第4話(おしまい)
唯と啓介のクラスが反乱を起こしたちょうど次の日に、わたしは古井に聞きたいことがあって職員室に向かっていた。九月の放課後のことだった。演劇と絵の展示が合わさった藝術祭と呼ばれる学校行事が間近に迫っていて、生徒たちは慌ただしく、セリフを覚えからだを使い、もしくは筆を走らせている。職員室は本棟の一階にある。わたしが職員室に入るとひとりの先生が「佐川またなんかやったんか」と言い、わたしは「自分から反省しに来ると思いますか?」と返した。わたしはたいがい信用されていない。窓際で椅子に座って、窓を開けて外を眺めている古井にわたしは話しかけた。
「古井先生ちょっと聞きたいことがあるんですけど」
古井はからだをこちらに向けて、わたしのことを見上げた。「きみか」とつぶやいた。わたしは国語の授業だけは得意だったので顔を覚えられていた。しわと染みがある手で黒ぶち眼鏡のつるを触ってかけなおした。古井はこの学校でいちばん年を取っている。
「なにか? 藝術祭のことかな……」
ひどく疲れた声だった。例の抗議のことで疲弊しているのだろうとは思った。
「いえ、芸術祭のことではなくて、漢字の小テストで聞きたいことがあります。芸術の「藝」っていう字が今回の小テストにありましたよね、これって中学で覚える漢字じゃないですよね? 高校でも覚えないか。もっと漢検一級とか受けるひとが覚える漢字で、なんでこれがあるのかなーって思って」
古井は腰を上げて深く椅子に座り直した。椅子が軽く軋む音がする。
「その質問をしたのはきみがはじめてだ。そして、それが書けたのもきみだけだ」
「昔の小説読むのも好きなんで。読んでいるうちに覚えました」
「佐川さん、きみは藝と芸の違いがなにかわかるか?」
わたしは少し考えて「わかりません」と言った。
「藝という字には草木の苗を植えるという意味がある。豊かな実りのために苗を植える……。芸は反対で刈り取るという意味がある。藝術のゲイを芸と書くようになったのは戦後のことだ。国がそう決めたからだ」
古井は疲れた顔でそう言った。
「まったく反対の意味なんですね」
「そうだ……わたしもまた戦後の教育を受けたものだが、違うものは違うと言いたい。わたしは正しい言葉を伝えたい」
「たたかい方を間違えましたね」
正しさを伝えることとそれが正しい方法で行われているかは別の問題だ。しかし、ルールが間違っているなら? 仕組みそのものが間違っているのなら、わたしたちは常に誤りつづけるし、正すことはできない。古井は間違えたがそれが本当に古井だけのせいなのかわたしにはわからない。そしてたたかえば傷がつく。
古井は眼鏡を外してこめかみを押さえた。蓄積された疲れを押しとどめるように短く息をする。
「この年齢で今まで使ってきた武器を変えることはできないんだ」
「わたしは……そうは思いませんけど。だって先生はわたしが名前の欄に佐川みなみと書いて、一度もなにか言ったりしてこなかったじゃないですか……ねえ、先生、外からうたが聞こえてきませんか? きっと教会からだと思うんです」
窓の外から強い秋風が吹いている。ふたりで外をしばらく眺め耳を澄ましていたが、「わたしにはなにも聞こえん」と古井は短くつぶやいた。帰り際に「藝術祭、頑張りなさい」と声をかけてきたので、わたしは「はい、藝術祭頑張ります」と言った。
「佐川さん。佐川南青紀さーん」
診察室からわたしを呼ぶ声が聞こえた。ひざががくがくとふるえる。わたしは立ち上がることができないでいた。さっきより熱が上がったのかからだがうまくコントロールできない。ウイルスを追い出すためわたしの細胞が熱を上げてたたかっている。死にたくない死にたくないとたたかっている。ほんとうにわたしは疲れていて、頭がうまく働かない。からだも追いつかない。待合室の白い光がいやだ。医者がいて病人がいて、なにも問題がないという空気がいやだ。悪寒がする。なにしに来たんだろうと思う。唯と啓介のことが頭によぎる。おそらくだけどあのふたりは付き合うだろう、もしかしたら結婚するかもしれない。そのときにわたしはふたりと並んで歩けるだろうか。「佐川南青紀さーん」もう一度名を呼ばれる。「──!」わたしはさけんだ。待合室の視線がわたしに集まり、心配した看護師がわたしのもとにかけ寄ってきた。寄るな。来るな。うたが聞こえる。これも欠けたことのない構造だとするのなら、わたしには傷痕を残す用意がある。ここに来た理由を教えてやる。わたしは立ち上がると、ふわっとからだが宙に浮き、倒れる直前に、あらん限りのちからでつるぎを投げ込んだ。薄れゆく意識の中、くちを塞げと、どよめきと悲鳴が聞こえ、人々が泣き叫ぶのを見て、わたしは気絶とも眠りともつかないなにかに落ちていった。
その名で呼ぶな、世界が変われ 波止場 悠希 @grabit
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