その名で呼ぶな、世界が変われ

波止場 悠希

第1話

 わたしがこの手記をまとめようと思ったのは、唯からの《吉行くん小テストのこと覚えてなかった!》というメッセージを読んだからだ。唯と啓介は昨日一〇年ぶりに再会した。唯の好きなアーティストのライブがあって、そこで偶然二人は出会った。啓介もそのアーティストのライブを見に来ていて、ラウンジで唯を見かけた啓介が声をかけた。しかし、啓介は小テストのことを覚えていなかった。唯は覚えていてわたしに伝えた。そしてわたしは唯にも伝えていないそれにまつわる記憶を手記にしてまとめたいと考えた。もう一〇年も前の話をわたしは思い出そうとしている。

こんなだらしない前書きみたいなものを書いているのは、わたしが風邪にかかっていて、半ば意識が朦朧としているのが大きいような気もする。今わたしは近所の病院で診察を待っていて、その長い列の末端にいる。風邪はほんとうにしんどく、病人と医者しかいない空間にはうんざりしていて、豚箱にでも押し込まれたような気持になる。ジャージの上に何枚も重ね着をしてダウンも着込んでいるが、寒さは止まらずふるえるからだと重い頭で朦朧としている。白くて清潔な内装と灯りに居心地の悪さを覚え、子どもが診察室で大声で泣きわめいていて、静かにお行儀よく待つことに対する違和感になっていることが、唯一の救いだ。このつらい待ち時間をやわらげるためにも、わたしはこの手記を書こうと思うし、これは忘れてはならないことについての忘備録だ。


 教室の窓際はもう三月なのにまだ冷たい気配がある。息が白くなることはないけれど、心から納得できる春が待ち遠しかった。 

「なにしに来たんだろうって思うよ」

「勉強しにじゃないの」

 唯は窓から校門の方をちらちら見ながら言った。

「唯は勉強できるし好きだからそう言えるんだよ。わたしばかだから勉強しに学校に来てるなんて言えないし」

「みなみ、国語の成績いいじゃん」

「国語だけよくてもなんにもなんないよ」

 わたしはランチのお弁当のミートボールをつつきながら言った。唯は購買で買ったフルーツサンドを食べていて、わたしもそっちにすればよかったと後悔している。

「あと漫画のセンスがいい」

「なにそれ」

 唯は鞄の中から一冊の漫画を取り出した。『アントロポセンの犬泥棒』だ。

「もう読んだの? 貸したの今日の朝じゃん」

「まだ半分だけどね。「野豚物語」ちょうかっこいい」

「いいよね、あのセリフ……ええっと」

「あれだよ「構造を撃て!!」でしょ」

「その前も含めていいんだよ……ちょっと見して」

 わたしは唯と一緒にページをめくってセリフを読む。「ここから。「権力は決してわれわれの中に偏在しているんじゃないのよ」……「権力の中心は思いもよらぬ場所にあるはず」「構造を撃て!!」……さいこう!」

「ね!」

 わたしは唯のこういうときにわかってくれるところが大好きで、漫画のセンスがいいって言われたのもまんざらでもない。

「あっ……」

 わたしが悦に入っていると、唯が窓を見てそわそわしている。校門から校庭を突っ切ってひとりの男子生徒がふらふらとやってくる。

「なんだ啓介か」

 わたしは特別つまらなさそうに言った。

「うちちょっといってくる」

 唯がそう言って小走りで教室から出ていく。クラスメイトたちが唯をチラ見するけどすぐに視線は外れる。またいつものことだと思っているのだろう。

「唯、ちょっと待ってよ。わたしもいく」

 唯を追いかけてわたしも教室を出る。廊下の冷えた空気がからだを突き刺す。階段を下りて昇降口にたどり着くと、唯が啓介と話していた。

「体調悪かったの?」

「別に……」

「午前中の授業のプリントとか机の中にしまってあるよ。あとノートも」

「もう今さら勉強したって遅いだろ」

「はあ? なにその態度むかつくなあ」

 思わずくちから言葉が飛び出した。啓介は気だるそうにわたしを見ると靴を履き替えて階段を上がっていった。

「無視かよ、なにあいつ。くっそ腹立つ」

 わざと聞こえるように大きな声でわたしは言った。

 唯はそんなわたしを見て困ったように笑う。

「その笑顔困るって……あ、次体育だよね? わたし体操服持ってかないと」

「吉行くんにも言わないと」

「次体育なのあいつわかってないかも。わたしが言っとくよ。着替えるの一緒だし」

「うん、ありがとう……吉行くんどうしちゃったんだろうね」

「啓介は昔からあんなんだったよ? ぶっきらぼうだし愛想ないしひとの好意とか考えないし」

「それはみなみが今吉行くんとケンカしてるのもあるんじゃない?」

「だってあいつわたしのことわざと南青紀って呼んだんだよ。絶対に許さない」

「それは……そうだね」

 唯がまた困った顔をするので、わたしはこの話を打ち切った。外から強い風が吹いて、手から首から学ランの隙間から冷たい風が入り込む。

「ねえ唯、やっぱり聞こえないかなあ」

 わたしは耳を澄まして言う。

「またあれ? うちにはわからんよ」

 学校の隣には教会が建っている。海外映画でよく見るりっぱなやつじゃなくて、もっとこじんまりとした民家のような建物だ。強い風が吹く日には、その教会からうたをうたっている声が聞こえてくるとわたしは思っているのだけれど、誰にも同意されたことはない。平日に賛美歌をうたうことはあまりないようだし、きっとわたしの勘違いだと思うのだけど、わたしにはどうしてもあの小さな教会から外にまで届くような大きなうたが聞こえるように思えてならないのだ。

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