かつて、陸へ

牧 文弥

かつて、陸へ



「アズマさん、運転変わりませんか?」

 ハンドルを握って俯く彼女にそう聞くのは何度目だろう。そして、首を横に振って返す姿を見るのも。

「もういいです。それより、聞いてませんでしたけど武蔵野のどこに行くつもりなんですか? 所沢?」

「ううん、もっと下」

 ……下?

「もしかして、南を下って言ってます? だとしたら地図の読み方から」

「それくらい分かってるっ!」

 そう言うと彼女はハンドルに乗せた頭をこちらに向け、地面を指差し口を開く。

「だからさ、下だよ」

 彼女の指に従って視線を下ろせば、日の傾きも手伝ってそこには真っ黒な闇が広がっている。そしてその向こうにあるのは――。

「アタシはね、地底人なんだ」

 その言葉を合図にエンジンが鳴り、キーに付いたハゼのキーホルダーの音が響く。

 私たちの夜が始まる。



 地底人。かつて本州の地下を我が物とし、フォッサマグナに一大帝国を築くまでに至った彼らの存在を知る人間は少ない。そんな彼らの末裔が地上に出てきたとは一体どうしたことだろう。

「地上征服でも始めるつもりですか?」

 こういう質問はストレートな方がいい。冗談ならそう言ってもらえるし、運が良ければ冗談ってことにしてもらえる。歴史の証人なんて私はごめんだ。

「征服か……。あそこはもう人間の場所だからなぁ」

「ずいぶんと謙虚なんですね」

「まぁだからね。」

 そう言ってくつくつと笑う彼女の姿は人間と変わりなく、事前の知識が無ければ信じようともしなかっただろう。正直に言えば今だって半信半疑だ。前方よりハンドルを眺める時間の方が長いドライバーがあの地底人だなんて。

「日中の運転さえできない人が地底人だなんて信じられないですね」

「キミには考えられないだろうけどね、頭の上が抜けてることに恐怖するやつだっているんだよ」

「……だから夜しか運転しなかったんですか」

 その話を信じるのであれば、もし私や人類が帝国を築くとしても地底だけはやめた方がいいのだろう。

「それならどうして地上から武蔵野へ?」

 地底のことには詳しくないが、地上が繋がっているのなら地下だってそのはずだ。

「理由はいくつかあるんだけど、とりあえずはクジラかな」

「クジラ?」

「そう。アキシマクジラ。アタシたち地底人の末裔にとってはヒーローみたいなものなんだよ」

 海の生き物が、陸で見つかって、地底人のヒーローに? 交わらないキーワードに首を捻る私にくつくつ笑いを返した後、アズマさんは話を続けた。

「私たち地底人のことを覚えてる人間なんて今じゃ誰もいない。偶然骨が見つかったって、まさか地底人だなんて思いもしないだろうさ」

「悲観し過ぎですよ」

「それは地上のやつらの考えさ。今の地底は寂しいもんだよ」

 その言葉を否定するには私は地底を知らなすぎた。

「だからアキシマクジラに憧れたんだ。誰も自分を知らない場所で死んだのに、アイツは町に愛されてる。誰も忘れたりなんてしないだろう。地底のやつらはみんな憧れてた」

 そんな彼女の言葉は窓の外の暗闇へと消えていった。

私がつい口を開いてしまったのは、その声があまりにも寂しかったからだろう。

「……地底の人同士で覚えていればいいんですよ。そしたら――」

「そういうことじゃないんだ」

 その言葉と同時に、彼女はアクセルを踏み込む。さっきの私の声はもう遥か後ろだ。

「今日はもう寝な。助手席とはいえ疲れただろ」

 それが彼女の線引きであることは短い付き合いの私にだって分かった。だから、謝罪の意を込めて私は言葉を返す。

「そうですね。お言葉に甘えて休むことにします。アズマさんも休んだらどうです?」

 このやり取りで終わりのはずだった。彼女もそれに同意して、二人で休んで、そして明日からまたドライブが始まる。簡単なことだったのに、彼女はそうはしなかった。

「それは遠慮しておくよ。だってアンタ、”枕返し”だろ?」

 私が何者かなんて彼女にはお見通しだったらしい。



 私の半生を振り返って思うのは、なんと流されやすいのだろうということだ。あまりの流されやすさに断り方をレクチャーしてきた友人さえいたのだから、世間一般から見ても相当なのだろう。

 とはいえ、その世間というものが人と異なる私にはあまり関係のないことでもあった。枕返しとして全国を飛び回る両親に憧れていたのもあり、流されるだけで彼らと同じように仕事をもらえる状況に甘えてすらいた。

 だから、彼女の枕を返してほしいとの神託が来たときも、内容も聞かず二つ返事で受けてしまったのだ。相手がほとんど眠らないなんて考えもせず。

「……いつから気付いてたんですか?」

「いつっていうか、最初からかなぁ」

「最初!?」

「だってそうだろ? アタシがヒッチハイカーだったら路肩でガタガタ震えてる奴なんかに声かけないって。だからコイツはアタシに用があるんだろうなーって思っただけ」

 なんということだろう。気付かれずに枕を返してこその枕返し。それなのにまさか初見で見抜かれていただなんて。

「……というか、じゃあなんで乗せたんですか!? 枕返されちゃいますよ? 死者の国に送られちゃいますよ? 武蔵野どころじゃないですよ?」

 私の専門は罪人の枕を返し、死者の国に送ることだ。生きていれば必ずやってくる睡魔を味方につけ、どんな時でも仕事を果たしてきたのだ。

「それは無理だと思うよ。だって私、もう死んでるから眠らないし」

「はあああぁぁぁぁぁ!!!????」

 いきなり飛び込んできた特大級のカミングアウトに私は叫び声をあげることしかできなかった。

「アタシもね、悪いとは思ってるんだよ。私のせいでキミが大変な目に合っちゃってるんだから」

「当然ですよ! ふざけてます!」

 私の声に「ごめんね~」と気の抜けた言葉を返す彼女。

「多分なんだけどね、枕返しちゃんに迷惑をかけたのは私のせいなんだよ」

 何をいまさら。そんな話はさっきしたばかりだろう。そう思いながら彼女の顔を覗き込めば、アズマさんはさらに申し訳なさそうな顔で話を続けた。

「おそらく逆なんだよ」

「逆?」

「うん。キミは枕を返して死者の国への扉を開く。じゃあ死者の国の門が先に開いた場合はどうだろう?」

「それは……」

 私の役目は枕と門でセットになっている。なら片方の準備が整ってしまったら……。

「じゃあ全部あなたが悪いんじゃないですか!!???」

「だからごめんって~」

 ふざけた謝罪の声に腹が立って、彼女の二の腕を殴る。殴る。殴る。

「事故っちゃうから! アタシたち死んじゃうから!」

「事故上等! 妖怪も死者もそんなにやわじゃないですから!」

 そんな私の抗議の拳は、車が街路樹にぶつかってようやく止んだのだった。



「ごめんなさい……」

「気にすることないよ。保険入ってたしさ」

「はい……」

 それでも気になるものは気になるが、聞かなければいけないものがあることも事実だった。

「一つ聞いてもいいですか?」

「ん? なになに? 枕返せないお詫びに答えてあげようか?」

 車のことさえなかったらまた殴ってるのに。いや、話すべきはそうじゃない。

「死者の国から抜け出した理由って、本当にアキシマクジラだけなんですか?」

 いくらヒーローだからって、死者の国を抜け出すには少し軽い気がした。それに、アズマさんは目的地を聞いたとき確かに言ったのだ。下、と。

「よく分かったね」

 そう言うと彼女は来た方を指差し、話し始めた。

「アタシとキミが出会ったのは関西でしょ? でもね、別にそっち出身ってわけじゃないんだよ。元々は武蔵野生まれなの」

「じゃあ里帰りに?」

 アズマさんはうーんと唸りながらポケットから車のキーを取り出すと私の目の前に突き出した。キーホルダーのハゼが私を見つめている。

「これ、何だと思う?」

「キーホルダーですよね」

「なんの?」

「えっと……ハゼ?」

「半分正解。正確にはムサシノジュズカケハゼだよ」

 正解でいいだろうという抗議の視線を投げると、アズマさんは肩をすくめてみせた。

「アタシにとってはそれが重要なんだ。コイツは武蔵野で生まれたからムサシノジュズカケハゼなんじゃない。ムサシノジュズカケハゼとして生まれたからムサシノジュズカケハゼなんだ」

 私は曖昧に頷くことしかできなかった。その違いが何なのか、私には分からない。

「それってそんなに大きな違いですか?」

「もちろん。だってこれがアタシの帰る理由なんだから。アタシは武蔵野で生まれたから武蔵野の地底人なんだ! ルーツを知らないままなんて嫌なんだよ!」

 深夜の道に彼女の声が響く。

「アタシは向こうで幸せに生きた。でもさ、それはアタシだけの人生だ! 両親の、祖父母の、彼らの親友たちのことを何も知らないまま死んだアタシだけの人生! それが孤独でなくて何だというんだ!」

 そこまで聞いて、ようやく私にも彼女に言いたいことが理解できた。

 そして同時に気付く。アキシマクジラは本当にヒーローだったのだ。一人で死に、それでも多くに人々に愛される彼の眩しさが、今の私には分かった。

「ここまで話したんだ。最後にキミにもう一つ謝らなくちゃいけないことがあるんだ」

「まだあるんですか!?」

 ここに来ての告白に思わず食って掛かる私をアズマさんはどうどうと宥める。

「なに、特別なことは何もない。私を覚えていてほしいってだけさ」

「へ?」

 ここまで無茶苦茶をやってきた彼女からのシンプルなお願いに、思わず言葉が詰まってしまう。

「だってさ、武蔵野の地底で過去を知ったって隣に誰もいなければそれで終わりだろう? それが嫌だからキミを拾ったんだよ」

「そういうことだったんですか……」

「そうさ。きっと君はこれからもいろんな人と出会う。アタシを覚えてるキミがさらに誰かに覚えてもらう、そうやってずっと続いていってほしいんだ。それがアタシの地上征服計画さ」

「やっぱり征服するつもりじゃないですか!」

 視線を合わせ、私たちはひとしきり笑い合った。

 地上征服、いいじゃないか。今日から私も陸のクジラだ。

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