第3話
啓介は学校をさぼったかと思うと、きまぐれに昼に登校し、先生やほかのクラスメイトと衝突したりしていた。卒業式にも来なかった。そのあいだも唯は啓介の素行不良を正そうとし、わたしはそれを眺めていた。唯は啓介を追っかけて捕まえようとする。捕まえるのではなく諭したいだけかもしれないけれど、傍から見るとアンナ・カヴァンの『氷』みたいだ。「少女」を執念で追いかけ回す「私」。違うのは別に氷に覆われ世界が凍っているわけではないところだ。残念ながら世界は終わらない。
わたしたちは中学生と高校生のあいだの、自分がなにものなのかわからない時間を過ごす。クラスメイトたちは自分たちのことをニートだとおどけてみせたりしている。わたしもこの空白期間が嫌いじゃない。自分がなにものであるか少し曖昧になり、自分という存在に役職がなくて、それが自由に思えて心地よかった。
「たばこなんて吸ってたらだめだよ」
町のスーパーの裏の人通りの少ない通路の脇で啓介を見つけた。ちらっと見かけただけでよほど気づかないふりをしようかと思ったけれど、唯がいるからそういうわけにもいかなかった。わたしと唯は啓介を探していたのだからそんなことしたら唯に怒られる。
「谷本さんには関係ないだろ」
唯にさん付けする啓介を見て、その言葉遣いで不良を通すのは無理があるとわたしは思った。もうすぐ四月になるというのに風は冷たくて、しかし、コートを着るにはもう遅くわたしは適当なパーカーを着てきたことを後悔していた。啓介もパーカーを着ていて最悪だった。わたしが白色で啓介が灰色で形も違っていることが唯一の救いだ。唯は春にふさわしい軽さをもっていて、なおかつ生地がしっかりしていそうなトレンチコートを羽織っている。ベージュの優しい色が唯に似合っていた。
唯は啓介からたばこを取り上げようとするが、啓介は身をよじって避けたばこをふかす。唯は背が低くて啓介はかなり高いからなかなか唯の手は届かない。
「もーほっといたら?」
わたしは手をこすり合わせながら言った。わたしはちょっと離れた位置からふたりのことを持ってきた文庫に目を通しつつ見守っていた。
「でも……」
「大丈夫だよ、わたしと同じばか高に行くんだから。あの学校喫煙者多いんだって。啓介は予習してるんだよ。勉強だよ勉強」
「うるせーよ」
癪に障ったのか啓介はわたしのことを睨んでくる。
「だいたいやさぐれてたばことかケンカに走るのがばかじゃん。昔の漫画みたい。想像力の欠如。あ、今読んでる本に「いまの人間は、どん底に落ちても、丸裸になっても、煙草を吸わなければならぬように出来ているのだろうね」って書いてある。啓介みたい。でも、せっかくなら恋と革命に生きる人間の方がよかったよね」
啓介は左手で眉間を押さえた。効いている。わたしは啓介が『ルーキーズ』や『ろくでなしブルース』といった古いヤンキー漫画が好きなのを知っている。ようは見よう見まねで不良のコスプレをしているだけだ。
わたしは啓介のくわえているたばこをさっとかすめ取り、ひとくち吸って煙をくちの中に溜め、頬を指でつつく。わたしたちの頭の上にきれいな輪っかが浮かび上がった。
「やんならこれくらいできるようになりなよ」
「みなみ、たばこ吸うの!?」
唯が言った。声が裏返っていた。
「中一のときどうしても輪っか作るのがかっこよく見えて、お父さんのたばこくすねて練習してた。輪っか作れるようになったからやめたけど」
へらへらと笑いながらそう言った。今のわたしの姿はばかそのものだ。ふたりとも唖然として言葉を失っている。しばらくして唯が「どうしてそんなことしたの」とつぶやいたので、わたしは「構造のせいだよ」と答えた。そのうち啓介が大きなため息をついて、パーカーのポケットに手を突っ込み、くしゃっとしたラッキーストライクの箱を取り出してわたしに押し付けた。
「もういらん、やる」
「お父さんにあげとく。啓介がなにをしようが啓介の自由だと思うけど、心配している人間がいることは頭の片隅に入れときなよ。今はそんな余裕がないだろうけど、未来のために」
「うるせー、おれだって……。つーか、さっきの本からなんか言うのうざい」
「その返事にいくつか気の利いた引用があるけど聞く?」
啓介はまたため息をついて、わたしと唯を不思議そうに見つめると立ち去った。唯がなにか言いたげにくちを開くが、啓介は振り向きもせずにいってしまった。
「もうたぶん啓介はたばこ吸わないと思うよ。まだやさぐれているし不良のコスプレやめるつもりはあんまりなさそうだったけど」
「うん……」
「どうする? どっか寄る?」
「ううん、帰ろう」
特に話すこともなく帰り道を歩いて、唯の家に着いたのでわかれようとすると唯が「やっぱりもう少し歩きたい」と言った。わたしたちは夕暮れの中、近くの丘になっているところまで歩くことにした。丘の上はちょっとした休憩所みたいになっていて、そこでわたしたちはベンチに座って町を眺めた。町は赤く照らされており、昔からある家々と最近できたビルの高さがでこぼこですごくぶさいくに見えた。これ以上寒くなったら帰ろうかなと思ったところで、唯が話しかけてきた。
「みなみ、二年のときの国語の古井先生って覚えている?」
「覚えているよ。おじいさん先生で、お古って呼ばれてたよね」
「そうそう。お古の漢字の小テスト、間違えたら三〇回も書かされて……」
「あーたしかにそうだったね。一問間違えるだけで三〇回、五問間違えれば一五〇回書かされるんだ」
「書いてこないと毎回叱られて、みんないじめだって言っていて、うちもそう思った。どんなひとだって毎回満点を取れるわけじゃないし、一問も解けないひとだっている。書かされる量が多すぎてはじめから諦めるひともいて……一定数のひとが守れない心がくじけるだけで成長を促さないルールに、なんの意味があるのかうちにはわからなかった。怒られることだけが確定しているルールなんてルールじゃないって」
「唯は怒っていたんだ」
「怒ってた! ……でも誰もまともに抗議できなくて、ずっとそれが続いていた。それでね、芸術祭が近かった日の国語の授業で、やっぱりお古が小テストの件でみんなを叱ろうとしていて、うちはまたかって思っていた。授業がはじまって先生が小テストについてなにか言おうとしたとき、吉行くんが声を上げたの」
「啓介が?」
「うん、吉行くんはこう言った「ぼくはテストで間違った問題を三〇回も書くのが嫌です。国語の時間のことを考えるだけで、毎回吐きそうになります。一〇回に減らしてもらえませんか?」って。その言葉がうちのなかでどんどん大きくなってすべてになった。別の誰かが「おれもそう思う」って言った。うちも言った! 言葉が言葉を繋げて抗議の声がクラス中を渦巻いた。お古は真っ青な顔をしていて、吉行くんの言葉が先生を撃ったの」
わたしはその話は知っていたが、啓介が関わっていたとは思っておらずびっくりした。
「たたかったんだね」
唯はこくりと頷いた。
「でも先生はルールを変えなかった。次の授業から書きとりをやらないひとを叱らなくなって、うちすごくずるいやり方だと思った」
「それが啓介を助けたい理由なのかな」
「そう」
夕陽がさらに傾いて夜が訪れようとしていた。しかしまだ日は赤く、わたしたちは夜が来るのを待っていた。なんとなく帰る気になれなかった。わたしたちはただ暗闇を待った。
ふと唯とのメッセージのやり取りを見る。
《啓介は覚えていないだろうね、なんとも思ってないんじゃない?》
《そうかも》
《唯のことはずっと覚えていたからそれでいいんじゃない。一〇年ぶりに啓介にあった感想はどう?》
《たばこ吸ってなかった! うちのことすぐ気づいてすごいと思った》
《お礼をずっと言いたかったんだよ、たぶん。わたし、高校ではあまり啓介と話さなかったし、三人で遊ぶこともなかったから機会がなかったんじゃない?》
《なんかうち照れるなあ》
《わたしも久しぶりに啓介に会いたいな》
啓介は唯にあのころ気を遣ってくれたことにお礼を言った。啓介としてはどうして唯があんなにかまってくれていたのか理由が知りたかったのだろうが、漢字の小テストの、古井への抗議のことを忘れてしまっていた。これが唯と啓介のあいだに起こったことの顛末だ。
小テストの話にはつづかないつづきがある。
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