最終話 私達と忘れ水の話


 日々の煩わしさを一時でも忘れられる。

 そんな珈琲を提供したいなんていう理由で「レテ」という店名にした。

 というのは建前で、愛猫の名前をそのまま付けたというのが実情だったりする。

 とは言っても、コーヒーより栞の作るスフレ目当ての客の方が多いのは、少し予定外だけど。

「なんかスイーツ目当てのお客様が多くなっちゃいましたね」

 栞はワタワタと忙しなく動きながら、どこか嬉しそうに笑う。SNSでどうやら彼女の作るスイーツが評判になったらしく、近所の女性が世間話に花を咲かせる為に来てくれるだけでなく、遠方からわざわざ足を運んでくれる人も増えた。

 肝心のコーヒーの方だが、一度だけ珈琲専門の雑誌が取材してくれたおかげで栞のスイーツ目当ての客と比べると少数だが、それでも私の作ったオリジナルの味を好んでくれる人がいるというのは、存外嬉しかったりする。

 忙しないながらも充実した生活だと思う。なんというか、二人で何をする訳でもなく部屋の中で過ごすのも楽しかったけど、こういう労働を肯定的に捉えている自分も私の中に潜んでいたのかと思うと、少し苦笑してしまう。



 過去を精算する、なんて大袈裟な言葉で私達は惹かれあったのかもしれない。

 私は栞に対する罪悪感で、栞は自分に対する不甲斐なさで。

「そろそろ、店閉めますか?」

 時刻も七時を回り、客も今は店内にいない。カップを洗いながらもボーッとしていた私に栞はそんなことを言ったが、栞の作ったタルトがまだ三切れ程残ってあるのを確認しているので、少し渋った。

 あと三人くらいなら一時間も開けていればくるだろうし、廃棄するのも勿体無い。晩御飯代わりにしても良いけど、正直今日は甘い物でお腹を満たす気分でも無かった。

「じゃあ、先に上行って晩御飯作って来ますね」

「うん、ありがとう」

 栞が生活スペースである二階へ上がっていく音がした後、カウベルが控えめな音を鳴らした。

 訪れたのは、老夫婦というには少し若い二人だった。上品なジャケットを着た男性と、嫌みたらしくない宝飾類とカシミアのストールをつけている女性。二人とも六十代位だろうか。

「……まだ、やってるかね?」

「ええ。ごゆっくりどうぞ」

 二人を席に案内してから注文が来るまでの間、することもないのでカウンターの奥でスツールに座りながら様子を眺める。

 どうやら余り会話を交わす様な夫婦では無いらしく、ポツリポツリと二、三言話したかと思えば、すぐに二人とも口を閉ざしていた。

 そんな関係が長年続いているのだろうと、私でも分かるほどにその静寂は自然で、そこに気まずさや不穏さは存在していない。

 二人にとってそれが自然体なのだろうな。

「注文、いいかな?」

「あ、はい。どうぞ」

「オリジナル珈琲とタルトのセットを二つお願いします」

「了解しました」


 コーヒーカップとコーヒーソーサーの擦れるような金属音だけが、店内を控えめに支配している。

 時折頷きながら、老夫婦はタルトを食べたりコーヒーを飲んだりするだけで、二人の間に会話は無かった。

 普段気にしていなかったけど、店内BGMとして有線の契約でもしようかな、と逡巡する。

 ジャズなんかもオシャレでいいかもなぁ、栞に相談してみようかな。

 そんなことを考えて時間を過ごしていると、老夫婦は静かに立ち上がった。

 どこか名残惜しそうにテーブルの上を眺めた後、二人はゆっくりと会計を始めた。

「ありがとうございました」

「あの……タルトは君が?」

 旦那さんがゆっくりとした丁寧な口調で訊ねる。

「いえ、一緒に店をやっている者が作ってますよ。私はコーヒー担当ですから」

「そうか。ああ、君はコーヒーを淹れてくれたのか。とても美味しかったよ」

 微笑を浮かべた男性の顔には深い皺が刻まれたが、同時に思い至る。

 ああ、この二人は、栞の——。

 半ば縁を切ったと言っていたし、連絡をとっている様子もなかったので、どうやってこの店を見つけたのか分からないし、そもそも私の勘なので当たっているのか分からないが、笑顔がどことなく栞に似ているので、この二人は栞の両親なのだろう、と想像した。

 栞を呼ぼうとも思ったが、二人が名乗らない以上、私が余計なお節介をする訳にもいかない。

 だから、これは私の自己満足でしかないのだろうけど。

「あの……」

 店を出ようとする二人を、私は控えめな声で引き止める。

「栞は——もう、大丈夫です」

「………」

「私とレテが、栞を守りますから」

 それは、ある種残酷な言葉だ。

 両親に対して、娘を守る役目は終わったのだと、宣告しているようなものだからだ。

 とはいえ、告げずにはいられなかった。栞が、私の後輩だった時。

 私は栞を守れなかった、支えられなかった。だというのに、彼女はそれでも私を信頼してくれていた。

 去勢を張っていた私の影を、そのまま信じていてくれた。

 だから、今度こそは。

「君のコーヒーを飲んだからだろうね、すっかりと忘れてしまったよ」

 何を、忘れたのだろうか。

 その男性は具体的なことは何も言わなかった。

 奥さんの方は旦那さんの言葉にクスクスと小さく笑顔を溢していた。

「本当は、連れ戻しに来たんだが。君のコーヒーと、娘のタルトを食べたら、ここに来た目的なんてものは、とうに忘れてしまった」

 そう言うなり、二人は栞と顔を合わせることなく、去っていった。



 閉店作業を済ませて二階に上がると、栞が丁度準備を済ませたところで、食卓には味噌汁や里芋の煮物、焼き魚にほうれん草のおひたしと、和食が並んでいた。

「どうでした?お客さん来てたみたいですけど」

「うん、タルト、全部出たよ」

「あ、じゃあ菫さん食べられなかったんですね」

 と、少し残念そうに言う。

 日替わりでタルトの中身は変わるのだけど、今日はそんなに珍しい果物でも使っていたのだろうか。

「柚子と黒豆のタルトだったんですよ。実家の和菓子屋の味を、タルトで再現してみたんです。菫さんにも食べてもらいたかったなぁ」

「……私なんかより、もっと食べるべき人が食べれたんだから、それでいいんだよ」

 偶然。

 そんな言葉一つで片付けるのは簡単だけど、きっとそれは、栞が実家の味を忘れなかったから起こった奇跡のようなものだったのかもしれない。

 どういう意味ですか?

 なんて、訝しむ栞を誤魔化すように、食卓に皿を並べ終えた彼女の後ろから抱きついてみる。

 冷たいうなじが心地良くて、頬を擦り寄せる。

「なんか今日は甘えたい気分なんですか?」

「ん……栞に忘れられそうだったから」

「そんなこと、ある訳ないじゃないですか」

 半分笑いながら、もう半分でどこか怒るように、栞は言う。そして、首に後ろから回していた私の手を取った。

「ほら、ご飯、冷めちゃいますよ」

「うん。そうだね」

 絨毯の上に座布団を敷き直して、並べられた夕食の前に座ると、それを待っていたかのようにレテが膝の上に飛び乗ってきた。

 そして、撫でろと言わんばかりに、甘えた声を出している。

 仕方なく喉元を指先で撫でると、レテは目を細める。


「もし君が本当に何かを忘れさせる力があったとしてもさ」

 呟くように、私はレテに向かって小さな声で話しかける。

「私も栞も大丈夫だよ。もう、忘れたいことなんて、一つもないんだから」


 レテは短く鳴き声をあげる。

 忘れ去ってしまった記憶達を祝福するように、もう思い出せない記憶達を弔うように。


 私と君と忘れ水はこうして、また一つ夜を超えていく。

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私と君と忘れ水【完結】 カエデ渚 @kasa6264

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