が連続で弾ける音に掻き消されるのを祈りながら苛立ちを吐き出す。

 初めて出来た友達にあんな顔させて、大切な宝物にするつもりだった物も無くなって、綺麗に着付けてもらった浴衣もなんとか下着が見えないだけでみっともなく着崩れて、今は草の上で突かれたダンゴ虫のように丸くなっている。あまりにも惨めで、酷い体たらくだ。

 何一つ心当たりがないが、あの獣の目的はアルカだけのようで、菫と別れてから気付いた時は一緒に逃げたせいで巻き込んでしまった事実に凄まじい罪悪感に襲われた。せめて彼女も同じ結論に至って、迷惑をかけられたと憤慨して無事帰宅してほしい。一人で花火を楽しんだ後でもいい。


 そんなことを、あまりにも非現実的なことを考えてアルカは苦く笑う。

 菫がアルカを平然と切り捨ててくれるなら、最初に身代わりを提案なんてしない。

 脅威が離れていくのを妨害しようとしないし、解放されたのに置いて行かれたような悲鳴を上げるわけがない。

 だけど、菫とて人間だ。我が身可愛さに「しょうがないよね」なんて逃げる可能性も捨てきれない。保身に走ってくれればアルカとしては願ったりだが、パーフェクトではない。


「あきらめるもんか」


 一つだけ確かにわかる事はある。

 アルカに何かがあれば、誰よりも傷ついて責めるのは巻き込まれただけの菫だ。だから、獣から逃れるための突破口を必ず見つける。諦めたりしない。


 アルカは奥歯を食いしばり覚悟を言葉にして、草の中を手探りで石を集める。見つけられたのは手ごろな小石を三つ、袖の中にしまい込んで近付いてきた足音と反対方向に走る。

 少しずつ、本当に勘違いかと思うほど些細なものだが獣の動きが鈍くなってきた。

 おかげで休憩する時間は得られているが、獣の攻撃性も増している。太い枝が割られて落ち、生垣や花が薙ぎ払われて散らされて公園のあちこちが荒らされていくたびに顔を歪める。


 持久力の限界が近い。はあはあと上がっていただけの息が、ぜえぜえと呼吸するだけで喉が鳴るようになり、咽せ始めた。拾った石も使い切って、今は獣が折ったそこそこ頑丈そうな枝を両手で持ちながら、アルカは機会を伺っていた。

 チアバトン程度の長さの枝はアルカの腕力でも簡単に割れそうで耐久力は心許ない。一撃で仕留めるには、どこを狙うべきだろうか。目か、喉か、どちらが的中しやすいか。動物であれば急所だろうが、あれは動物なのだろうか。そもそも、この枝一本で無力化出来るのだろうか。


『まだ少し足りない』


「――は……?」


 不意に聞こえてきた柔らかな男性の声にアルカは顔を上げる。体をねじりながら周囲を見回すが、当然声の主らしい姿どころか人すら見当たらない。代わりにだらりと舌を垂らして荒々しい呼吸の獣のぎらぎらとした目と目が合った、最悪だ。

 足りないってなんだ。もうこれ以上何もない。何も持ってない!

 アルカは幻聴に対して悪態をつきながら飛び掛かってくる獣の鼻先に突き刺すための枝を向ける。ああ、駄目だ、位置がずれている! 狙うなら目か喉だったのに! だけどもう退けない!


「うあ、あ、あぁああぁああ!!」


 咄嗟の反撃で枝が当たったのは目でも喉でもなく、獣の歯茎だった。

 枝が折れるくらい力一杯突き出した一撃は、獣の肉を浅くとも確実に抉った手ごたえがあったが、――出血はしていない。


 反撃に驚いたのか、獣は後ろに飛び退いて警戒する素振りをしている。距離が出来ると改めて枝を構えるが、その長さは元の半分以下になっていた。この短さでは喉を狙えば手首まで獣の口に突っ込まねば届かない、目をうまく突けたとしても獣の鼻先に自分の上半身を差し出すような距離まで近づかなければならない。このよくわからない怪物に対抗する手段がない。

 アルカの戦意が消えかけたのを察したのか、獣は再び襲い掛かってくる。


 いいや、負けない。腕一本の犠牲で生還出来るなら、まだ諦めない。

 燻り出した闘志を燃やし、枝を握りしめた拳を振りかざしたアルカは獣をまっすぐ睨みつける。


 その獣が、横に吹っ飛んでいった。


「……へ?」




***




 菫はアルカを探して公園を走り回る。

 いない、いない、いない。焦燥感ばかりが募っていく。

 せめて人がいれば聞き込みで追跡出来たかもしれないが、そもそも夜の公園に人はあまりおらず、いたとしても大半が祭り会場か花火がよく見える開けた場所に行っていて、菫達のいる木々に囲まれた見晴らしの悪い場所では驚くくらい誰もいなかった。

 スマートフォンを確認すると時刻は二十時十八分。花火が上がるのは三十分間。あと十分程度しか時間が残されていない。


「………………ぁ、あ!!」


 花火の音に交じって遠くから吠えるような声が聞こえた。それは獣ではなく、少女の咆哮だ。声の方向に向かって菫は走っていく。

 駆け出したその背中に、声をかけられたことも気付かないまま。


「――……織部?」




 菫が向かったのはスポーツエリア。

 テニスコートのフェンスの向こうで獣と対峙するアルカを、ようやく見つける。アルカも獣も、菫の存在に気付いていない。


 織部菫は、ただの高校生だ。

 毎年の花火を楽しむような呑気で、恵まれた、ただの子供だ。自慢出来るような特技も才能もない。あるとすれば尊敬出来る兄くらい。アルカの元に辿り着くまで九秒もかかってしまう並の身体能力しかない。

 でも今は、今だけは、一秒でも一コンマでも速く、九秒の壁を超えるだけの全力を出して、菫が持つ唯一の武器を持ってあの獣に一矢報いる。


「えい、や――ッ!!」


 全速力で近付き、勢いのままに菫が持てる最大の武器、己の体をまるごと獣に投げつける。格闘技の技能などない、素人の全身全霊をかけた捨て身の体当たり。肩を痛めた気がする。

 獣は菫の全体重より重かったのか、まるで壁にぶつかったように菫は後ろに跳ね返って尻餅をつく。横からの追突が予想外だったのか、獣は転がるように吹っ飛ばされていった。


 うまくいったと心の中で自画自賛する間もなく、呆然と目を丸くしているアルカの元へ這うように近付く。


「はぁっはぁっ……あ、アルカ」


「菫……!? なんで、どうして……」


「そら、空見て」


 立ち上がろうとする菫の体をアルカは抱き留めながら、言われた通り人差し指が指し示す方角の空を仰ぐ。


 瞬間、夜空が輝いた。

 ぱちぱちと炭酸のように小気味の良い火薬の弾ける音が、きらきらと金色の火花の噴水が闇夜に散っていく。

 ずっと緊張状態だったアルカの耳に、雑音のような火薬の破裂音が花火の音として、目に美しい大倫の花として届いて、感嘆の息を飲む。


「みえ、た? すごい、ちょうどわたしが好きな、しだれ柳の花火だぁ」


「…………」


「はぁー、間に合って良かったぁ……アルカと花火、みれてよかった」


 アルカの腕の中で呼吸を整えている菫の体は強張っている。いつもと変わらないように喋っている声に含まれているのが、安堵だけではないのが伝わってくる。


 文字通り、菫が身を投げ打った一撃で獣を離した。

 よろめきながら再び獣が歩み寄ってくる僅かな時間を作るために、菫はアルカの元まで戻ってきた。

 ただそれだけのために、一緒に花火を見るためだけに。


「……菫は、ばかなの?」


 思わず零れたのは、呆れたような気持ちだった。

 空を見上げていた菫は、そんなことを言われるとは思わなかったとばかりに驚いた顔、次の瞬間に噴き出すように、いつものように笑う。


「あははっ! そうだったみたい!」


 後悔なんて欠片もない満面の笑顔を、強く抱き締めてくる菫の背後に獣が迫ってくるのを、アルカはどこか遠くの出来事のように眺めていた。


 花火の音が聞こえる。

 獣が口を開く。

 爪を伸ばした前足を振り上げる。

 あの爪は、菫の背中を傷つけるだろう。


 アルカの心は凪いでいて、このまま温もりに包まれたまま死んでもいいと思えるくらい、満たされていた。

 だけど、だから、ああ!

 だからこそ! この温もりを奪われることだけは許せない。

 静かだった心に開いた小さな穴から、急激に熱が噴出する。

 この夏の夜の花火のように、まばゆく光り、弾けるように全身が痺れ、燃え上がる。


『――ああ、目的を見つけたんだね』


 声が聞こえる。

 足りないと称した幻聴の声が充ちたように微笑む。


『ならば私は、手段を与えよう』


 いつかどこかで見たような、どこまでも広がる濁流の海がアルカの瞼の奥へ、頭の中へと流れ込んでくる。


 草をまとった人々が海を見下ろしては泣いている。揺れる地面に動物達も惑っている。

 ここは全てが海に飲まれる前に掬い上げられた、ささやかな箱庭。

 命を繋ぐための小さな世界。空に浮かぶ四角い方舟の上で、土と草と動物の血肉の匂いが染みついた人々に囲まれてたった一人、やたら目立つ小綺麗な人がいた。

 長い金色の髪を揺らしながら唇が美しく弧を描く。



『どうか、君の得た力が、人の為にありますように』



 幸せそうな祈りが手の形になって、現実のアルカの手に重なった。

 声と同様に半透明の手も幻覚だったのか、線香花火のように弾けて光に消える。

 祈りが触れたアルカの手の中には折れて短くなった枝。


 枝が光を纏い、寸前まで差し迫っていた獣の体を貫くように伸びる。

 否、直後に獣の苦痛を帯びた絶叫が上がる。その光が確実に獣の体を貫いているのだ。手の中から伸びる細長い光が鍍金のように剥がれては粒子のように消えていく。



 アルカの手の中に残ったのは、獣を貫く一本の矛だった。

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