第2話

唯と仲良くなったのは中学に入って間もないころだった。中学校はわたしにとっていい環境とは言えず、友だちは幼馴染の啓介しかいなくて、その啓介ともクラスが別になっていじけていた。わたしは教室の机に突っ伏して新しい環境を恨んでいた。そんなとき隣の席になった唯がわたしに声をかけたのだ。

「ねえ、えっと、申し訳ないんだけど次の授業の教科書一緒に見せてくれないかな……」

 唯が教科書を忘れてきたのは、わたしが覚えている限りこの一回だけだった。今思うと唯も新しい環境に緊張していたのだと思う。わたしは短く「わかった」と答えた。「ありがとう……えっと、佐川南青紀くん……で合ってるよね?」わたしはぎゅっと胸が押しつぶされるのをこらえて「南青紀って呼ばないで。佐川みなみ……佐川かみなみって呼んで。くんとかちゃんとかいらない」と言った。ほとんどやけくそだった。わたしは自分の名前にためらいがあって、それは名前を付けてくれた両親に対する愛情とは別の感情で、わたしにとってわたしの名前はみなみだった。みなみという音の響きが好きだった。それ以上も以下もない。余計な詮索をするやつはぶっ飛ばすし、いらない気づかいもうっとおしい。こいつがどんな反応をするか見てやろう。そんな意地の悪い思いが頭をよぎった。しかし、唯はそんなわたしの言葉に臆することもなく「わかった。みなみって呼ぶね」と言った。わたしは唯のみなみと言った発音がとても自然で、わたしが今までもこれからもずっとみなみでありつづけるような言い方だった。わたしは顔を上げて唯の顔を見た。唯は軽く微笑んだ。黒い髪がきれいで、教室の窓から流れる春風に揺れたロングヘアがとても似合っていて、なによりその特別なことはなにもしていないという表情が最高だった。あとは自然に言葉が風に乗って運ばれてわたしたちはすぐに仲良くなった。

それからわたしと唯はずっと友だちだ。

唯の余計なことをしない性格はわたしととても相性がよかった。クラスの中で揉め事が起こっても、唯は干渉せずに傍観していた。それはただなにも考えていないわけではなく、意見を求められれば公平な発言ができるし、解決を手伝えと言われればいつも適切な対応で、ことに当たることができる。人当たりもよくて優等生と言われている。実際に勉強もよくできてわたしや啓介とは大違いだった。しかし、わたしが学校に漫画やお菓子を持ち込んでくることになにか言ったりすることはなく、わたしがそれらをすすめると、ごく自然に漫画を読んでお菓子を食べる。だから、みんなが言っているような優等生ではないとわたしは思う。

「吉行くん、体育のあいだ大丈夫だった?」

 ゆえにこの啓介への執着はなんなんだろうとわたしは不思議に思う。

「唯ってそんなひとに情けをかけるタイプだっけ」

 カフェはそこそこ混んでいて、わたしたちは少し大きい声で話さないといけなかった。右隣の席では男女のスーツを着たひとが、パンフレットをテーブルいっぱいに広げて、熱心に自分の仕事がいかに有益であなたの人生をもっと素晴らしくすることができるというようなことを、向かいのテーブルの中年の男性に説いていた。左隣の席では幼稚園児くらいの子どもを連れた若い女性が、席を立って駆け出そうとする子どもを叱りながら紅茶を飲んでいた。

「情けなんてうちかけてたっけ」

唯はコーヒーにスプーンを入れてかき混ぜながら言った。

「ブラックコーヒーにスプーン入れる必要ないでしょ」

「あー、そうだね。うちなにやってんだろ」

「ほんとに唯がなにやってるかわたし全然わからない」

「砂糖入れないのにね」

「そうだけど違う。啓介のことそんなに気にしなくていいのにって」

 わたしはココアをひと口飲んだ。甘くておいしい。わたしは唯と違って甘いものの方が好きだ。

「でも吉行くんどんどんひどくなってる。学校もあまり来ないし……」

「そんなに悪いっけ。ケンカするのはいつものことだし……あーでも隣のクラスの植田だっけ、啓介の落とした財布拾ったら睨まれて一触即発になったの。ああいうだめなケンカの売り方はたしかに珍しいかも。愛想の悪さはそんなに変わらないと思うけどやたら攻撃的だよね。社会のタニシにシャツ出すなってめっちゃ怒られてたし。あとたばこ吸ってるのも悪いっちゃ悪いのか。わたしは別に本人の好きなようにすればいいと思うけど」

「たばこ吸ってるの!? なに!?」

 唯は思ったよりびっくりしたらしくすっとんきょうな声を上げた。わたしは思わず笑ってしまいそうになった。

「ラッキーストライクだったよ。お父さんが同じの吸ってるからわかった。たばこ高いのによく買うよね」

「そういうことじゃなくて」

「なにって聞くから」

 唯は腰を浮かしてそわそわしている。今から止めにいくつもりなのだろうか。

「先生とかにばれたら高校もいけなくなっちゃうかもしれないんだよ」

「先生だったら全力で隠ぺいするんじゃない? 自分んとこの生徒がたばこで高校いけなくなったらまずいじゃん。それに啓介はいくつもりないんじゃないかな。志望校落ちたし。わたしと一緒のばか高だよ。名前書ければ誰でも受かるとこ」

 唯は頬杖をついてふさぎ込んでしまってわたしがおどけたのにも気づかない。

そもそも啓介が志望校に落ちることは誰の目に見ても明らかだった。無謀だった。本人は本気で落ち込んでやさぐれているけれど、どう考えたって身の丈に合わない挑戦だった。

唯はまたコーヒーにスプーンを浸している。なにか言おうと思ったけれど、これ以上からかっても悪いと思い、わたしは黙ってぬるくなったココアを飲んでいた。店内にはビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」が流れている。この時間のカフェにいる人たちがハードデイズな日々を過ごしているとは思えないし、ナイトという時間帯でもなく、すごく不格好に聴こえた。くだらないことを考えていると、ふいに唯がくちを開いた。

「誰だって悪い道へ落ちようとしているひとがいたら引きとめると思う」

「そうだね、そうかもしれない」

 唯らしくないとか唯っぽくないとかくちを挟もうとしたけれど、わたしはやっぱり言わないでおいた。わたしが考える唯らしさを押し付けたくなかったからだ。

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